第12話 うまく行くはずだった恋が、壊れた
行かないと決めたはずだった。
あの夜、『パラダイス』を飛び出したあと、大河は確かにそう決めた。
もうあの店には近づかない。
純平の「会いたい」にも応じない。
ただ閻魔王からの裁定を待つ。
それが最も理にかなっていると、納得させる。
関わらなければいい。それだけのことだ。
だが、「それだけのこと」が、想像していたよりも容易ではなかった。
翌日から、純平の「会いたい」は絶えることなく届き続けた。
最初は遠慮がちだった。控えめに触れては引くような、弱い波だった。
それが返さずにいるうちに、少しずつ質を変えていった。
強くなるのではない。
むしろ逆だ。
押し殺され、沈み込み、諦めにも似た色を帯びながら、
それでも途切れずに届く。
細く、長く、断ち切れない糸のように。
鬼の印へ触れては熱を残して消え、また触れてくる。
そのたびに、指先がわずかに震えた。
5日経っても、それは途絶えなかった。
同時に、裁定も来ない。
印は沈黙したまま、ポンちゃんの気配もない。
3つ目の善行がどう転んだのか、何も示されないまま時間だけが過ぎていく。
7日経っても、変わらない。
苛立ちが、じわじわと内側を焼く。
――なぜ、何も起きない。
純平は竜臣と交際したはずだ。
あれだけ執着していた男だ。
交わりを深め、いずれ同衾に至る。
そうなれば、善行は成立する。
なのに、何もない。
鬼神としての勘が、どこか狂っていると告げていた。
それでも、大河は耐えた。
行かないと決めた以上、動く理由はない。
人道に深入りするほど、己が崩れるのは理解している。
ここで踏みとどまるのが最善だ。
だが――
10日を過ぎた頃には、その均衡は崩れていた。
確かめるしかない。
そう考えた時にはすでに、大河の足は繁華街へ向いていた。
理屈はあった。
『パラダイス』に行けば、純平と竜臣の進捗がわかる。
順調に交わりを深めているなら、裁定が遅れている理由も推測できる。
ポンちゃんに頼らずとも、状況から判断できる。
――それは言い訳だった。
わかっていながら、大河はその言い訳を捨てなかった。
久しぶりに『パラダイス』の扉を押した夜、空気がわずかに揺れた。
「こんばんはぁ」
いつもよりも軽い声に、店内の流れが止まる。
最初に動いたのは純平だった。
グラスを持つ手が止まり、ゆっくりとこちらを振り向く。
目が合う。
何かを言おうとして、言えずに息を呑む。
それでもすぐに整えようとするが、
遅れて浮かんだ笑みは、最後まで形にならなかった。
「……大河」
小さく名前を呼ぶ。思っていたより掠れた声だった。
「よぉ」
視線を合わせず、軽くかわす。
その隣で、竜臣が動く。
純平の肩に置いていた手が、力を強める。
視線だけをこちらに向けて、何も言わない。
軽く笑っているようで、その奥が笑っていない。
大河は何も返さず、ボックス席へ向かった。
「……あんたさ」
背後から、セイさんの声が飛んできた。
グラスを拭く手を止めて、呆れたようにため息をつく。
「急に消えたと思ったら、何事もなかったみたいに戻ってくるのね」
「別に」
「別に、じゃないでしょ。純平くん、ここ最近ずっと落ち着かなかったのよ」
大河は返さなかった。返せる言葉がなかった。
「まぁいいわ。座んなさい」
軽く顎で示され、ボックス席へ身体を沈める。
健一が笑いながら寄ってくる。
「よっ、生きてたか。
急に消えるから、てっきり地獄にでも帰ったかと思った」
「うるせぇよ」
軽口を返すと、健一は満足したように自分の席に戻った。
その夜から、大河は再び通い始めた。
間を開けたぶん、余計に見えるものがあった。
二度目の夜。
純平の声は、以前よりも自然だった。
名前を呼ぶことにも、隣にいることにも、ためらいは見えない。
だが、言葉のあとに、ほんの少しの間がある。笑うまでに、ほんの一瞬遅れる。
説明できない違和感が、消えないまま残った。
三度目の夜。
竜臣が、何気ない調子で純平の肩に腕を回した。
軽い接触。恋人同士なら自然な接触。
――触るな、と咄嗟に思った。
純平は避けない。
だが、身体が、強張った。
すぐに力を抜き、竜臣に合わせる。
合わせて、寄り添う。
その動きが不自然だった。
四度目の夜。
「純平ってさ、ちゃんとしようとし過ぎなんだよね」
健一の言葉に、純平は曖昧に笑う。
その笑みが、やはり遅れる。
五度目の夜。
竜臣は、いつもより距離が近かった。
隣に座ったまま、自然な流れで腕を絡める。
そのまま、顔を寄せる。頬に触れるほどの距離。
あと少しで唇が触れる。――はずだった。
純平は、わずかに身体を引いた。
逃げるほどではない。拒むほどでもない。
だが、確かに――
受け入れなかった。
視線を外し、何事もなかったようにグラスへ手を伸ばす。
「これ、もう一杯もらっていいですか」
声はいつも通りだった。柔らかく、穏やかで、何も乱れていない。
竜臣は一瞬だけ止まり、すぐに笑って応じた。
「いいよぉ」
その笑顔は、崩れなかった。
だが、どこかだけが違っていた。
カウンターの内側で、セイさんが小さく息を吐いた。
三週間が過ぎた。
裁定は来ない。
純平の「会いたい」は変わらず届き続けていた。
大河は、応じなかった。
その夜、再び『パラダイス』の扉を押した。
「大河!」
店に入るなり、セイさんの声が強く響く。
「何でもいいから赤いの」
それだけ言って、ボックス席へ座る。
カウンターに目をやる。
純平はいない。
竜臣はいた。突っ伏したまま動かない。
「大河。今日はここに座って」
カウンターの左端の椅子を引かれて、迷う。
「なんで」
「いいからっ」
セイさんの勢いに負けて、腰を下ろす。
「大変だったのよ、ここ最近」
「何が?」
「あの子よ」
親指で竜臣を指す。
竜臣が顔を上げる。ひどい顔だった。
「どしたの、あれ」
セイさんが一度だけ大河を見て、ため息をつく。
「別れたのよ。純平くんと」
思考が止まる。
「別れたぁ? どういうことだよ」
「声でかいって」
声を落として続ける。
「……少し前よ」
その言葉に、大河の中で何かが繋がった。
ここ数日の違和感。
遅れる笑みに、触れた時の停止。
――あれは、そういうことだったのか。
「何が、あったんだよ」
竜臣が、乾いた声で応える。
「楽しかったよ。すごく優しいし。でもさ」
鼻を啜る音がおかしな間になる。
「いっつも。どっか違うとこ見てんだよね」
指先がカウンターを叩く。
「近づくと、一瞬止まるんだよ。すぐ笑うけど、ちょっと止まる」
見ていた。何度も見ていた。
だが――今まで、何ひとつ理解していなかった。
「キスもしないし、そんなん、恋人じゃないじゃん」
再び突っ伏した。
「問い詰めたらしいわよ」
セイさんが、低く言う。
「他に好きな人がいるんじゃないかって」
竜臣がおもむろに顔を上げた。
「あーあ。初めて、もらい損ねた」
「あの、バカ……」
声が漏れる。
胸の奥で何かが弾けた。
「……あの野郎」
喉の奥で、低く音が鳴る。
「せっかく、俺が――」
言葉が続かず、舌打ち落ちた。
椅子から飛び降りる。
「おい、大河」
すかさず竜臣に腕を掴まれる。
「勘違いすんなよ。オレは恨んでないからな」
「竜臣じゃない」
低く吐き捨てる。
「俺のためだ」
何のためなのか、わからないが止まれない。
大河は『パラダイス』を飛び出した。
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