第16話 干渉

落ちる。

最初に来たのは、その感覚だった。

足元が抜けたわけではない。

目を開けた瞬間から空中にいた。

重力の向きが定まらない。

なのに、体の芯だけが、下へ下へと引き寄せられる。

銀色の光を放つ四角い面がいくつも遠ざかる。

窓が遠くに見える。

扉がどこかへ流れていく。

上にあったはずの面が、次の瞬間には足元へまわり込んでいる。

空間そのものが静かに裏返っていた。

落ちているのか、浮いているのか、それさえわからなくなる。

上も下もない層の間を、楓だけが落ちていく。

奥へ奥へ、深いところへ招かれるように。

——来る。

すべてを抜けた先で、楓は身構えた。

足元にわずかな衝撃。

けれど、それは踏んだ感覚ではなかった。

反発も重さもない。

ただ、接触した。

楓は辺りを見回す。

光はあるが、空はない。

そこは、閉じた空間で球体だった。

まるで、プラネタリウムの内部に立っているようだった。

滑らかに湾曲した内壁は、無数の四角いパネルで構成されており、どれも鈍い銀色の光を放っていた。

ひとつひとつが静かに明滅している。

規則的なはずなのに、完全には揃わない。

生き物の呼吸のように、不均一なリズムで脈打っていた。

楓は立っているのは、床でも地面でもなく、不安定な足場だった。

ガラス製というわけではないだろうが、透明で、下が透けている。

底は見えない。ぼんやりと明るいのに、奈落だ。

点在している足場のどれもに記号や数字が物凄い速さで流れている。

これにも何か意味があるのだろうが、楓にはわからなかった。

おそるおそる、一歩踏み出してみる。

硬いはずなのに、確かではない。触れきれない。

静かだが、完全な静寂でもない。

文字列が擦れ合うようなノイズが、空間に滲んでいる。

(これがAIの内部……)

巨大な構造体の、ただ一点に、楓はぽつんと立っていた。

奥へ進めと逢わせ屋に言われたものの、どちらが奥なのかすらさっぱりだった。

チャットも通話も使えない。

あちら側はこちらの様子を絶えず観測しているのだろうが、楓からコンタクトをとることはできなさそうだ。

つまり、自力で進めということ。

その時、パキ、という乾いた音。

ひびが走る音のような。

視線を上げると、壁に赤い亀裂が走っていく。

「なに、これ……」

削除の影響だろうか。ぐずぐずしている暇はなさそうだ。

とにかく奥に繋がる道を探さなければ。

そのとき、ふと視線を感じて振り返る。

「……Sin!」

遠くの足場に人影が見えた。

ゲーム内のアバターの姿で、こちらを見ている。

楓が駆け寄ろうとすると――

「来なくていい、帰るんだ」

予想外のSinの言葉に、楓は動きを止めた。

「どうして? このままだと……」

「僕は削除される……その方がいい」

その言葉には事実のみならず、覚悟を含んでいた。

「消えたいの?」

「君が、危険を冒す価値はない」

「価値なんて」

勝手だ。慎太郎も、Sinも勝手すぎる。

守るとか、価値はないとか。

まるで、楓が何の意思もないみたいに。

「あのね……」

楓が口を開いたその時だった。

ゴゴゴ、と地鳴りのような音が響き、壁が崩落し始める。

「なっ……」

動揺する楓に対して、Sinは表情ひとつ崩さない。

「今すぐ切断しろ。帰るんだ」

それだけ言い残して、どこかへ行ってしまおうとする。

「待って!」

遠ざかる背中に叫ぶが、振り返ってはくれない。

手を伸ばすが、届きはしない。

このままだと、また――

足場もぐらつき、ピシ、と嫌な音を立てる。

迷っている時間はない。

このまま諦めて切断するか、どうにかしてSinを繋ぎとめるか。

楓は遠くのSinを見つめる。まだ間に合う距離にいる。

頭が冴えていく、この感覚を知っていた。

(……跳ぶときに、似てる)

Sinがいるところまで、足場を三か所跳び継げば、届くはず。

深呼吸をすれば、周りの音が気にならなくなる。

慢心や過信ではなく、いける気がする――いくんだ。

楓は走り出す。

「……Fuu?」

Sinが目を瞠ったのとほぼ同時に、楓は最初の足場に向かって走り出す。

助走をつけて――跳んだ。

軽く着地する。

ここは足場と足場がそれほど離れていなかったこともあり、余裕があった。

一本目はクリア。

次の足場は4メートルほど先にある。

今立っている足場は広く、助走をするスペースは十分にある。

気を抜かなければいけるはずだ。

「Fuu! 何してるんだ!」

Sinが足を止めている。

「今行くから!」

「来なくていい!」

Sinの叫びを無視して、楓は深呼吸をする。

一歩、踏み出す。

足場が、わずかに沈んだ。

次の一歩で、助走に入る。

リズム、リズム。踏み出すたびに、身体が前へと引き出される。

(ここ!)

踏切の一歩を、叩きつける。

瞬間、膝と腕が同時に跳ね上がった。

身体が前から上へ引き抜かれる。反射的に、軌道がわずかに浮く。

——違う。

空中で、わずかに姿勢をほどく。

上へ抜けかけた力を、前へ押し直す。

宙に放り出された一瞬の中で、次の足場との距離を測る。

両足を前に投げ出す。

踵が触れた瞬間、足場が軋み、文字列が散った。

そのまま上体を前へ倒し、流れを切らずに受け止める。

二本目もクリア。

Sinを見ると、泣き出しそうな顔をしていた。

今、自分たちは“大切”を押しつけあっている。楓はそう感じていた。

大切だから、守りたい。

自分よりも、相手を大切にしたい。

慎太郎とSinと同じくらい、楓も自分勝手だ。

その自覚はあっても、譲れないし、止まれない。

楓は視線を最後の足場に移す。

5メートルほど先。助走をするスペースはやや足りない。

――挑戦になる。だが、挑まないという選択肢はない。

「……来なくていい」

Sinの呟きは、楓には届かなかった。

「……行くよ」

楓はひとり呟いた。

助走に入る。

「……っ」

堪らないといった様子で、Sinは駆け出した。

楓は踏み切った。

宙に放り出される。

両足を前へ。届け、届け!

(――届け!)

踵が足場に触れる。

——乗った、はずだった。

だが、踵が載った足場の縁が、楓を支えきれずに崩れ去る。

「えっ……」

ずれた重心が、身体を後ろへ引き戻す。

掴みかけたはずの距離が、ほどけていく。

(落ちる……)

その瞬間、目の前に影が落ちる。

同時に、強い衝撃が腕に走った。

「っ……!」

引かれる。

右腕を掴まれていた。

見上げた先、縁に身を乗り出すようにして、Sinがいた。

片膝を足場に引っかけ、身体を乗り出し、必死に楓を引き留めている。

「……来なくていい、って言ったのに」

その声は掠れていた。

指先が食い込む。ちゃんと、痛い。

落ちていく重さと、引き上げる力が、腕一本で拮抗する。

「……っ、Sinまで落ちちゃう」

「それでも、離さない」

即答だった。

わずかに、引き上がる。

楓は足場に空いている手を伸ばした。

そのまま、腕に力を込めて、身体を引き寄せる。

腕にかかるSinの力が、さらに強くなる。

足場の上に、身体が滑り込む。

そのまま、二人分の重さが崩れるように倒れ込んだ。

「……っ」

呼吸が、ぶつかるほど近い距離で、止まった。

「あ……」

あまりの近さに、楓が声にならない声を漏らしたとき、

「……止まった」

Sinが辺りを見回しながら呟く。

「止まった?」

「崩落が……いや、削除プロセスが」

そういえば、先ほどまで聞こえていた地鳴りも、今は聞こえない。

楓はエインメルの言葉を思い出す。

――まずは接続を維持して、削除を遅らせる。

――そして、奥へと進み、削除をそのものを停止させる。

「止まったんじゃない、遅れてるんだ」

楓が言うと、Sinは全てを理解したように「ああ、なるほど」と呟く。

「君が、僕に接続した」

Sinが触れあっている手に視線を落とす。

「あっ、えっ、ごめん!」

楓はぱっと手を離す。

「あ、でも、これが繋がるってことなら!」

楓は慌てて、またSinの手に触れる。

そんな楓を見て、Sinはやっと表情を緩めた。

「君は、守られるだけの人じゃないんだな」

「慎太郎といるときは、そうだったかも」

それが心地がいいときも、確かにあった。

「でも、守られてるだけじゃ、大切なものは守れないって気づいたんだ」

守られたまま、失ったから。

「今度は、守らせて」

「成長、か。人間らしいね」

「人間だもん」

先に楓が立ち上がり、Sinに手を差し伸べた。

Sinは差し出された手をしばらく見つめ、観念したように握った。

「更新しておくよ」

「うん、そうして」

楓に引き上げられ、Sinも立ち上がる。

2人並んで立っていた。

「削除を止めるために、奥に進みたい」

「奥か。ここよりも危険かもしれないよ。僕自身も、何がどういうふうに表出するか予想がつかない」

「そうなんだ?」

「そもそも、この景色は君にわかりやすくしてるだけというか」

「説明して。わかりやすくね」

「わかりやすく言うと、僕の内部を、君の意識というフィルターをかけて見ると、この景色になるという感じかな。僕の中で削除は進んでいるけど、実際に物理的な崩落が起きているわけじゃない」

「なるほど?」

(わかったような、わからないような……)

「とにかく奥に進みたいんだけど。扉とかないのかな」

「わからない。僕も君のところだから来れただけで……」

楓は辺りを見回す。

「ねえ、あれ」

いくつかある扉。

その中のひとつだけが光っている。

「あの、光ってる扉……」

「光ってる?」

「え、光ってるよね?」

どこからどう見ても光っているのだが……。

「……君にしか、そう見えないのかも」

「Sinには、見えてないの?」

Sinは肩をすくめる。

「僕には普通の扉にしか見えない。あれが奥に繋がる道なら、君にしか見つけられないってことだ」

「じゃあ、なおさら離れられないね」

一緒に奥へ進まなければ。その決意をさらに強める。

「それにしても、私にわかりやすい形にしてくれてるんだね。さすがSin!」

何気なく言うと、隣でSinがふっと息を漏らした。

その気配に、彼を見ると……堪えきれないというように爆笑し始めた。

「はははっ、ほんと、さすがFuuだなぁ」

「え? ええ? 私、何か面白いこと言った?」

「いいや、うん、合ってるよ」

Sinは優しい顔で言う。

「僕は、君に最適化してるんだから」

そのせいで大変な目に遭っているのに、まるで素敵なことのように言う。

「……行こっか」

光る扉を見つめる。

また足場をいくつか飛び移って、手を伸ばせば届く位置にある。

手を握り直す。

(この先に何が待っていても、大丈夫)

楓は自分に言い聞かせて、扉に向かって歩きだした。

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