Chapter3 魔王は、忠犬(移動手段)を手に入れる①

 それから四度目の朝を迎えて。

 ヴァルトロスとホーリアナは、冒険都市ボルンを目指していまもなお大森林の街道を進んでいた。

 それなりに歩いたがいまだ森の出口は見えず、両脇に生い茂る木々の影によってまだらに彩られた道がずっと先まで続いている。

 不意に立ち止まるヴァルトロス。そしてやおら振り返る。


「ホーリィ」


 返事はない。聞こえるのは、遠く後方からかすかに聞こえる呼吸音ばかりである。


「ホーリィ」


 なおも返事はない。ただ、後方から聞こえる呼吸音が少しずつ大きくなってきた。

 徐々にはっきりとした輪郭を持って聞こえてきたそれ──か弱き聖乙女が酸素を求めて苦しみ喘ぐ声がようやく追いつくのと同時に、三度ヴァルトロスは問いかけた。


「ホーリィ」

「はひぃー……はふぅー……ぜぅ……ヴァ、ヴァルトロス様ぁ……どんどん進んで、いっちゃって……は、速すぎますぅ……」


 聖杖を支えにしながらよろよろと歩いてきた挙句に眼前で腰を折ったホーリアナを、ヴァルトロスはため息寸前の表情で見下ろす。


「やはり俺はお前を見損ないつつあるかもしれん」

「そ、そんなぁ……ふひぃ……足手まといだから置いていく、なんて言わないです、よねぇ……?」

「正直少し考えている」

「やだやだやだぁ! 置いていかないでくださいよぉ……! というかこんな森のど真んなかに置いてかれちゃったら私死んじゃいますよぉ……」

「ちなみにだがホーリィ、ボルンまではあとどれくらいだ?」


 疲れ切った表情で目線を空に向けて考えるホーリアナ。


「えっと、距離的には結構後半といったところだと思いますけど……? 王都を出て五日目ですし、上手いこと進めば明日には大森林を抜けて、明後日にはボルンに着くのではないでしょうか」

「おい、それだとボルン到着までに計七日もかかってしまうではないか」

「だから最初から徒歩で七日はかかるって言ってるじゃないですかぁ!」


 満身創痍の身体から全霊の叫びを絞り出すホーリアナであった。


「すみませんヴァルトロス様、ちょっとだけ、ちょっとだけ休憩させてください……ふぅ」


 よたよたと道端に歩いていき、ちょうどよく転がっていた大きめの石に腰を下ろすホーリアナ。

 そんな彼女を眺めながら、ヴァルトロスは腕を組み思案する。

 このままでは魔王の根城にたどり着くまでにどれだけの時間を要するかわかったものではない。正直本当にさっさと単独で大魔帝国に向かいたいが、しかし裏切り行為を働いた配下を断罪するならともかく、一応は心から忠誠を誓っている者を見捨てるのも王としての矜持に反する。

 なにか手段が欲しい。ホーリアナもろともに満足な移動速度が出せる手段が。

とするならばやはり馬車だろうか。幸いにして懐にはレドルド王から渡された路銀がある。一国の王が用意したのだ、それ相応の価値分はあるはずだろう。まあ、足りなかったら足りなかったで力尽くで奪えば済む話ではあるが。ひとまずボルンまではこのまま進み、そこで調達するか? だが本音を言えばもっと速い手段はないものか──。

 と、巡るヴァルトロスの思考にホーリアナの嬉々とした声が乱入した。


「わあ、見てくださいヴァルトロス様! 可愛いワンちゃんです~っ!」


 ホーリアナが指さした先に目をやるヴァルトロス。

 そこにあったのは、森のなかからひょっこり出てきたらしい白い毛玉の塊だった。目を凝らしてみると、どうやら地面に座っているのは子犬のようだ。あるいは幼狼か。いずれにせよ、つぶらな瞳をしてこちらを見つめる綿のごとき小動物にはまるで警戒心が感じられず、むしろどことなく人懐っこそうな顔つきは庇護欲さえ掻き立てる無害さを思わせた。

 だがしかし、いかなる場面においても油断というものを知らないのが魔王ヴァルトロスである。


「確かに弱者然とした見た目をしているが見誤るなよホーリィ。そもそも犬の幼獣が単独で行動していることが不自然だ。それともうひとつ、上手く隠しているつもりだろうが体内から微弱な魔力が漏れ出している。ゆえにそいつはただの幼犬ではなく──」

「わぁい、私ワンちゃん大好きなんです~! ちょっともふもふしてきちゃってもいいですかっ」


 まるで話も聞かず駆け寄っていくホーリアナ。やがて子犬の正面でしゃがみ込むと、愛嬌を振りまくそれに向けて少女はいっそう目を輝かせた。


「ふわぁ~本当に可愛いですぅ~!」

「ワン!」

「あの、ちょっとだけもふもふさせていただいてもいいでしょうか?」

「ワン!」

「わぁ、ありがとうございます~!」


 ただの吠声を勝手に好意解釈して喜ぶホーリアナ。それから自身の頬に手を当てながら恍惚としてぶつぶつ独り言を連ね始めた彼女は、あまりの昂揚に平常心を失っていた。


「いやもうどうしましょ。こんなにちっちゃくて可愛いワンちゃんをもふもふ撫で撫でできるだなんてまるで夢のようです。まさか魔王を討つ旅路の途中でこんなにちっちゃくて可愛いワンちゃんに出逢えるだなんて。こんなにちっちゃくて可愛いワンちゃんに──」


 だから気づくのが遅れ、そして逃げるのが遅れてしまったのだ。

 自らの全身に影が落ちて初めて、ようやくホーリアナは異変に気がついた。


「こんなに、ちっちゃくて……可愛い……ワンちゃん……?」


 正面を見上げるホーリアナ。

 彼女の前に佇むのは、小さくて可愛い子犬などではなく、屈強な人間族の大男をも遙かに凌ぐ巨大な体躯をした獰猛な大狼の姿だった。

 邪気と食欲にまみれた金色の眼球が、ぎろりとホーリアナを見下ろした。


欺騙狼インポスターヴォルフ……っ!?」


 瞬く間に凶悪な姿へと変貌を遂げた猛獣──魔物の正体を認識したホーリアナには、しかしもう逃げるだけの猶予は残されてはいない。さらに呆然とするあまり、咄嗟に守護の加護を発動させることすら忘れてしまっていた。

 涎に濡れた牙の羅列が剥き出された。


「ウガアアアアアアアッ!」


 血肉に飢えた魔物が、容赦なく少女に喰らいつく──。


 瞬間、ヴァルトロスの右拳が欺騙狼の側頭にめり込んだ。

 人間を遙かに凌ぐ巨躯が、まるで紙人形かなにかのように軽々と吹き飛んでいく。

 木々を数本巻き添えにしたところでようやく勢いを減じた欺騙狼は、地面に突っ伏す形で静止した。


「ヴァ、ヴァルトロス様……!」

 驚きと憧憬の眼差しでヴァルトロスを見上げるホーリアナ。

「巨体の欺騙狼を易々と……なんて凄まじい膂力……。あ、ありがとうございます」

「まんまと餌になりかけるとはな」

 ヴァルトロスは小さく鼻を鳴らす。

「知見と教養はどうした。そもそも辺境育ちの小娘が、魔物の種類も知らんのか」

「うっ。す、すみません……。子犬のような外見に擬態して近寄ってきた相手を捕食するという欺騙狼の存在自体は知っていたのですが、本来は群れで行動する魔物なので、てっきり違うと思っちゃってぇ……」

「まったく。命とは奪い奪われるもの。油断は即、死に繋がることを肝に銘じておけよホーリィ」


 そして魔物の方へと歩いて行くヴァルトロス。

 敵の接近を察知した欺騙狼はふらつきながらも立ち上がり、低い唸り声を上げて自らを殴り飛ばした相手を威嚇する。

 しかしそれに動じるヴァルトロスではない。それどころか、息を吸うことさえ許されないほどの威圧感を伴った眼光が欺騙狼を射竦めた。


「黙れ、駄犬が」


 鳴りやむ威嚇。己よりも矮躯な相手を前に、欺騙狼は見えない縄に縛られたかのごとく身が竦んで動けない。


「貴様、いまホーリィを喰おうとしたな。誰の許しを得てだらしなく涎を垂らしている」


 まるでそれ自体が抗いがたい質量を有しているかのごとき威容を具えた声音。

 のし掛かる重圧に押し潰されていくように、欺騙狼の顔が徐々に苦しげに歪んでいく。


「あれは俺の配下モノだ。薄汚い駄犬が自らの腹を満たすために喰らうなど、不遜にして不敬、傲慢も甚だしい愚行と知れ」

「お、俺のモノ……っ!? 俺のモノってまさかヴァルトロス様、まさかそんな……愛しいホーリィのことは誰にも渡さないぞ的な独占愛的なそれってことですかっ!?」

 盛大な勘違いによって、少女はまた己の世界に没頭する。

「私を護るようにして凶悪な魔物の前に立つのは、ほかでもない私の騎士様。低く唸りながら敵意を剥き出す欺騙狼を静かに見据える騎士様は、気づけば黒々とした勇ましい魔力をまとっている。揺蕩う漆黒の魔力に、私は彼の怒りを見た。そう、彼は怒っているのだ。そして彼の双眸が──どこまでも冷静でいて、けれど滾るような意思を宿した彼の双眸が欺騙狼を睨めつけた。『我が聖乙女を穢すことなど、ましてや危害を加えることなど、何者であろうと決して許さない。何故なら彼女は、私の、私だけの愛しい聖乙女なのだから』──きゃー! もうヴァルトロス様! は、恥ずかしいですよぉ!」


 例の偽教本に怒濤の勢いで書き殴りながら身悶える妄想少女は捨て置いて、ヴァルトロスは一歩前に進み出る。

 重圧に耐えきれず膝を折り、いよいよ地面にへばりつく格好になった欺騙狼を、無慈悲たる恐怖を秘めた双眸が睥睨した。


「──この俺の所有物に牙を立てようとした罪、命をもって償うほかないぞ」


 全身から滲み出る純黒の魔力。見る者すべてに生を諦めさせる恐怖の権化を前に、おぞましき魔物であるはずの巨大な魔狼は、ついにその表情に明確な絶望をかたどった。

 そうして己の無力さを悟った欺騙狼が取った行動は……抵抗ではなく、降伏だった。


「クウウゥ~~~~ン……」


 自ら地面にひっくり返り、ヴァルトロスに無防備な腹部をさらけ出す欺騙狼。加えて情けない鳴き声を垂れ流す様は、もはや恐ろしい魔物というよりも哀れな野良犬のようだった。

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