第二章 少年、道を踏み外す

 暖かく、柔らかい。

 全てがこれで満ちれば良いのに。

 吸う空気すら爽やかで、どこか甘やかな匂いだ。

 まるで幼い頃、母と父に挟まれて寝ていた頃のように、幸せだった頃の記憶。

 俺はそれを、遠目に観ている。


 映画だとしたら、面白くないフィルムだった。当然だ。観たことあるんだから。

 俺の人生だ。まだ短いけど、それなりの起伏がある。でもその結末は知っている。

 多分、バッドエンドだ。これが走馬灯って奴なんだとしたら、センスが無い。誰かを喜ばせるようなカタルシスが無い。

 終わったばかりの試験を自己採点するようなもので、自分がどれほど出来なかったかをまざまざと浮き彫りにしている。


 記憶の中の自分が笑っていた。何の屈託も無く。幸せは遠く、懐かしい。

 夜はまだ夜のままで、人々はソイツの味方で、挫折など何も知らず笑っている。

 それが──燃えた。


 身動きも取れぬまま業火によって、全てが暗闇に塗り潰された。

 息もえになって、光を探す。誰でも良い、助けて欲しい。

 もがく手に、何かが触れた──。



「何やってんのアンタ」

 頬の鈍い痛みで、仄見は目を覚ました。

「いっ! ったぁ……」

 眩いほどの光が彼の目を貫き、順応までに数秒を要した。ようやく見えるようになって、自分が誰かの胸を掴んでいることに気がついた。

「わっ、うわぁ!」

 慌てて飛び起きると、ソファに膝枕で寝かされていたことが分かった。そこから転がり落ちて、膝枕のあるじの顔も見ずに土下座の体制をとった。

「あら、積極的……」

 低く蠱惑的な声が、彼の頭上に落ちる。ほとんど内容は聞こえていなかったが、反射的に額を擦り付けて謝罪した。

「えっと……! すいません! ほんと、ごめんなさい!」

「うるさいなぁ、もう……」

「わざとじゃないでしょうし、仕方ないでしょう。頭を上げてくださいね。仄見秋仁ほのみ あきひとくん」

 フルネームで呼ばれ、弾かれたように頭を上げると、そこには二人の女性が居た。

 ソファの近くで膝立ちしているのは不機嫌な顔をした制服姿の浦底皓子うらそこ こうこで、もう一人はソファに座っている同年代の髪の長い女性だった。白いシャツに焦げ茶色のロングスカートと育ちの良さそうな服装に艶やかな黒い髪と、大きな黒い瞳はいかにも深窓の令嬢然としていた。

「あの俺、ぼ、僕は何を……あの、いやすいません本当に……」

「はいはいはい。それ説明するから、ちょっと落ち着いてね」

 浦底皓子が心底面倒臭そうな顔で、ため息混じりに話し始めた。



「ジョウレイ……? 条例?」

 仄見は聞き慣れない言葉に首を傾げた。勧められたテーブル席に着いて、僅かに痛む頬をさする。指先からは何故か草や土の匂いがする。落ち着いて欲しいと言われて淹れてもらったほうじ茶には湯気が立っていた。

「こいつまだ起きてないわ……もう二発くらい打っちゃおうか」

「やめなさい」

 正対する席には浦底皓子がいて、斜向かいには髪の長い女性が座っている。

浄霊じょうれいね。浄める霊と書いて、浄霊」

 髪の長い女性は、細く白い指を優雅に動かす。彼女はまだ仄見に名乗っていないが、雰囲気的に彼女の姉か何かだろうと判断していた。

「あぁ浄霊……浄霊ですね、きよめるれい……霊?」

 噛み砕いて話してもらっているはずなのに、ゴムを噛んでいるかのように咀嚼そしゃくが進まない。頭が働かないというよりは脳が理解を拒んでいるかのようだった。

 余りにも理解の遅い仄見に右手を振り上げる皓子を制して、長髪の女性は唐突に告げた。

「あなた、霊感あるでしょう」

「れいかん?」

 やはり呑み込めない。何を話しているのかと、彼の眉間に皺が寄った。その場にある筈のない時計の秒針の音が、彼の脳裏に響く。

「嫌だなぁ、からかわな──」

「霊感! れ、い、か、ん! 第六感とか、シックスセンスとか何でも良いけど。見えるんでしょ、霊が」

 仄見の言葉を遮り、痺れを切らした皓子は椅子から身を乗り出して詰め寄る。

 彼は目を背け、僅かに首を振った。息を吸ってゆっくりと声を搾り出す。

「見えません。何ですか、それ。高校生にもなって、霊感なんて。オカルト? 俺はちょっと……その、恥ずかしいですけど、暗いところが苦手なだけで」

 もはや彼自身、何を話しているのか良く分かっていない。無理くり捩じ込まれた土を吐くように、軽佻浮薄けいちょうふはくな言葉とせせら笑いが仄見から溢れ出る。棘のある物言いに場の空気が凍り付き、彼の言葉を遮るものはなかった。

 しかし彼は演じなければならない。心を守るために。酷く下手くそで、怯えを顔に貼り付けたまま踊らなければならないのだ。

 皓子は長いため息を吐いて、声を低く抑えて話した。

「アンタねぇ、じゃあ何? 勝手に道で転けて気絶したとでも失ったとでも思ってんの?」

「…………そう、だと思う。本当にありがとう。はは」

 一度吐いた言葉を取り消せるはずもない。眼を合わせずに呟かれた言葉は、彼の精神を薄切りにして出てきた言葉だった。嫌な汗が仄見の背中を伝う。彼だけに聞こえる秒針の音は益々大きくなっていた。

 苛立ちを隠さない皓子に対して、長髪の女性はただ涼やかな視線を仄見に向けていた。その表情からは何の感情も読み取れない。人形のような、という形容詞がよく似合う彼女はほうじ茶を一口啜り、「おそれているのね」と呟いた。


 幽霊なんか見えない。それだけは確かだ。

 もしそんなものが現実にいて、見ることが出来ていれば、避けることも出来るだろう。しかし俺には出来なかった。だから醜態を晒した。


 恐れているか?

 その通りだ。でもそれは暗い場所、先を見通せないことが恐ろしいという、生物にとって当たり前の心理の働き──警戒心が、俺は他人よりも過敏なだけだ。

「……れは正常だ」

 幽霊なんて得体の知れないものなんかより、異物と認識されたものを排除する群衆の方が、俺にはよほど恐ろしい。


「俺は正常なんだ」

 ただの恐怖症なら、もしかするといつかは克服できるかもしれない。けれど霊感なんていかがわしいものが本当にあるのだとすれば、俺はそんな、誰にも言えないようないかがわしいものを一生隠しながら生きていかなきゃいけないのか?

 それだけは嫌だった。


 焦点の合わぬ目で独り言を呟く仄見に対し、

「じゃあ、一人で帰れる?」

 事もなげに、皓子は言った。

「ああ! もちろん! すいません。助けていただいて。お邪魔しました」

 周囲を忙しなく見渡して、仄見は声高に帰り支度をしようとする。明らかな異常行動を見つめる二人の冷めた視線にも気がつかない。彼は硬い笑顔を貼り付けたまま何度も頭を下げた。

「あなたの荷物、玄関にあるから」

 皓子は玄関の方面を指差した。優しささえ感じる声色は学校で話す時と全く同じ優等生の仮面を被っている。

「明日は朝もバイト早いんで、本当に。助かりました。それじゃあ」

 立ち上がった仄見は、適当に頭を下げて玄関に向かう。早く家に帰りたい彼の目に、玄関へと続くドアが映る。そのドアは人工の灯りで満ちるリビングと違い、少しだけ薄暗い陰ができている。目線の先にある小さく四角で区切られた擦りガラスは黒色で、玄関には灯りが着いていないことを示していた。

「え……?」

 仄見はそれ以上、一歩も踏み出せなかった。縫い付けられでもしたかのように、何度「動け」と強く念じても彼の脚が動くことはない。息荒く動こうとするも駄々っ子の様に手が動くだけで進むことは出来ない。

「は? 何で……」

 ただの陰だ。ただの闇だ。いつもなら気にすることは無い、変哲の無い暗がり。

「何で、なんで……」

 そう認識しながらも、その意識の奥から、あの感覚が忍び寄る。鳥肌に止まらない動悸、ゴムの焼ける異臭──そして地に倒れ伏した時の草土そうどの匂い、現実の質感を以て彼の前に立ち塞がる。恐怖が蘇る。

「うっ、動け、動けよ……!」

 知ってしまった。

 理外りがいの暴虐を、埒外らちがいの存在を、暗闇に潜む者共のことを。

 あの意識が焼き切れる瞬間も、全ては現実だった。

「あっ……」

 仄見はいつの間にか尻餅を着いて、静かな部屋に鈍い音が響く。立ちあがろうとするも、しかし上手く力が入らない。床に着いた手は震え、無謀にも彼は震える指を抑えようとする。

 見てほしくなかった。見られたくなかった。知りたくなかった。知られたくなかった。

 けれど彼の理想や期待は、その尽くを打ち壊された。彼が掻き集めた、たった一夜の、気まぐれな勇気によって。

「ぐ……う……」

 頬を濡らす熱い感触。仄見の両の瞳からは情けないほどの涙が溢れている。

 ぼやけた視界の中、仄見の知る世界は既に遠く彼から離れていく。無重力が、彼が立つ地面を失わせていく。寄る辺を失った仄見秋仁は上下の分別も無くし、暗闇の中に空転し始める。


「仄見くん」

 こんな時でさえ、浦底皓子の声だけははっきりと響く。

 皓子は仄見の背後に周り、その肩に手を置いた。

「意地悪してごめんね。今は無理しないで、休んでいいよ」

 晴明にして浄妙なる音声が彼の心の氷を溶かしていく。彼女の声で仄見の居る世界は急速に秩序を取り戻し、心地良い重力がしっかりと彼を捉えていた。

 そう言えば、あの路地裏でもそうして繋ぎ止めてくれたのは彼女だったのだ、と仄見は嗚咽を漏らしながら彼女が置いてくれた掌の温もりを感じていた。鳴り響く秒針の音は、既に止まっていた。




 暫く涙を流し、ようやく落ち着いた仄見は再び席に着いて真っ赤に目を腫らしながら鼻声で二人に謝罪した。

「すいませんでした」

「はい。ちゃんと話聞いてね」

 即座に飛んでくる皓子の厳しい口調にも、仄見はどこか心地良さを感じていた。自らがまともであることを保証してくれるような、暖かい光がその言葉の裏にあることを今の彼には感じ取る事が出来ていた。奇妙な実感に困惑しながらも、悪い気はしなかった。長髪の女性はほうじ茶を嗜みながらその様子を眺めながら時折欠伸を噛み殺している。

「認めたくは無いでしょうけど……あなたには霊感があります」

 今度は、仄見は否定しなかった。深いため息と共に重々しく首肯する。

「しかもかなり強くて、取り憑かれそうになっちゃうくらい」

「う……はい」

 目の前の少女二人が、一番関わりたくない言葉がポンポンと飛び出していた。「嘘だ」と簡単に否定しようとしていた言葉を飲み込み、テーブルの木目がはっきりと見えるほどに深く頭を下げる。

「普通こんなに強かったら、日常生活に支障が出てしまうわ。昔からそうなの?」

 長髪の女性の問い掛けに今度は首を振った。頭を挙げ、そして一生封印していく筈だった修学旅行での出来事を、語り始めた。

「その、実は──」


「──と、いう感じ、です」

 辿々たどたどしくつっかえながらも、彼は自らの恐怖症について話終え、仄見はようやくほうじ茶に手を付けた。既に冷たくなってしまっていたが、今はその冷たさが興奮に火照った身にはありがたかった。辛抱強く、彼女達は時折質問を交えながら真剣に聞いていた。揶揄やゆするような事もなくただ冷静に、時折仄見以上に深刻な顔付きで聞くため、まるで医師の診察のようだと仄見自身が暢気のんきな気分に錯覚させられる程だった。

「あの、二人は……?」

 居た堪れなくなって、仄見が二人に水を向ける。

「ああ、私たちは」

浄霊師じょうれいしと、除霊師じょれいしです。って最初に言ってんだけどさぁ……」

「いや、真面目に聞いてるんですけど、やっぱりその部分が飲み込めなくて……」

 皓子は呆れたように毛先を指で弄りながら説明を始めた。

「長くなるけど、なるべく掻い摘んで話すね」


 彼女達が語るには、日本には霊的なものが多く蔓延はびこっており、その霊達をしずめる、もしくは消し去る異能いのうの人々がいる、という事だった。

「うっそだ……あ、いや、すいませんその」

 反射的に、仄見の口からは否定の言葉が出てしまう。彼がよすがとしてきた価値観から離れるのは中々難しいようだと、皓子らは顔を見合わせる。

 仄見が昔親しんでいたアニメや漫画でもそういった設定のものはあったが、まさか実在するとは思いもしなかった。

「えーと、昔から?」

「そう。聞いた事ない? 陰陽師おんみょうじとか。あれもそうね」

「陰陽師、霊媒師れいばいし、イタコ、巫女……名を変え品を変え、歴史の裏に私達は存在したわ」

 そして今でも政府公認の元、霊的なものを鎮める役割を担っている。

 衝撃的な話に、仄見の脆弱な理解力が悲鳴を挙げた。使ったことの無い脳の領域が湯気を立てて、彼が信じていた常識は蒸発していく。

「で、霊達の中にも強弱があって──」

「ちょ、ちょっと待って、まずそもそも、霊って何?」

「人の情念じょうねん、という理解が一番分かりやすいかしら」

 落ち着き払った長髪の女性の声が、彼に冷静さを取り戻させる。

 情念──強い想いが人の魂と共に凝り固まり、現世に残ったもの。それが霊だと彼女は語った。

 故に死霊のものもあれば、生き霊と呼ばれるものもある。強い想いは生きる人間に良い影響を及ぼすものも勿論あるが、大概は悪影響を及ぼす。

「強い情念って、悪い感情から発せられるものが多いから」

 怒り、恨み、妬み、愛憎──そう言った感情程、世の中に残り易いのだと皓子は言った。

「そして“おそれ“──ね」

 長髪の女性は先程と同じことを口にした。そこに含まれる意味は一つではなかった。

「恐怖、そして敬いの畏れ、畏怖いふの感情」

「畏怖……」

 その単語を知っていても、仄見がそれを感じたことはない。恐怖ならば、実感として知っていた。

「信仰の大元になるものよ。死を恐れると、その恐怖から逃れるために人は宗教を信じたりするものでしょう?」

 自分ではどうしようも無い、大きな力。抗えないモノを敬うことで、自分達の感情をコントロールしようとする行動。それが信仰であり、逆に否定しようとする事も“おそれ”なのだと彼女は淡々と語った。

「ああ……」

 その気持ちが、痛い程仄見には分かった。

 恐れを否定するために晒した醜態の数々が彼の脳裏に幾つも浮かんでは消え、彼の顔は羞恥しゅうちによって朱に染まった。

「自然な事よ」

 それすらも彼女達は笑わなかった。彼女達の黒い瞳には、憐憫れんびん嘲笑ちょうしょうもなく、ただありのままを写している。

「それで、霊には強いものから弱いものがあってね──」

 分かりやすいから、と前置きして皓子は『上級霊』と『下級霊』という言葉を使って説明した。

「お祓い出来る──成仏させられるのが、下級霊。一時的に弱めたり、鎮撫ちんぶしたり、消すことしか出来ないのが上級霊、そう思ってくれて良いよ」

「は、祓えない霊もいる……のですか?」

 冷や汗を浮かべながら、仄見は訊ねる。彼にとっては死活問題だった。祓うことのできないものがその辺りをウヨウヨ漂っていては、昼日中でも外を歩けそうにない。

「弱い想念、下級霊は、共感を示したり、一般的にお祓いと呼ばれる行為で祓えたりしちゃうの。報われたーって満足して消えていったり、やられたーって消えて行ったり。大元は人間だからね」

 満足したり、逆に論破されることによって消えてしまう。そう聞くと仄見にも、急激に親しみが出てきた。要はバイト先でのクレーマー客の様なものだからだ。

「逆に理解出来なさすぎて、祓えないというパターンや、否定することでヒートアップすることもあるわね。満足しない、理解されない上級霊はそうやっていつまでも残り続けるわ」

「おお……」

 そこまで同じとは、と彼はほぞを噛む。一生クレーマーに悩まされる人生。まだバイトを始めて一ヶ月程度の仄見にもリアルな所まで想像が出来、軽い眩暈めまいに襲われた。

「ああ、後私達も人間だから、情念に共感しちゃうの。そうすると、祓い難かったりする」

 強い想い程、反発も生むが強い共感も生む。それは時に物語となって人の心を打ち、彼らの存在を補強してしまう事もあるのだと言う。しかし共感された程度で満足し消える想いならば、そもそも残りはしない。だから強い想いは完全に消し切ることは難しい。

「人間の剥き出しの感情を否定するってことは、自分の心を、人間らしさを殺す事と同義となっちゃうからね」

「あの……じゃあやっぱり上級霊が祓えないってことは、その辺に祓えない上級霊ばっかりってことになるんじゃない……のですか?」

「そうでもないよ。時間の経過によって薄れちゃうってこともあるし」

 ダイエットするって強い決意をしても三日坊主ってこともあるよね、と俗な例えで皓子は笑った。

「ああ、そうなんだ……」

 少しだけ笑うことが出来、仄見の心は軽くなった。取り敢えず昼日中は出歩けそうだと安堵する。

「じゃあさっきのアイツは下級霊? ってことか……」

「そう。祓うことが出来たから、下級霊」

「あんな怖……ヤバそうな奴でも下級なんだな」

 仄見は鳥肌を立てながら小声で感想を述べる。思い出すだけで、彼のノミの心臓が暴れ出していた。

「下級霊なんて浄霊師の私にかかれば秒よ、秒」

 殊更に明るく、皓子はクラスのギャル達と喋る時のようにおちゃらける。

「ちなみに下級霊も放っておくと上級霊に変わってしまう事もあるわ」

 しかし長髪の女性が温まった空気にバケツ一杯の冷や水を掛けた。

「想いは重なったり、き寄せられるものだから。あなたは暗い所が苦手でしょう? まあ大概得意な人間も居ないと思うけれど。『なんかあの場所、嫌な場所だ』という想いが溜まれば溜まるほど、そこは実際以上に霊を──情念が溜まる場所になってしまうのよ。今日あなたが皓子を見掛けたのは一年前に起こった火事の現場なのだけれど、あの現場には実際の死者は居ないわ」

「そんな……だってあれは」

 鼻をつく異臭と皮膚が燃える感触、酸欠の苦しさと燃え上がる火の熱さを思い出し、仄見はそれ以上を口にすることはできなかった。

「『居そうだな』という妄想や『良くないことがあったに違いない』なんて誤解を食べて、下級霊は育つの。あの場所が何と無くそう言った悪い印象を想起させてしまうのね。人間にとって不快な環境というものは──例えば湿度が高いとか、虫が多いとか──負の情念が引き寄せられやすいわ。あなたという感受性抜群のセンサー人間が行くことによって、魔に魅入みいられてしまったんでしょうね」

 長髪の女性は気の毒に、と言わんばかりにため息をついた。白皙はくせきの肌のせいでより紅く見える唇から紡がれる言葉は彼を落ち込ませるのに十分な内容だった。

「せ、センサー人間て」

 仄見はどもりながらも言い返す。混ぜ返さなければ、そのまま息が詰まりそうだった。

「あら、実際そうでしょう? 人間関係においても他人の感情に当てられやすくて、怒ってる人の近くにいたら、息が出来なくなっちゃうタイプよね」

「ぐ……そう、ですけど、そんなの誰だって同じじゃあ……!」

 図星だった仄見が小声で抗議すると、皓子が助け舟を出す。

「仄見くんの場合は、多分そのセンサーが、怒ってる人本人と、その周りの人が感じている不快感とかまで感じ取ってしまっちゃってるんじゃないかってこと。感じ取らなくてもいいことまで感じ取っちゃうから、余計に疲れるんじゃない? 普段も周囲の評価とかいちいち気にしてるでしょ。その割には人付き合い下手くそ過ぎるけど」

「あ……う、浦底さん……!」

 助け舟はどうやら泥で出来ているらしく、仄見はただ口をパクパクとさせることしか出来ずに恥ずかしさの川で溺れた。分析の名の下に淡々と行われる公開処刑は、同い年の、それも同じクラスの異性によって行われることによって更に残虐性が増している。

「まあでも、霊感については話を聞くに一年前、中学の修学旅行の時からってことだから、元から人付き合いは下手な方なのかも」

 断頭台は音を立てて思春期の少年を鮮やかに処した。

「皓子ちゃん」

 長髪の女性が咳払いと共にたしなめた。

「まあ、霊との関わりは人との関わりに近しい事もあって、私達にとっては人の感情との向き合い方には慣れていることは確かね。そうは言っても型にはまらないが人の心の在り方だから、一概には語りきれないわ。浄霊に至るプロセスも、流派や信仰によって各々違ったりするし。話そうと思うと長くなっちゃうから省くけれど、人の心を理解しながらも、敢えて一切の有無を言わせずに消し去る、否定する力、そういうものもあるの」

 正に今の皓子ちゃんみたいに、と長髪の女性は付け加えた。それを彼女達は除霊と呼び、仄見は強引な力業ちからわざだという感想を抱いた。その感想の通り、除霊という行為は非常に“力”を使う行為で、それが出来る人間は少ないのだという。ただ、それが必要になる上級霊自体も下級霊ほどに多く無い、と彼女達は再度言い含めた。

「まつろわぬ情念に、時に寄り添い、時に拒絶する。下級霊を浄霊師が祓い、上級霊は除霊師が打ち払う。そういう役割分担で日本全国津々浦々つつうらうらに私達のような人間が点在しているの」

 一口には受け入れ難い話に、仄見の眉間の皺は深くなる。

「あはは。仄見くん凄い顔してるよ」

「……なんか……凄い話だけど、こんなこと、俺なんかに言っちゃって大丈夫なんですか……?」

「大丈夫でしょ。こんなこと外で喋っても、おかしい人認定されるだけだし」

 おずおずと問う仄見に、皓子はあっけらかんと言い返す。

「あ、ああ。そっか……それは、そうか……」

 自分が如何に“そういった人”認定を避けるために苦心していたのか、仄見は今の今まで忘れてしまっていたのだった。

 いつの間にか、カーテンの隙間には夜の闇ではなく、朝焼けの朱色が差し込んでいた。

「人の情念は、人が生きている以上絶対に無くならないの。だから定期的に私や宵子しょうこねぇが祓ってるってわけ」

「しょうこ……?」

「ああ、言い忘れてたわね。色々あって。君におっぱいを触られたのが、私、除霊師の天海あまみ宵子です。正代しょうだい高校の二年生です」

 眠たげな顔の横にピースサインを並べながら、さらりと除霊師は名乗った。

「っっっ! その節は本当にすいませんでしたっっ!」

 テーブルに頭を打ちつけんばかりに、仄見は赤面して謝罪した。テンカウントの代わりに、彼のポケットに入っていたスマートフォンのアラームが鳴り響いた。

「うわっ、びっくりした」

 皓子こうこ身動みじろぎに呼応して椅子が引き摺られて音を立てた。宵子は眠たげな目を見開いて丸くする。

「さっき言ってた朝が早いのって本当だったのね」

「すいません。今止めます」

 慌てながら仄見がアラームを止める。スマートフォンの画面は四時を表示していた。

「あの、そう言えばここって」

「仄見くんって西黒須にしくろす黒須くろす高校近くのセブロマだったっけ? だったらうち……ひがし黒須からなら徒歩で三十分くらいかな」

 セブロマこと、セブンローマートは仄見の勤めるコンビニであった。皓子は自らのスマートフォンも見ずに答えた。

「そうですそうです……何で知ってんの?」

 敬語とタメ口が奇妙に入り混じる複雑な心境の中で、聞き逃せぬ言葉があった。

「えーと、あっ。これは言っちゃ駄目な奴だった」

 あからさまにとぼける皓子の真意を問いたいところだったが、そうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。

 今から徒歩で直接向かえば時間的にはやや余裕があるが、一旦家に帰るのは諦めた方が良さそうだった。


 徒歩で──?

「あ、自転車!」

 そう言えばどうやって彼女達の家に運んでもらったのか、それすらも聞いていないことに思い至った。自転車があればそれを訊く余裕もあるが、返ってきたのは宵子の無情な言葉だった。

「現場に置いて来たわ」

「ぐっ、ぐぐ……後で自分で取りに行きます……」

 現場というのは言わずもがな火災現場のことだろう。脳裏に走る嫌悪感に、仄見は歯を食い縛って耐える。そして数秒程唸り、バイト前に取りに行くリスクを考えて諦めた。もはや飛び飛びでしか記憶していないが、今の彼にはあの場所が不快な害虫が這い回る伏魔殿ふくまでんだとイメージが確立している。中学校の三年間を共にした愛機との今生こんじょうの別れも覚悟した。むしろ「連れて帰ってあげられなくてごめんなさいね」と素直に頭まで下げて謝る宵子に対して申し訳なささえ募る。

「あー、いや、良いんです。大丈夫です。謝らないでください。むしろ──」

 仄見は立ち上がり、頭を下げた。

「助けていただいて、本当にありがとうございました。……色々と失礼なことを言ってしまってすいません」

 今の仄見は様々な恥を晒し、体裁も見栄も剥ぎ取られて、謙虚な心で彼女達に対峙することが出来た。正に『憑き物が落ちた』かの様なすっきりとした顔付きをしていた。

 早朝のリビングに、真心からの言葉は深く静かに響いた。

「何か……お返しできることがあれば何でも言ってください」

「……実直なのね」

 何故か目線をテーブルに逃して、宵子は小声で感想を述べるに留めた。朝焼けによるものなのか、その耳は紅く染まって見えた。

「ちょっと、時間は?」

 爽やかな雰囲気を皓子の棘のある指摘が打ち壊す。どこかでカラスの鳴く声が響いた。


「じゃあ、本当にありがとう」

「送ってかなくて良いの?」

「良いよ。大丈夫……だと思う」

 ドアノブに手を掛けた仄見は、そこで一瞬止まって、振り返った。

「あの時さ……、声掛けてくれてありがとう。実はちょっとパニクってたから、助かったよ」

 抽象的な言葉であったが、皓子にはどの時のことか、すぐに分かった。彼女は片手をひらひらと振り、「気にしないで」とメッセージを伝える。

 仄見は玄関まで見送ってくれた皓子に再度礼を告げて慌ただしくドアを開けたが、常日頃の慣習からか音を立てないように静かに閉じられた。皓子は閉じられた扉を見て重たい瞼を一度擦り、我慢していた欠伸を盛大に放った。

「はわぁ……しょうがないなぁ」



 浄化された朝の爽やかな空気は人間の活動に最も適している、仄見は小走りで人気のない道を走りながらそう考えていた。ゆっくり歩いていても十分に間に合うのだが、ピンと伸びた背筋が、開放感が身体を走らせていた。

 疲労も眠気も感じながら、彼は走る。すれ違う人全員に挨拶をしたい様な快さだった。

「……ふ、はは」

 仄見の口から、笑みが溢れる。

「ははははっ!」

 朝陽が彼の行く道を白く照らしていた。



「オハヨ。今日は調子良さそう」

 ファンが仄見の顔を見るなりそう言った。仄見が飲んでいた朝食代わりの甘い紙パックの紅茶に刺さったストローが、動揺するかのように揺れた。

「おはようございます。昨日は眠れなかったんですけど、調子はすげー良いです」

「じゃあ徹夜ハイってやつだ。仄見くん」

 坂谷がバックヤードにある冷凍庫に、フライドチキンの在庫を並べて、空いた段ボールを手早く潰していく。

「そうかもですね」

 仄見はゆっくりと身支度を整えて、タイムカードを切る時間を待つ。

「大丈夫?」

 ファンの心配そうな声にも、仄見は笑顔で返した。

「全然、大丈夫です」

「ふーん。そ。なら彼女でも出来た?」

 ファンの何気ない指摘に、仄見の笑顔は引き攣る。

「い……いやいや」

「怪しっ。怪しいよファンさん。後で聞いといてね!」

 ゴミをまとめた坂谷がバックヤードから風のように飛び出ていく。いつもの早朝シフトの始まりだった。


 祝日の早朝シフトはいつもより穏やかな客足だった。仄見は時折質問をしたそうに近づいてくるファンを避けるため、他の仕事を見つけるのにも一苦労だった。新聞、雑誌を並べながら、普段は行わない値札と商品の位置を合わせていった。

「くあ……」

 仄見が気を抜けば眠気がにじり寄ってくる。店内の時計を見れば、バイトの時間は残り三十分を示していた。

「やること無いな……」

 十分過ぎる程に昇った太陽が仄見の視界を焼く。寝不足の目には眩し過ぎる光だった。

「いらっしゃいませ」

「いらっしゃいま──」

 入店音と共にファンの挨拶が響く。仄見も振り返って挨拶をすると、そこには、

「よっ」

 先程別れたばかりの浦底皓子が灰色のパーカーにジーンズというラフな格好で、片手を挙げて立っていた。


「……何、してんの」

 思わぬ早さの再会に、接客も忘れて言葉が漏れた。朝陽に焼かれた目が見せた幻か、と疑って仄見は目を擦ったが幻覚は消えてくれなかった。

「チャリ、とってきてあげたから」

 パーカーのポケットから取り出した手には確かに、仄見の自転車の鍵がつままれている。 

「……ちょ、ちょっと待って。その、もし時間あるんだったら、イートインで待ってて。後三十分でバイト終わるから」

 意味もなく手を動かした後、仄見は逃げるようにレジへ向かった。

「やっぱり女ね」

 レジには訳知り顔のファンがニヤニヤと待っていて、仄見は仕事が手に付かなかった。


「何で来たの……」

「だから、チャリだって」

 ファンや、午前中シフトのパートのおばさま方に微笑まれながら退勤した仄見は、自転車を押して皓子と肩を並べて歩いていた。眠気は限界に来ていたが、家まで送るという彼女の提案を丁寧に辞して、皓子の家の方面に向けて歩いていた。

「いや、それはありがとう。ありがとうなんだけどわざわざ……ですねぇ」

 自分でもどういう感情なのかわからないまま歩を進めるも、彼の眠たい頭では適切な形容詞は出てこなかった。

「嬉しくなかった?」

 皓子が仄見の顔を覗き込む。彼らは同じ位の身長だった。仄見は弾かれるように顔を引いて、「うれ……ありがたいよ」と呟いた。皓子はその答えに満足したかのように、仄見が買った水を飲んだ。

「そういや昨日って、どうやって家に連れてってくれたんだ?」

 仄見はぶっきらぼうに話題を変えた。彼の自転車のカゴでは自分で買った野菜ジュースが揺れている。

「タクシーで帰ったよ」

「へー……え、タクシー?」

 思わぬ回答に仄見の声が裏返る。

「そう。宵子姉しょうこねぇが別の場所で仕事してたから、そこでタクシー拾ってもらってから、あそこの近くまで来てもらって、それで」

「……マジで?」

「マジマジ」

 あっけらかんと告げられる衝撃の事実に、彼の足が止まった。

「……おカネはお支払いシマス……」

 仄見の脳内には「深夜料金」という単語がぐるぐると渦巻いている。知らない移動手段への恐怖が、彼の滑舌から滑らかさを奪っていた。

「えー? 良いよ……お金無いんでしょ。仄見くん」

「シマス……」

「さっきも言ったけど、浄霊ってお金貰えるんだからさ。気にしないでよ。てかおぶった時思ったんだけど仄見くん細くない? ちゃんと食べてる?」

「そうは言ってもデスネ……え、おぶったって言った?」

「言ったけど」

「!!」

 何の変哲もない穏やかな午前中に、少年の尊厳が音を立てて崩れていった。


「はーらーう! 払うって! それは流石に!」

「……だから、良いって言ってんじゃん」

 小声で捲し立てる仄見に、小さく欠伸をして皓子は言った。

「むしろこっちは巻き込んじゃったんだから、迷惑料だと思ってよ」

「良くない、良くない! それは流石に恥ずかし過ぎるって!」

 顔を真っ赤にして頑として譲らない仄見に、皓子は学校では見せない面倒臭そうな表情を見せる。

「何のプライドなのそれ……うざ……」

「それは……その……」

 歯切れ悪く、仄見の声は小さくなっていく。格好悪いところをいくら見られていようと、少年にも人として守るべき矜持があった。

「とにかく、何か返させてくれよ。俺だってバイトしてるんだし、金は気にしないで良いから! ……分割になるかもだけど」

「むぅ……」

 初めてのケースだったのは彼女も同じで、頭を下げて心から懇願する仄見のつむじを眺めながら、何を提案すれば律儀な彼が満足するのか計りかねていた。そもそも仮眠を挟んだとはいえ、何かモノを考えるコンディションでは無かったのである。

 しばし逡巡し、彼女は手を打った。

「そうだ。そんなに言うなら仄見くん。私たちの仕事を手伝わない?」

「…………へ?」

「昨日みたいにバイトの後に霊に襲われるかもしれないし、君のバイト終わりに二、三時間ぐらい。私たちの仕事を手伝って貰って、私は君を家まで送る。それでどう?」

  初夏の爽やかな光が皓子の瞳を煌めかせた。

「…………………………………………ウス」

 長い葛藤の末、仄見は頷いた。言いたい事は沢山あったが、彼には借りが多過ぎた。



 メッセージアプリで連絡先を交換し、皓子と別れた後、家に帰って寝巻きに着替えた仄見はベッドに倒れ込んでいた。今日明日は休日で、宿題はあるもののあまり多くはない。スマートフォンをポケットから取り出し、何のメッセージも入っていない画面を眺めていた。

「高校で初めて連絡先交換するのが女子か……」

 そのうちに眠気が彼の瞼を閉じ始め、彼は気力を振り絞って窓を少し開けた。風に揺れるカーテンの隙間からちらちらと差し込む光から逃れるように、背を向けて静かに呼吸を続けるうちに仄見は眠りに落ちた。

 思い描いていた高校生活とは徹底的に変わってしまっていた。しかしそれほど不安は無かった。




「自転車、取りに行ってあげてたんでしょ」

 皓子が音を立てぬようゆっくりと玄関から居間に入ると、起きていた宵子からそんな言葉が飛んできた。

「……起きてたんだ」

 いたずらのバレた子供のような顔で、皓子は平静を取り繕おうとしてすぐにやめた。彼女はソファに座っていて、皓子を真っ直ぐに見据えていた。照明の消えた自然光だけのリビングに宵子の長髪はますます黒々と艶めいている。対比されてより白く見える肌、その中で一際紅く見える唇から静かに言葉が発された。

「どうするの? 仄見くんのこと」

「まだ何にも決めてなかった……けど、手伝ってもらうことになった。ちょっとだけ。期間限定で。その間に、彼が取り憑かれたりしないような方法を探すよ。だって、困っている人は助けなきゃ、でしょ?」

「ええ、そうね」

 皓子は宵子の言葉を聞いて少しだけ表情を明るくする。

「“協力者”として申し分ないとは思うけれど……彼は耐えられるのかしら。私たちの仕事が決して綺麗で安全なことだけでは無いわ」

 皓子より一つ年上の宵子の言葉は、皓子にとって痛い部分を突き、彼女に拳を強く握らせた。

 全て見透かすような宵子の瞳は猫のように印象的で、いっそ支配的ですらあった。気の弱い者であれば盲目的に服従してしまいそうになる瞳。しかし皓子には彼女が意図的に誰かを従わせるような人間では無いことを知っている。ただ持っている資質が自分とは違う──たったそれだけ。

「分かってるよ。宵子姉ぇ……」

 幼い頃から知っている皓子の拗ねたような口調にも、宵子の心が乱されることはない。ただあるがままの成り行きを彼女の浄玻璃じょうはりの鏡の如き瞳が捉えている。

「勿論、私もサポートするわ。でもね、皓子。私たちがどれ程気をつけようと、責任を取らせても貰えない事態になることだって覚悟しなければならないわ。石動さんの時みたいに」

 だからあくまでも宵子は問う。たった十五歳の少女に。

 現代であればまだ未成年として扱われる年代だが、彼女らの世界では既に十分に一人前として扱われる歳であった。それを古い体質として断ずる事もできるが、取りも直さず、どれ程古来から戦い続けてきたかを示す証左でもあった。


 分かっている。一人の命を預かることになる重さを。

 そんなことは、浦底皓子は分かっている。


 皓子の沈黙を、宵子が破ることは無い。

 あくまでも彼女が決めなければならないことであった。

「軽く考えてるわけでも、宵子姉ぇに甘えているわけでも無いよ」

 だから口にする。彼女はプロとして、同僚に伝える。

「私が、出来る限り仄見くんを守る。それで、こっちも出来ることだけ手伝ってもらうつもり」

「……」

「もし彼が、仄見くんが──」

 皓子は一瞬言い淀んだ。しかし息を吸い直し、はっきりと宣言した。

「怪我をしたり、死ぬようなことがあったら、私が罰を受ける」

 責任は取れないかもしれない。しかし、罰を受けることは出来る。

 少女の覚悟は、静かなリビングに確かな質量を伴って投げ入れられた。湖面の様に凪いだ部屋に投げ入れられたそれが立てた波紋が落ち着くまで、宵子は目を逸らさずに彼女を見ていた。

「……そう」

 ようやく出た言葉は短いものだったが、彼女たちにとってはそれで十分だった。

「こっちに来なさい」

 立ったままだった皓子がソファに近付くと、宵子に抱き締められ、そのままソファに寝かされる。

「宵子姉ぇ!?」

 思わぬ行動に皓子は驚きの声をあげて離れようとするが、彼女の抱擁は簡単には解かれ無かった。

「ごめんなさいね、意地悪なことを聞いたわ」

 抱き締められているため宵子の表情を確認することは出来なかったが、長い付き合いの皓子には、耳元で囁かれる彼女の声が少しだけ震えているのが分かった。トレードマークである彼女の長髪からは、甘やかなリンゴの匂いがした。同じシャンプーやリンスを使っているはずなのに何故こうも落ち着くのだろう。たった一年、生まれた歳が違うだけなのに。

 なすがままに抱かれていると、いつしか暖かさが皓子の眠気を誘った。

「私が貴方達を守るわ……絶対に」

 そんな言葉を子守唄にして、浦底皓子は眠りの淵に落ちた。



「よっ。お疲れ様」

 五月一日、バイト終わりの十時過ぎ。夜もとっぷりと更けて尚、浦底皓子の明るさは全く損なわれる事はなかった。仄見が働くセブンローマートの駐車場で彼女は待っていた。

「お疲れ様です」

 動き易い服装で、と指定された仄見はパーカーとスウェットというラフな格好で自転車を押していた。睡眠と食事をしっかりと摂り、バイトの時間までにある程度の宿題を済ませ、気力は十分である。何しろあの恐ろしい思いをもう一度するかもしれないのだ。なるべく気掛かりや不調を抱えていたくは無かった。

「あれ、今日は制服じゃないんだ」

「今日休みだし。あの日はホントは着替えてから浄霊する予定だったんだけど……ちょっと色々あって」

 彼女は黒い帽子を被り、白いTシャツにサロペットパンツ、黒いジャケットを羽織ってやや大きめのリュックを背負っている。昼間、制服を着た彼女を知る者ほど、一見して浦底皓子と見抜くのは難しいだろう。

「除霊……あ、いや、浄霊って、服装は何でも良いのか?」

「私くらい腕利うでききだと問題ありませーん」

 呆気に取られる仄見に、皓子は和かに「これ笑うところ」と冗談めかして彼に肩を叩く。

「それより警察とか補導員さんがいても大丈夫なように、大人っぽい服装する方が大事ね」

 仄見は改めてまじまじと彼女の服装を見て、次いで自分の服を見た。

「何?」

「いや、悪い。何にも気にせずに中学の時に買った服着て来た」

「まあまあ、気にしないで良いよそんなの。じゃあ行くよ」

 街灯が頼りなく灯る街中を未成年が二人、歩き始める。


「今日はどの辺?」

「んー? 今日は初日だし、知ってるとこから」

「へー」

 沈黙と暗闇への恐怖から来る緊張で、仄見の口数は多くなっていた。濃密な夜の気配が重圧となって、既に彼の足取りは重たい。隣を一緒に歩く者がいなければ、既に逃げ帰っていてもおかしくは無かった。

「そう言えばさ、浦底さんってお姉さんと二人暮らしなの? ってか、何で苗字違うの? 複雑な事情だったら言わなくても構わないんだけど」

「二人暮らしだよ。後、宵子姉ぇは──ああ、勘違いさせちゃってごめんね──従姉妹だよ。一緒に修行もした……うーん。幼馴染って言った方が早いか」

 天海家と浦底家は昔からある除霊師、もしくは浄霊師を輩出している一族なのだと語った。皓子は自ら話はしないが、仄見が質問すれば大体のことは返してくれた。堂に行った足運びに、真っ直ぐに伸びた背筋。夜を歩き慣れた彼女の姿に仄見は少しだけ対抗心を燃やす。皓子が半歩先導し、仄見が追いかけるその姿は外から見れば姉弟の様に見える。

「ああ、そうなんだ」

 歩けば歩く程に、彼らの通う高校に近づいていく。それを分かりながらも、彼は気が付かない振りをしていた。


「今日のミッションその一は、正代高校でーす」

 どこから手に入れたのか、職員通用口の鍵をひらひらと振って皓子は目的を告げた。

 夜の、それも休日の校舎は非常用の電灯が点いているが、人気はなく森閑としている。

「だと思った……」

 仄見の顔は冴えない。想像よりも濃い闇に、既に息が詰まりそうだった。

「学校ってやっぱり、幽霊いるの?」

 なるべく軽い風を装って彼は質問した。

「ここの場合死者の霊はいないけど、生き霊の類はって感じかな。どうしても情念の溜まり易い場所だから」

 通用口の鍵を開けながら、皓子は当たり前の様に答えた。

「ここにはまだ、下級霊になってる様なのもいないよ。んー霊未満って言ったら良いかな。だけど定期的に祓っとくと、下級霊になるのも防げるの」

「ははぁ……風呂掃除みたいな感じ?」

「そー。カビが生えるのを毎日の掃除で防ぐ、みたいな感じ」

 霊未満、という言葉を聞いて、仄見から軽口が飛び出る。現金な態度にも呆れず、皓子も優しく返した。


 彼女はまず、校舎ではなく、校庭に足を向けた。

「あれ、校舎の中入るんじゃないんだ」

 てっきり校舎に入って浄霊を行う物と思っていた仄見には意外な事だった。

 警備システムに引っ掛かってしまうため、校舎には入らない、と皓子から説明を受ける。

 ではどうやって浄霊するのかと問う彼に、皓子はいたずらな笑みを浮かべた。

「じゃじゃーん」

 彼女のリュックから、複雑な文様が描かれた紙と木の棒が差し出された。



「うう怖……やっぱ引き受けるんじゃなかったかも……」

 仄見は暗い校庭をスマートフォンのライトで照らしながら、皓子が指定した箇所に木の棒を刺していた。木の棒の先には文様が描かれた紙が貼り付けられている。

『結界を作って、そこを祓うから』

 と簡単に告げる彼女が彼に命じたのは結界作りだった。四角形を作るために、木の棒はニ本渡されている。彼女はより暗い方である校舎裏へ行ってしまった。そのため独りで、半ば投げやりに任された仕事をこなしているのだった。

 中々刺さってくれない硬い地面に四苦八苦しながら、何とか一本目の棒を突き刺した。

「よし」

 不意に、彼の手にあったポケットの中のスマートフォンが震えた。皓子からの着信を告げるバイブレーションだったが、彼の心臓は飛び上がった。やや震える手で何とか電話を受ける。

『終わった? こっちは終わったけど』

「お、終わってない! 後一本ある!」

 小声で訴える仄見に、皓子の吐いた小さな溜息が聞こえた。

『オッケー。じゃあもう一本終わったら連絡して。こっち虫が凄くて』

「なるべく早めにやる。もうちょい待ってて」

 仄見は電話を切って、小走りで校庭を走り出した。


 終了の連絡を入れると、彼女は仄見にその場で待つように指示をした。

 仄見は不安であったが、彼女の言った『霊未満』という言葉を憶い出し、自らを奮い立たせた。


 ビィィィィイン────。

 するとどこからか、弦楽器の立てるような音が聞こえた。

 虫の羽音の様にも聞こえるその音は立て続けに打ち鳴らされ、やがて止まった。


 仄見が校舎を見やると、どことなく威圧感のあった雰囲気が幾らか和らいでいる様に映る。

「見慣れただけか……?」

 小声で呟く。彼の恐怖心は今やどこかへと消え、好奇心が戻ってきた。再びスマートフォンが震え、今度は木の棒を回収するように皓子から指示を受けた。


 木の棒と、ハープのような器具を抱え、皓子は小走りで戻ってきた。

「一件目しゅーりょーです。どうだった?」

「……もう終わり? って感じ」

「すげーでしょ」

 素直な感想を述べる仄見に、皓子は得意げな笑みを浮かべた。

「その道具は?」

 仄見は彼女が持っているハープのような器具について尋ねた。

「ああ、これは梓弓あずさゆみって言って、音で浄霊する道具」

 彼女が持っていたのは矢の無い弓だった。皓子はピン、と小さく弾いて音を鳴らす。快い音が転がった。

「狭いところだったら鈴とか、拍手とかで代用できるから必要ないんだけど、こういう広いところは必要でさ」

「おお……なんかそう言う道具見ると、マジなんだって思うわ」

 興奮する仄見に、皓子は冷めた視線を送る。

「巫女さんコスプレに刀印とういん九字くじ切りすると思った? まあ、有効ならする時もあるけど」

「あるんだ……」

「あっ、ちょっと想像したでしょ。もうちょっと真面目な感じなんだからね」

「想像できないって」

 軽口を叩きながら、二人は撤収の準備を進めた。


「あのさ、浦底さん」

 静謐せいひつを破って、仄見は声を発した。彼は違和感を覚えていた。胸の底を僅かに刺激するそれは、全く手応えの無いテストが回収されていく時の焦りにも似ていた。

「何? 穴埋まった?」

「それはオッケー。部室棟の方なんだけど」

 仄見が指指す先には非常灯も無い暗闇が広がっているが、そこは運動部が使用する部室等があった。そこでユニフォームに着替えたり、使用する用具をしまったりする場所だった。

「なんか居たりする?」

 皓子は目を細め、闇に目を凝らす。それから両手で三角形を作り、その間からも眺めるという行為を行い、数秒の沈黙の後、彼女は言った。

「……分かんない。けど、やっとく?」

 彼女から帰ってきた『分からない』という言葉と、意見を求められたことに仄見は驚きながらも、頷いた。

 仄見は怖がりながら、皓子はずかずかと部室棟に近づいていく。

「何が引っ掛かったの? 見えたりした?」

「見えたわけじゃ無いんだけど……嫌な暗さっていうか」

 綺麗に整地されたグラウンドに、二人分の足跡が残る。仄見には近づけば近づくほど空気は生暖かく、部室棟が実物よりも大きく見えてくる。誰も居ないはずなのに、どこからか雑踏やざわめく声の幻聴が聞こえてくる。皓子の足が止まった。

「嫌な感じはある?」

「……ある。なんか声がする、気がする」

 プロフェッショナルの判断に余計な口を出してしまったかと、彼はしどろもどろになりながら伝えた。

 しかし押し殺した声の仄見を見て、皓子は即座にリュックから梓弓を取り出して弦を弾いた。

 清浄な音が僅かに濁っていた。更に何度か皓子は弾いていく。その度に音の濁りは取り除かれ、高らかに響いていく。

「……あ、弱まったかも」

 仄見が感想を口にする頃には、何事も無かったかの様に部室棟は弱々しい街灯の光を反射して佇んでいた。

「そう。じゃあ行きましょう」

 涼しい顔で皓子は踵を返し、仄見は慌ててその後ろを付いて行った。


「さっきのってさ、その……いたの?」

 街灯に照らされた下で通用口の施錠をする皓子に、仄見は訊ねた。浄霊をした後にも関わらず、先程よりも緊張感が増している。

「下級霊未満の想念……悪気あっきがいたかもって感じ」

 突き放すように皓子は言った。

「悪鬼? 鬼ってこと?」

「悪い気。気分の気」

 施錠を確かめて、彼女はどこかへ歩き出す。置いて行かれまいと、仄見は置いていた自転車の鍵を慌てて外した。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんか怒ってる?」

 歩調を緩めることなく進む背中に質問を投げ掛けるも、彼女は止まらなかった。

「怒ってない」

「うっそだ……」

「嘘ついた。認める。ちょっと怒ってる。問題は……」

「問題は?」

「二点あるわ。まず一つ目は、誰かがあの中のどれかの部活に対して嫌悪や憎悪を持った人がいるって分かったこと」

「ああ……そう言うこと。それはでも……ある意味では仕方が無いんじゃないか? レギュラー争いとかさ、色々あるんだろ?」

 綺麗事では居られないのが学校の部活だと、部活に所属をしたことがない仄見ですら知っていた。なぜ“想念”のエキスパートである彼女がこんなにも怒っているのか、不思議なほどだった。

「……想念が残留するほどっていうのは、異常なの。レギュラー争いも確かに強い想いになりやすいかもしれないけど、それほど真剣な場合は、意外と昇華されてしまうものなの。それに実力差なんて真剣であれば真剣なほど分かっちゃうでしょ」

「ああ……確かに」

「死ぬ程の想いが残り易いのは、それほど強い想いってことなの。それに近いものがあるってことは、いじめかもしれないでしょ」

「あ……」

「それに、『声がする』って言ったでしょ」

「……言ったな」

「声が聞こえるのが嫌な状況って言うのは、どう言う状況?」

「……悪口、とか?」

「もしくは見られたくない状況、とか。声や周囲にバレるのを恐れている、周りに人がいるのが恐ろしいってな状況ね」

 自分にも身に覚えのある状況に、仄見は足元を見つめることしか出来なかった。

「場所に溜まっている想念を祓うことは出来ても、発生源が生きている人間の場合、私に出来ることは少ないわ……本人と話して和らげたり、部活を辞めさせたりすると想いも弱まるかもしれないけど。そもそもそこまでは特定できないし、いじめる人が正代しょうだい高校にいるってのもいい気しないわ」

 真っ直ぐに、真っ当に、彼女は怒る。近づけば火傷しそうな怒り。実際に彼女の体温も上がっているのではないかと仄見は思った。そんなにも強い想いであるにも関わらず、怒りを抱えた人間が近くにいる時特有の息苦しさは無かった。

「……ふーん」

「もう一つは、あなたが感じ易すぎるってこと」

 そこで初めて、皓子は隣に並んだ仄見に表情を見せた。厳しい表情で、人当たりの良い柔和な顔が台無しだった。

「それが問題なのは俺だって……」

 弱々しく主張する仄見に、

「仄見くん」

 有無を言わせない強い口調で皓子は口を挟む。

「めっちゃやばい霊を、それこそ上級霊を感じるくらいなら普通の人でもいるけど、あなたの霊感はそれを超えてる……私以上よ」

 彼女の発言に今度は仄見の表情が凍る。

「な、にそれ……」

 仄見に経験は無いが、医者にがんを宣告された時のような重さがあった。専門家に『私以上』と言われて嬉しくないこともあるのだと、彼は思い知った。

「まあ、ちょっと私達が特殊ってこともあるけど……よく今まで正気を失わずにいれたわね、仄見くん」

 真剣に憂いの表情を浮かべる彼女は、歩きながら嘆息する。しかしその歩みは止まることはない。プロとしての厳然たる判断に、脂汗が仄見の背を伝った。

「そんなこと言われたら不安になるってぇ……」

 闇夜を真っ直ぐに行く彼女の背中を見ながら、仄見は口の中で呟いた。より重くなった自転車を押しながら、彼らは次の目的地に向かった。


 その後彼らは近場の廃業して朽ち果てた商店、落書きだらけの大きな橋の下、同じく落書きだらけのトンネル、照明の無い児童公園を巡り、残る浄霊は一箇所となった。正代高校以外は狭い場所ばかりで、昨日の様な思いをするかもしれないと身構えていた仄見は拍子抜けをしていた。それよりもスポット間を移動する間に遭遇する大人やと大学生の集団に肝を冷やす方が多かった。仕事自体も誰か来ないか見張ったり、渡されたペットボトル──皓子曰く“浄水じょうすい”が入っている──を片付けたりと簡単なものばかりだった。時折、嫌な気配を感じるか皓子に訊かれることはあったが、特に正代高校の部室棟以外でそれを感じることも無かった。鳥肌の立つような暗闇はあっても、それが単に暗いから怖いのか、それとも霊的な恐れによるものなのか仄見には判別が付かなかった。

「そう言えば、俺みたいに、誰かに見られたーってことあるの?」

 児童公園の南京錠を施錠して、皓子に鍵を返却しながら仄見は訊ねた。

「あるんじゃない? 私は確認したことないから分かんないけど」

 皓子は鍵をリュックの中に入れながらあっさりと返す。

「え」

 次の現場に向かうために歩き出している皓子を自転車を押しながら仄見は早歩きで追いかける。

「でも別に私がしてることって霊感が無ければわかんないもん。誰かに話しても無駄じゃない?」

「そうかな……SNSとかで晒されたりしそうじゃないか?」

「晒されたところで……結局何してたか分からなきゃ、オチの無い話みたいにウケないでしょ。それにね」

「それに?」

「霊が集まるほどの場所には誰も近付きたがら無いものよ。それが夜なら尚更」

 不意に先を歩いていた皓子が仄見の方に振り返って、人意地の悪い笑みを浮かべる。

「なんで仄見くんは怖がりなのに昨日あそこを通ったんでしょうか」

「あー……何ででしょうかねー……」

 少年は目を逸らしながら、耳まで赤く染めながら顔を逸らした。一夜明け、あの時何を叫んだのか大体思い出した仄見ではあるが、どの様な思いから制服姿の彼女を追いかけたのか今となっては忘れてしまっていた。

「まーそう照れないでよ。私じゃ無いけど、除霊とか浄霊の現場を見られて、そのまま“協力者”って立ち位置で手伝ってもらうこともあるんだから」

 そもそも政府公認の公務員みたいなもんだしね、と皓子は屈託なく笑った。

「あ。それ! それってやっぱ本当なの!?」

 仄見は目を輝かせた。自分と歳の変わらない少女が“仕事”をしているというのは憧れの対象だった。

「さっきの鍵、見たでしょ? 公共の施設であれば、頼めば大体入れるようになってんの」

「うぉおおスゲー! 浄霊師って月幾ら貰えんの?」

 興奮も何処へやら、俗なことを訊ねる仄見に辟易しつつ、皓子は勿体ぶりながら指を二本立てた。

「はぁー……そうなんだ……」

「言っておくけど、手取りじゃ無いからね」

「ああ……厳しいな」

 急に現実に引き戻され、げっそりとした表情になる現金な仄見に、皓子は苦笑する。

「浄霊師と除霊師は基本セットだから、大体は二人暮らしとか、ルームシェアする人が多いかな。私の場合は勿論宵子姉ぇ居るし。だから、君よりはお金持ちです」

「そうかもしんないけどさ……でもあんな危険なこともやらなきゃいけないのに、割に合ってないと思うんだけど」

 胸を張る年若い除霊師に対し、一介の霊感持ちは肩を落としてぼやく。

「下級霊の浄霊程度じゃ危険手当なんて出ないよ。その“危険“が霊感を持っていない人にも認められる状況ってのはもっとヤバいし。少なくとも上級霊を鎮めるような事態でもないと」

「そうなんだ。でも下級霊も取り憑かれたらヤバいだろ」

 自らの経験を引き合いに出し、仄見は空恐ろしくなる。もしあの場に皓子が居なければ自分はどうなってしまっていたのか──彼は考えたくもなかった。

「仄見くんの場合はちょっとトクベツというか……。まあ、仮に上級霊に取り憑かれたとしても心を壊すぐらいなのよ。基本的には。現代人でそこまでの霊的感受性を持っている人なんて殆ど居ないし」

 彼女は例え話として、昨日の火災現場にあったのが上級霊だった場合の話をした。

 結論として、火を異常に怖がるか、固執する様になるか、程度のことなのだという。

「そんなもんなの?」

「もしかしたらそれが高じて他の火事の現場に必ず現れるようになって、警察のお世話になったりするかもね」

 日常生活を送る分には、それほどのかせでは無いかもしれない。

「それぐらい鈍感なものよ、普通の人は。でも、確実に心は疲弊する」

 心の疲弊は身体の不調を来たし、やがて衰弱する。彼女が語ったのは現実的なことであった。

「人間関係にだって影響するでしょうし、そうすると収入とか色んなことが不利になっちゃう。そうでしょ、仄見くん」

「ぐ……急に刺すなよ」

「君の場合はその対象が下級霊にまで広がるから、やっぱり相当、生き辛くなっちゃうかもね」

 心配の顔を見せる彼女に対し、不思議と仄見には心配はなかった。彼女の側に居ることで、気が大きくなってしまって居るのだろうと彼は結論づけた。気恥ずかしい結論を彼女に話すことはせず、彼は苦い顔で呻くように喉を鳴らすだけに留めた。

「私も頑張って浄霊するから安心し……やっぱ夜は警戒してね」

「そっか……楽にはなんねーか」

 二人揃ってため息をついて、それから乾いた笑い声が人気の無い道路に谺した。


「じゃあ、最後はここね」

 乾き切って変色した花束が供えられた交通事故現場が、本日最後の浄霊場所だった。

 住宅街の一角に掲げられた、警察の立てた情報提供を求める看板は、三ヶ月前に轢き逃げ事故があったことを示している。

 仄見は先程から一言も発さなかった。心中を“おそれ”と“悲しみ”が渦巻いている。その場にいるだけで、涙が出そうだった。

 皓子はリュックから一輪の白い花と“浄水”の入ったペットボトルを取り出し、花を供えて水を撒いた。それからしゃがみ込んで手を合わせた。仄見もそれにならい、手を合わせて瞑目めいもくする。初夏の夜には不釣り合いな冷たい風が吹いて、更に冷たい仄見の両手の間を通り抜けていく。どこからか血の匂いに混じって、女性の泣く声と子供の笑い声が聞こえた気がした。

 あの火災現場にあったような、心を塗り潰される感覚は無い。ただその場には寂しさだけが溢れていた。

 パン、と軽い音に仄見が目を開くと、皓子は柏手かしわでを打ち、何事かを呟いていた。

 それは光明真言こうみょうしんごんと呼ばれる仏教のまじないであったが、彼は知らなかった。ただ一心に紡がれる言葉と、真剣な眼差しに、彼はもう一度瞑目して、ただ両手を合わせて時が過ぎるのを待った。何を祈れば良いのかすら分からなかった。

 その内に心の奥底から、温かさが沸々と立ち昇ってきた。麗らかな昼下がりの午睡ごすいのような快さに、自然と仄見の呼吸が深くなる。

「終わったよ」

 いつの間にか弛緩した空気が流れ、どこかからテレビの音が漏れて聞こえてきていた。今では子供の笑い声も、女の泣き声も聞こえない。皓子はただ柔らかい笑顔で、こう言った。

「帰ろ。仄見くん」


 とぼとぼと坂道を下っていく仄見に合わせるように、皓子の足取りも疲れを見せていた。側から見れば仕事帰りと言うよりは、母親の手に引かれてぐずりながら帰る子供のようにも見える。勿論子供は仄見で、母親は皓子だ。

「こんなこと、毎日やってるのか」

 掠れた声で仄見は確認する。悲しみにしろ恐怖にしろ、毎日浴びる感情としては余りにも不健康と言わざるを得ない。それを悼むということも、並大抵では無いだろう。

「そうだよー……お腹空いてきちゃったね」

 しかし皓子は恬淡てんたんとしている。部活終わりの女子高生染みた平凡な返答が返ってきて、毒気を抜かれた仄見は僅かに笑った。

「何だよ、それ」

「だって七時位からこちとらずーっと歩き通しなんだもん。そりゃお腹も空くよ」

「待ち合わせ前にも浄霊してたのか?」

「そうだよ。黒須高校含めて五件くらいかなー。でもこんな時間に食べたら太るよねぇ」

 皓子は肩を落としながら腹を手でさすった。彼女のスニーカーが常よりもコンクリートを擦って、その音が仄見の胃袋も刺激した。バイト終わりに食べるつもりだった惣菜パンが彼のリュックにも入っていたが、結局食べそびれていた。時刻はとうに十一時を過ぎている。

「浄霊にどれだけ力使うのか知らないけど……そんだけ動いてればちょっとくらい食べても罰は当たんないんじゃないか」

「うーん……いいよ。仄見くん明日も朝早いんでしょ。早く帰ろ」

 皓子の指摘は尤もだった。仄見も明日は早朝勤務だ。祝日の振替休日で学校は無いが、そろそろ寝なければならないのも事実だった。

 彼らの進行方向にはコンビニが煌々と光を放っている。近付いて行く程目を射るような眩しさが増し、仄見は目を細めて文明の灯を全身に浴びた。

「皓子。仄見くん。お疲れ様」

 不意に、暗闇から声が掛けられた。眩しさの中に目を細めて探すと、コンビニの駐車場で店内の明かりが届かないスペースにその人物は居た。闇に同化するような黒い長髪を持つ天海宵子は、その手に二本のペットボトルを持っている。

宵子姉しょうこねぇ」

天海あまみさ……先輩」

 宵子は白いブラウスに黒いパンツスーツというフォーマルな格好をして、黒縁の眼鏡を掛けていた。大人っぽい顔立ちと合わさって、とても高校生には見えない。

「何してんの? こんなところで」

「あら、冷たいのね。仄見くんの初出勤だから、気になっちゃって」

 宵子はそう言うと、それぞれに持っていたペットボトルを渡した。二つともほうじ茶で、仄見は礼を言って半分程一気に飲み干した。

「大変だったでしょ」

 労いの言葉を掛けてくる宵子から、微かに線香の匂いがするのを彼の嗅覚は捉えていた。

「いえいえ。俺は特に何もしてないんで。先輩は……何かの変装とか、ですか?」

 ペットボトルのキャップを閉め、背筋を正しながら仄見が訊ねる。芸能人がお忍びで行動するようなファッションに似ていたからだ。

「そう、そんなところ」

「お寺で呪物じゅぶつの除霊でしょ」

 くすくすと笑う宵子を尻目に、皓子が訂正する。

「呪物って言うと……なんか古い巻物とか? あ、妖刀とか」

 少年漫画的発想に仄見が目を輝かせると、宵子は更に背を曲げて静かに笑った。

「それもあるけど、心霊写真とか、人形とかね。基本的にはハズレばっかりだけど、たまに凄いのもあるから念の為宵子姉ぇが担当してるの」

「いつもお寺の人しかいない時は制服で行くんだけれど、今日は依頼者さんがいらっしゃるみたいだったから、制服だとちょっと気まずくてね」

 彼女は浄霊師として会うわけではなく、あくまでも寺の関係者として依頼者に接し、呪物が本物かどうかを見極めて住職に報告をするのが主な仕事だと説明した。眼鏡はズバリ変装用そのもので、街中で依頼者と会っても高校生だとバレないようにしているのだと言う。

「色々あるんですね」

「嫌じゃなければ今度見に来る? 見学してても暇だとは思うけど」

「良いんですか? じゃあ……」

 魅力的な誘いに二つ返事で了承しようとする仄見だったが、皓子の不機嫌そうな顔が視界に入り、はたと言葉が止まる。

「……上級霊なんかに直で遭遇したら、仄見くん、最悪死んじゃうかもよ」

「やめときます」

「あら、残念。そんなに怖がることもないのに」

 平坦な口調以上に、宵子の表情はがっかりとした表情を見せていた。何より仄見には「怖がる」という言葉が引っかかっていた。

「こ、怖がるってよりはリスクヘッジ的な感じでしてね……」

 仄見は大仰な手振りで宵子の表情を和らげようと余計なことを口走る。

「必要以上に怖がるのも、霊達に力を与えてしまうことになるのよ?」

「そうなんですか? えーじゃあ……今度見学だけはしてみたいかもです。その、遠目から」

 先程の会話も何処へやら、見栄だけで彼の口は動いていた。

 ヘラヘラとした、だらしない仄見の表情を見て、皓子の唇はへの字に歪む。

「帰るよ」

 そう言うや否やスタスタと歩き始める皓子の背中を見ながら、宵子は仄見の耳元で囁いた。

「あの子が自転車に乗れればもっと楽だったのに……ごめんなさいね」

「えっ……乗れないんですか?」

「っ! 聞こえてるよ! それ言うのやめて!」

 顔を赤くした少女の叫び声は、やはり良く通った。


 家まで送るという宵子、皓子の提案を固辞して、仄見は自転車に乗って帰路に着いた。逆に女性二人で夜道を帰らせるのは良くないと反論したが、

「今まで何回一人で帰ってると思ってるの」

 という皓子の強い主張を覆らせる材料が無く、折衷せっちゅう案として昨日仄見と皓子が別れたそれぞれの家の中間地点で解散となった。


「うお、遅くなったな……」

 十二時近くなって家々は寝静まり、車もまばらに通るのみだった。月は高く上ってのんびりとした光を投げかけている。明日も晴天の予報だった。常であれば暗闇をなるべく意識しないように最高速で駆け抜けるところだが、眠気も相俟あいまってそこまでの速度は出ていない。

 何より、この夜の中を独り往く少女のことを思えば、このぐらい何とも無い、と少年は思いたかった。

 更に今日、浄霊作業に立ち会ったことで下級霊の存在しそうな空間というものも肌で感じることが出来た。未だ闇に対する生理的な嫌悪感は消えてはいないが、それでも──。

「良い……夜だったな」

 瞼を閉じれば、あの交通事故現場の浄霊で感じた温かさを思い浮かべることが出来た。夜は全てを覆い隠し、貪婪どんらんに飲み込むだけでは無い。全てを包み込み、抱擁することもあるのだ。その実感が、彼のペダルを踏む足に確かな力を与えていた。

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