帰り道の憑物
神代原 悠真
帰り道の憑物
圭介が実家に連絡を入れてきたのは、十年ぶりだった。
高校を卒業してから、一度も会っていない。母は圭介のことも、俺たち三人が昔よく一緒にいたことも知っている。だから特に不思議にも思わず、俺の連絡先をそのまま教えたらしい。
最初に思い出したのは、死んでしまった拓海の顔じゃなかった。
あの冬の夕方、拓海の葬式の帰りに圭介と座った、公園のベンチでの会話だった。
読経のあいだ、会場の屋根を打つ雨音が一時だけ強くなった。長くは続かなかったが、その音だけが妙に耳に残っている。あのときの俺は、それすら拓海のために空が泣いているみたいだと思いかけて、すぐにそんな柄でもない考えを打ち消した。
雨は、式が終わるころには止んでいた。
けれど、外へ出たあとの空気にはまだ湿り気が残っていて、冷え込みだけが一段深くなっていた。アスファルトは黒く濡れ、駐車場の隅には薄い水たまりがいくつも残っていた。吐く言葉まで冷たくなりそうな夕方だった。
拓海は三日前の夜、用水路で見つかった。
見つかった、という言い方は正しくないのかもしれない。正確には、二日後、下流の溜まりに引っかかっていた。落ちたときに頭を打って、そのまま流されたのだろうと大人たちは言っていた。警察も事故として処理しているらしかった。
あの日、俺は学校に残っていた。別にいつも待ち合わせていたわけじゃない。ただ、この辺じゃ帰る方向が同じ連中は、なんとなく一緒になることが多かった。
「行くか」
会場を出たところで、圭介がそう言った。
俺は無言でうなずいた。ここでじゃあな、と別れてもよかったのかもしれない。けれど、そうならなかった。拓海の葬式が終わったばかりで、そのまま一人で帰るには、空気が少し重すぎた。
向かった先は、近所の公園だった。
住宅街の真ん中にある、小さくも広くもない公園。滑り台とブランコと砂場、それに少し古い鉄棒だけの、どこにでもある場所だ。けれど俺たち三人にとっては、昔からそこが当たり前の場所だった。小学生のころは、日が沈むまで鬼ごっこをした。中学に入ってからは遊具で遊ぶことも減ったけど、それでも学校帰りにベンチへ腰かけて、どうでもいい話をする癖だけは残った。
その三人のうち、一人がもういない。
公園に着くころには、夕方の明るさはだいぶ薄れていた。さっきの雨のせいで地面はまだ湿っている。ブランコの座面には水滴が残り、街灯のつかない半端な暗さの中で、遊具はどれも沈んで見えた。風が吹くたび、濡れた鎖がかすかに鳴った。
俺と圭介は、いつものベンチに並んで座った。
木の板は冷たかった。喪服の上着を脱いできたはずなのに、式場の空気がまだ肩のあたりに貼りついている気がした。しばらく、どちらも口を開かなかった。遠くで車の音がして、それもすぐに消えた。公園のまわりの家々には、ぽつぽつと明かりがつき始めていた。
先に口を開いたのは、俺だった。
「……まさか、事故とはいえ、拓海が死ぬなんてな」
自分の声が、思っていたより乾いて聞こえた。
「まだ、信じられない」
圭介は前を向いたまま、少し間を置いてから言った。
「誰だって、いつかは死ぬだろ」
俺はそっちを見た。
圭介は、濡れた地面の向こうを見ていた。
「早いか遅いかってだけだ」
「今、それ言うか」
「間違ってないだろ」
圭介は昔から、こういうときほど言葉を整えるやつだった。感情をこぼす代わりに、起きたことを順番に片づけるみたいに考える。あれも、たぶんそういうことなんだろうと、そのときは思った。
俺はそれ以上言えず、ベンチの前へ目を落とした。雨の残りで黒くなった土の上に、細い枝が一本落ちている。
「……拓海のこともだけどさ」
何を言えばいいのかわからないまま、口を開いた。
「おじさんとおばさん、見てるのきつかったな」
圭介は小さくうなずいた。
「そうだな」
「あんな急に、子どもがいなくなるなんて……受け止められるもんじゃないだろ」
「まあな」
それから少し間を置いて、圭介は静かに言った。
「でも、過去は変えられないし」
俺は黙ったまま、視線を上げなかった。
「結局、現実を受け入れて前を向くしかないだろ。あの人たちにも、そうしていってほしいけどな」
それも、圭介らしい言い方だった。つらさをつらいまま置いておくより、どうにか形にして飲み込もうとする。あいつなりに、拓海の死を受け止めようとしているのだろうと、そのときの俺は思った。
ブランコが、風でひとつ鳴った。
「ここ、変わらないな」
圭介が言う。
「ああ」
「昔、よくいたよな。俺ら」
「いたな」
その言葉で、少しだけ記憶が動いた。拓海は鬼ごっこになると、すぐ植え込みの向こうや遊具の陰に走っていった。圭介は隠れる場所を見つけるのが妙にうまくて、俺はだいたい最初に見つかる側だった。冬は三人でこのベンチに並んで、誰が一番長く座っていられるかとか、そんなくだらない勝負もした。
「拓海、こういうの好きだったよな」
圭介が言った。
「寒いのに、わざわざ外いたがって」
「……そうだったな」
「冬でも平気な顔してたし」
その言い方に、わずかに引っかかるものがあった。拓海がそういうやつだったのは本当だ。けれど、今の圭介の口ぶりは、ただ懐かしんでいるというより、何か別のものを確かめているようにも聞こえた。
「川とかも嫌がらなかったよな」
俺はそっちを見た。
「急に何だよ」
「いや。昔、ボールが用水路に落ちたとき、自分で取ろうとしてただろ」
「ああ……」
土手の下の細い水路が、ぼんやり頭に浮かんだ。濁った水と、落ちたボールと、身を乗り出した拓海。それから、何かの拍子に圭介が水へ落ちたことまで、続けて思い出しかけて、そこで止まる。
圭介はそれ以上言わなかった。ベンチに座ったまま、少し顎を上げて、雨上がりの空を見ていた。
俺は逆に、足元へ目を落としたままだった。黒く湿った土が、さっきより暗く見えた。
風が少し強くなって、濡れた土の匂いが動いた。
「拓海ってさ」
しばらくして、圭介が前を向いたまま言った。
「悪気なく人を怒らせること、あったよな」
俺はすぐには返せなかった。
「本人は冗談のつもりでも、言われたほうは残ることあるだろ」
「……まあ、なくはないかもな」
「近い相手ほど、雑になるやつっているし」
少し棘のある言い方だった。けれどそのときの俺には、もう拓海相手にああいうやり取りができないことを、圭介なりに持て余しているようにも見えた。
「おまえ、まだあのへん気にしてんのか」
言ってから、少し遅れて後悔した。
圭介は肩をすくめるでもなく、「別に」と言った。
「ただ、拓海ってそういうとこ鈍かったなって思っただけだよ」
俺は小さくうなずいた。
拓海が無神経だった、というのは否定しづらかった。明るくて、場を回すのはうまいくせに、相手がどこまで本気で嫌がっているかには妙に鈍いところがあった。圭介に対してだけ少し言い方が強いことがあっても、俺はずっと、あれは仲がいいからだと思っていた。拓海も圭介も、そういう距離なんだと。
そのとき、足元へ落としたままの視界の端に、影が入った。
人影がひとつ、そのまま静かにこちらへ近づいてきた。
俺は顔を上げなかった。足元へ目を落としたままなのに、少しずつ距離が縮まってくるのだけはわかった。暗くて、足元に伸びるはずの影も見えない。
また見たのかもしれない、と一瞬思った。
昔、たまにあった。夜道の端や、家の廊下の先で、誰もいないはずなのに誰か立っている気がすることが。大きくなってからはほとんどなくなったし、気のせいだったのだろうと思うようにしていた。
たぶん今回もそうだ。こっちに関わるものじゃない。通り過ぎるだけだ。
そう自分に言い聞かせて、俺は視線を落としたままにした。
けれど、その気配は消えなかった。
やがて、目の前で止まった。
見えているのは足元だけだった。
黒く濡れた靴が、ベンチの正面で止まっている。
そのつま先が、はっきりこちらを向いていた。
そこまで来て、ようやく、圭介が何も言わないことが妙に気になった。
こんな距離まで人が近づいてきているのに、圭介は気づいた様子もない。視線も動かさず、ただ前を見たままだった。俺の横で、さっきと変わらない顔をしている。
またか、と思った。
昔、ごくたまに見えたものと同じだ。俺にだけ見えて、俺にだけ近づいてくるもの。そういう類のものなのだと、そのときは半ば決めつけるみたいに考えた。
だったら、やっぱり目を上げないほうがいい。関わらなければ、そのうち消える。通り過ぎる。そういうものだと、自分に言い聞かせた。
けれど、目の前の靴は動かなかった。
黒く濡れた先端が、じっとこちらを向いたまま止まっている。
そのまま固まっていると、目の前の脚がゆっくり折れた。
下を向いたままの俺を、正面から覗き込むように、そいつは身を落とし、下から顔をのぞかせてきた。
死んだはずの、拓海だった。
声が出なかった。
制服姿のまま、全身が濡れていた。ブレザーもシャツも水を吸いきって重く張りつき、前髪の先からは雫が垂れている。ズボンの裾は黒く沈み、靴の表面にも濡れた鈍い光があった。
拓海は何も言わない。ただ、俺の目を見ていた。
その口元が、ほんの少しだけやわらいだ。
笑った、のだと思う。
大きくでもなく、楽しそうでもない。ただ、ごく短く、昔みたいに気を抜いた笑い方に近かった。
それから、拓海の口がかすかに動いた。
何か言ったように見えた。
久しぶり、と。
そう見えただけで、声は聞こえなかった。聞こえたのは、風に揺れたブランコの鎖が小さく鳴る音だけだった。
俺はただ、目の前の口元を見ていた。動いたのはほんの一瞬で、気のせいだと思おうとすれば思えたのかもしれない。けれど、あの形だけははっきりわかった。
その瞬間、目の前にいるのが本当に拓海なのだと、頭のどこかがようやく認めた。
体の奥が、すうっと冷えていった。
拓海はゆっくり立ち上がった。
その視線が横に動く。
俺もつられて、その先を見た。
拓海は圭介を見ていた。
さっきまでの、あのわずかなやわらかさは、もうどこにもなかった。目が見開かれ、頬が強張り、口元が歪む。人間の怒りというより、もっと濁って冷たい、恨みそのものみたいな顔だった。
鬼の形相、という言葉が頭に浮かんだ。
圭介は気づいていない。
気づかないまま、前を向いていた。
「……なあ」
圭介が言った。
その平坦な声が、かえって恐ろしかった。
「この冬に水の中って、寒かったろうな」
俺は何も言えなかった。
圭介は、まるで独り言みたいに続けた。
「すぐ動けなくなるだろうし。頭でも打ってたら、なおさらか」
喉が詰まる。
拓海は一歩も動かない。ただ圭介だけを見ていた。濡れた前髪の先から、今も水が落ちているように見えるのに、地面には何の音もしなかった。
「暗いしな、あのへん」
圭介はそう言って、足元の土をつま先で軽く擦った。
「用水路って、落ちると案外あっさり流れるんだろ」
その言い方に、背中が冷えた。
圭介の言葉が、妙に胸に引っかかった。けれど、その理由を考えたくなくて、俺は膝の上で指を握った。
「……そりゃ、寒いだろ」
ようやく出たのは、それだけだった。
自分でも、誰に向かって言ったのかわからなかった。圭介に返したつもりだったのか、目の前にいる拓海の姿に引っぱられたのか、それすら曖昧だった。
拓海は、さらに一歩、圭介へ寄った。
濡れた靴が土を踏んだはずなのに、やはり音はしなかった。
そのまま、顔が触れそうなくらい近くまで寄る。
圭介の横顔のすぐ前に、自分の顔を持っていって、覗き込むように睨みつけている。怒りで歪んだ顔が、圭介の視界を塞ぐくらいの距離にあるのに、圭介はまるで何もないみたいに前を向いたままだった。
拓海の目だけが、異様にはっきりしていた。
「人ってさ」
圭介がまた言った。
「死ぬとき、案外静かなのかもな」
ブランコの鎖が、風に小さく鳴った。
「助け呼ぶ暇もないかもしれないし」
俺の呼吸が浅くなる。
圭介は前を向いたまま、淡々と続けた。
「冷たいとか、苦しいとか、そういうのも最初だけで、あとはもうどうにもならないだろうし」
拓海の目がさらに細くなった。
怒りで睨んでいるのに、そこに混じっているのは怒鳴りたいのに怒鳴れないような、声にならない激しさだった。濡れた前髪が頬に張りついたまま、圭介の横顔のすぐ前で微動だにしない。
その光景が、ひどく現実離れしているはずなのに、圭介の言葉だけは妙に現実的で、余計に気味が悪かった。
「……やめろよ」
自分でも驚くくらい小さな声しか出なかった。
圭介がようやく少しだけ首を動かした。
「何が」
その問い方は、本当にわからないというより、言葉の続きを求めているだけみたいだった。
「そういう……言い方」
圭介は一度だけ俺を見た。
その目は暗くて、表情はよくわからなかった。けれど気分を害したようにも、怒ったようにも見えない。ただ、こちらが何に引っかかっているのか測ろうとしているようにも見えた。
「別に変なこと言ってないだろ」
「でも……」
そこから先が出てこない。
何が変なのか、どうして怖いのか、自分でもうまく言葉にできなかった。目の前に拓海がいて、その拓海が圭介を睨んでいて、圭介は拓海に気づかず、なのに死に方だけを知っているみたいに話している。
それを、そのまま口にしてしまうのが怖かった。
拓海が、さらに顔を寄せた。
濡れた前髪が圭介の頬に触れそうなほど近い。目の前にそんなものがあっても、圭介はやはり何も感じていないみたいだった。
圭介はしばらく俺を見ていた。
「……なんだよ、さっきから」
責めるでもなく、ただ様子をうかがうみたいな声だった。
俺の視界には、圭介と拓海の顔が同時に入っていた。
平然と喋る圭介の、そのすぐ前で、拓海が濡れた顔を寄せたまま睨みつけている。あまりにも近いのに、二人のあいだだけが噛み合っていなかった。
「顔色悪いぞ」
圭介はそう言って、小さく息をついた。
「今日はもう帰るか」
俺はすぐに返事ができなかった。
拓海はまだ圭介のすぐ前にいた。怒りで顔を歪めたまま、一度も目を逸らさない。
それでも、俺は立ち上がるしかなかった。
「……ああ」
ようやくそれだけ返すと、圭介もベンチから腰を上げた。
その瞬間、拓海がするりと動いた。
圭介の正面から離れ、今度はその横を回るようにして後ろへまわっていく。濡れた制服の裾が揺れたはずなのに、やはり音はしなかった。
俺は息を浅くしながら、その動きを目で追った。
圭介は何も知らないまま、ベンチの前で軽く肩を回していた。座りっぱなしで少し冷えたのか、首を鳴らすみたいに顎を上げる。
拓海は、そのすぐ後ろに立った。
真後ろから、圭介の首筋を見下ろしている。
さっきまで顔のすぐ前で睨んでいたのに、今は距離の近さが別の意味を持ち始めていた。怒っているというより、そこから離れる気がない。そんな顔だった。
「行くか」
圭介が歩き出す。
俺も遅れてついていく。
公園の出口までは大した距離じゃないはずなのに、妙に長く感じた。濡れた地面を踏むたび、自分の足音だけがやけに耳につく。圭介の靴音は普通にするのに、拓海の分だけが何も聞こえなかった。
ブランコの鎖が、背中のほうでまた小さく鳴った。
公園の外へ出ると、住宅街の道はもう夕方より夜に近かった。雨の名残でアスファルトが黒く光っている。家々の窓には灯りがついていたが、それでも道はどこか暗かった。
俺たちはしばらく黙って歩いた。
昔から何度も通った道だ。小学校の帰りも、中学の帰りも、高校に入ってからも、三人でだらだら喋りながら歩いたことがある。あのころは狭く感じた道が、今は妙に長く見えた。
圭介は前を向いたまま、歩く速さもいつもと変わらない。
拓海は、そのすぐ後ろをついていた。
歩くというより、張りついているみたいだった。圭介の背中から半歩も離れず、濡れた顔のまま無言で後ろについていく。時折、肩が触れそうなくらい近づいても、圭介は振り向かない。
俺は何度も目を逸らそうとした。
けれど逸らすたびに、次に見たときに拓海がもっと近づいている気がして、結局また見てしまう。
分かれ道の少し手前で、圭介がふいに口を開いた。
「湊」
名前を呼ばれて、肩が跳ねる。
「……何だよ」
「さっきから、本当に変だぞ」
俺は答えなかった。
何をどう答えても駄目な気がした。何も見えていないふりをするにも、もう顔に出ているのだろうと思った。
圭介はそれ以上追及しなかった。
ただ、「無理すんなよ」とだけ言って、また前を向いた。
その言い方は、気遣いにも聞こえたし、ただ会話を終わらせたいだけにも聞こえた。
分かれ道まで来る。
左に行けば俺の家、まっすぐ行けば圭介の家の方だ。
ここも昔から変わらない。拓海がいるときは、別れる前にもう少しだけ話したり、明日な、とか適当なことを言い合ったりした。けれど、その夜はそんな空気にはならなかった。
圭介が足を止める。
「じゃあな」
短い声だった。
「……ああ」
それしか言えない。
圭介が背を向けた。
その瞬間、拓海が動いた。
するりと身体を寄せて、濡れた腕をゆっくり持ち上げる。俺は息を呑んだ。
拓海の両腕が、圭介の首元へ回っていく。
頬が肩口に触れそうなほど近くなり、そのまま、背中へ重なるようにおぶさった。
濡れた制服がぴたりと張りつく。
その姿は、抱きつくというより、最初からそこにいるものが位置を戻したみたいだった。
圭介の身体が、ほんのわずかに沈んだように見えた。
気のせいかもしれない。けれど、何か見えない重みを背負ったみたいに、一瞬だけ肩が落ちた。
拓海はもう、俺を見ていなかった。
圭介の耳元へ頬を寄せ、目を開いたまま張りついている。怒りはまだ消えていないのに、同時に、どこにもいかないものの顔になっていた。
圭介は何も知らないまま、そのまま歩き出した。
拓海を背負ったまま。
昔と同じ帰り道を、昔と同じ速さで。
角を曲がる直前、拓海が一度だけこちらを見た。
公園で俺を覗き込んだときの、あのわずかな笑みはもうなかった。
何の表情も浮かんでいないようでいて、目だけがひどく強かった。
そのまま二人の姿は曲がり角の向こうへ消えた。
俺はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
雨上がりの道は静かで、遠くで車が走る音だけがかすかに聞こえた。昔から何度も歩いたはずの道なのに、その夜だけは、帰り方がわからなくなったみたいだった。
母親からの連絡から数日経ち、もう来ないのかもしれない、と少しだけ思い始めていた夜、インターホンが鳴った。
こんな時間に誰だろうと思いながら、何も考えずに玄関へ向かった。モニターを見るより先に鍵を開けたのは、今思えば迂闊だったのかもしれない。
ドアを開ける。
そこにいたのは圭介だった。
「……久しぶり」
そう言った顔は、十数年前とあまり変わっていなかった。少し痩せた気もしたが、整った目元も、感情を外へ出しすぎない口元も昔のままだった。
ただ、その背後にいたものだけが、変わっていなかった。
圭介の背中越しに、拓海がこちらを見ていた。
あの日のままの制服姿だった。ブレザーもシャツも水を吸って重く張りつき、前髪の先からは雫が垂れている。ズボンの裾は黒く沈み、肩に回した腕は圭介の首元に食い込むみたいに張りついていた。
そして、俺を睨んでいた。
公園で最初に見たときの、あのわずかな笑みはもうどこにもない。
「急に悪い」
圭介はそう言って、俺の顔を見た。
「少し話せないか」
断る言葉がすぐに出なかった。目の前に圭介がいて、その背中に拓海がいる。その光景だけで、十数年という時間が一気に潰れてしまったみたいだった。
俺は黙ったまま、玄関の中へ通した。
リビングに入って向かい合って座る。圭介は昔と同じように姿勢がよかった。拓海はその後ろに立ったまま、いや、立つというより張りついたまま、ずっとこちらを見ている。
「何の用だよ」
ようやくそれだけ聞くと、圭介は少しだけ視線を落とした。
「最近、夢に見るんだよ」
俺は何も言わなかった。
「拓海を」
その名前が、十数年ぶりに圭介の口から出た。
「何回か見た、とかじゃない。忘れたころにまた出てくる。場所は毎回違うのに、結局あいつなんだよ」
圭介はそこまで言って、一度だけ息をついた。
「ずっと濡れてる」
背中が冷えた。
俺は圭介ではなく、その後ろの拓海を見ていた。変わっていない。あの冬の夕方から、何一つ。
「そうなんだ」
出た言葉は、それだけだった。
ひどく薄い返しだったと思う。けれど、他に何を言えばいいのかわからなかった。夢に出るのは当然だ、とは言えない。おまえの後ろに今もいる、とも言えない。
ただ、圭介の話を聞きながら、十数年という時間の長さだけが妙に現実味を失っていくのを感じていた。
十数年も経ったのに、圭介は少し変わったくらいで、俺もこうして普通の部屋で息をしているのに、拓海だけがあの日のままだった。
濡れたまま。
死んだまま。
ずっと圭介に張りついたまま。
「最初は気のせいだと思ってた」
圭介が言う。
「でも、何回か見るうちに、さすがに変だと思って」
俺は黙っていた。
拓海は瞬きもしない。
「それで、ふと思ったんだよ」
圭介が顔を上げる。
「お前、あの日から変だったなって」
心臓が一度だけ強く鳴った。
圭介は俺を見ていた。
その後ろで、拓海も俺を見ていた。
「お前、実は知ってるだろ」
部屋の空気が止まったみたいだった。
答えられなかった。
圭介の背に張りついたままの拓海は、少しだけ顎を上げて、ますますはっきり俺を睨んだ。
責めているのかもしれないと思った。
知っていたくせに何も言わなかったことを。
あの日、公園で見たのに、黙って帰したことを。
けれど、それだけじゃない気もした。
お前も知っているなら、もう無関係ではいられないと、そう言われているようにも見えた。
圭介はまだ俺を見ている。
拓海は十数年前と同じ濡れた顔のまま、圭介の背中越しに俺を見ている。
どちらからも、もう目を逸らせなかった。
帰り道の憑物 神代原 悠真 @yozan
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