第5話 崩れる結晶(メルト・アウェイ)

(……「さよなら」は、もっと湿度の高い言葉だと思っていた)


三月の午後。卒業式を目前に控えた、誰もいない第一物理実験室。

 西日が斜めに差し込み、宙を舞う埃がまるで静止した時間の一部のように光り輝いている。

 私の目の前には、いつもと変わらぬ穏やかな、けれど決定的に温度を失った瞳をした高橋くんがいた。


「京子。君なら、この結論の『美しさ』を理解してくれるはずだ」


彼が差し出したのは、アメリカの大学院からの合格通知でも、航空券でもなかった。

 それは、私と彼の「関係」を、最も効率的に、最も論理的に清算するための、一編の論文のように完璧な別れの宣告だった。


「僕がアメリカへ行く。君はこの日本で、自らの研究を完成させる。……僕たちが共に歩むことは、お互いのリソースを浪費し、研究の純度を下げることになる。……つまり、僕たちの関係は、ここで『終止符』を打つことが、唯一の最適解なんだ」


(……最適解。……そうね。……そう、……なのだわ)


私の脳が、彼の言葉を演算する。

 論理は正しい。一点の曇りもなく、数学的に証明された「正解」だ。

 だから、私は笑わなければならない。

 「ええ、その通りだわ。私たちの知性にとって、それが最も美しい形ね」と、洗練された標準語で、優雅に肯定しなければならない。


けれど。


(……あ。……手が、……震えている)


白衣のポケットの中で、私の指先が、まるでもう自分の身体の一部ではないかのように、激しく痙攣していた。

 喉の奥が、熱い鉄を飲み込んだ時のように焼けつく。

 

 彼が去る。

 それは、私の「世界」が消滅することを意味していた。

 霧崎京子という一人の女が、最高学府の秀才として、完璧な結晶として存在し続けられたのは、高橋という「鏡」が、常に私の正解を映し出していてくれたから。

 その鏡が割れれば、私はどこにも映らない。

 私は、自分が何者であるかを証明する術を、何一つ持っていなかった。


「……ええ。……分かっているわ。……高橋くん」


私は、自分の声が、まるで遠くの地平線から響いてくる他人の声のように感じられた。

 

「……あなたの言う通り。……不純な感情に流されて、……私たちの知性を汚すなんて、……愚かなことだもの」


「分かってくれると信じていたよ。……君はやはり、僕が選んだ最高傑作だ」


高橋くんは、満足そうに私の肩に手を置いた。

 その手は、かつてないほど冷たく、けれど残酷なまでに優しかった。

 「最高傑作」――。

 ああ、そう。私は彼にとって、愛する女ではなく、自らの美学を証明するための、最も完成された「標本」だったのだわ。


彼が実験室を去り、ドアが閉まる音。

 その瞬間、世界から全ての音が奪われた。


私は、その場に立っていることができず、実験用の椅子に崩れ落ちた。

 

 (……寒い。……駒場は、……こんなに寒かったかしら)


窓の外を見れば、卒業を祝う桜の蕾が、死を待つ死刑囚のように無数に並んでいる。

 もうすぐ、私はここを去る。

 高橋くんのいない、誰も私の「正解」を保証してくれない、冷たい荒野へと放り出される。


その時。

 

 (…………っ!)


視界の端に、違和感を感じた。

 

 実験棟の中庭。

 枯れた銀杏の木の下に、一人の男が立っていた。

 

 葛城、一。

 ハジメくん。

 

 彼は、黒いブルゾンのポケットに手を突っ込み、険しい表情でこちらを見上げていた。

 

 (……どうして。……どうして、あなたがそこにいるの)


心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。

 彼にだけは、今の私の姿を見られたくない。

 高橋くんに捨てられ、方程式を失い、ただの空っぽな肉体へと成り下がった、無様な私を。

 

 ハジメくんの瞳は、まるで暗闇の中で獲物を狙う野獣のように、真っ直ぐに私を射抜いていた。

 あの日、宿泊研修で私の足元に跪き、泥に塗れながら「カッコイイじゃん」と笑わせた、あの「不純な熱量」。

 

 (……嫌。……見ないで。……観測、しないで……!)


私は、反射的に窓から身を隠した。

 けれど、背中越しに感じる彼の視線は、コンクリートの壁さえも透過して、私の凍りついた心臓を直接炙り出すように熱かった。

 

 彼にとって、私は「倒すべきライバル」だったはずだ。

 私が完璧であればあるほど、彼はそれを壊そうと、熱狂的に私を追ってきた。

 

 でも。

 

 今の私に、彼と戦う武器なんて、もう何も残っていない。

 

 (……ハジメくん。……私、……もう、……あなたの期待に応えるような、……強い霧崎京子じゃないのよ)


私の瞳から、一筋の涙が零れた。

 

 それは、高橋くんを失った悲しみではない。

 自分の信じてきた「論理」という牙城が、かくも脆く、かくも呆気なく、一人の男の去り際によって崩壊してしまったことへの、圧倒的な屈辱の涙だった。

 

 実験室の片隅に置かれた、ハジメくんが提出したあの「文化祭予算の見直し案」のコピー。

 かつての私は、それを鼻で笑い、「非論理的な感情の産物ね」と切り捨てた。

 けれど、今の私にはわかる。

 あの不格好な数式の裏側に、彼がどれほどの熱量を込め、どれほどの意志で「私」という目標に向かってきたか。

 

 それに比べて、私のこの「正解」は何?

 

 誰かに与えられ、誰かに保証されなければ成立しない、ハリボテの結晶。

 

 (……教えてよ、ハジメくん。……あなたは、……泥を舐めても、……一人になっても、……どうしてそんなに、……烈しく笑っていられるの?)


私は、自分の細い腕を抱きしめた。

 震えが止まらない。

 

 高橋くんがいなくなれば、私は、この東京の孤独に耐えられない。

 知性という名の鎧が剥がれ落ちた後、そこに残るのは、大阪の泥の匂いを恐れ、標準語の仮面に縋り付く、一人の臆病な女の子でしかないのだから。

 

 私は、ゆっくりと窓際へ戻り、再び中庭を見下ろした。

 

 彼は、まだそこにいた。

 

 微動だにせず、ただ真っ直ぐに、私のいる窓を「観測」し続けている。

 

 (……残酷だわ。……あなたは、……私の終わりを、……特等席で見届けるつもりなのね)


彼の「執着」が、今は恐ろしい。

 私の崩壊を、彼はどう思うだろう。

 「やっぱりあなたは、この程度の女だったのか」と蔑むのか。

 それとも、あの泥の中の笑顔のように、私の絶望さえも「カッコイイ」と笑い飛ばすのか。

 

 どちらにしても、私はもう、逃げることはできない。

 

 私は、机の上の数式を乱暴に消しゴムで消した。

 紙が破れるほどの力で、私の過去を、私の誇りを、私の正解を、消し去っていった。

 

 (……あ。……破れた)

 

 ノートのページが、無残に裂けた。

 それは、霧崎京子という一人の女の精神が、臨界点を超えて決壊した音だった。

 

 私は、裂けた紙の端を握りしめ、声を殺して泣き始めた。

 

 高橋くんへの愛?

 そんな綺麗なものじゃない。

 

 これは、私が私であることを辞めなければならない、自己崩壊の慟哭。

 

 そして。

 

 (……ハジメくん。……お願い。……来ないで。……でも、……独りにしないで……!)

 

 矛盾した祈りが、私の脳裏で嵐のように吹き荒れる。

 

 方程式は破綻した。

 私の世界は、今、絶対零度の深淵へと墜落を開始した。

 

 中庭に立つ彼が放つ、あの紅い火星のような熱量だけが。

 今にも凍りつこうとしている私の魂にとって、唯一の、そして最も恐ろしい「光」だった。


(……重い。……この布切れが、どうしてこんなに重いの)


鏡の中に立っているのは、漆黒のアカデミックガウンを纏った、見知らぬ女だった。

 最高学府の卒業式。今日、私はこの四年間の努力を「卒業」という名の公的な承認へと変換する。

 手入れされた黒髪、知性を湛えた(ように見える)瞳、そして、汚れ一つない白衣の上に重ねられた、重厚なガウン。

 

 周囲からは「おめでとう」という言葉が、春の陽光と共に降っている。

 けれど、私にはそれが、私という死体に手向けられた供花のようにしか思えなかった。


「京子さん、本当におめでとう。……大手食品メーカーの技術職なんて、さすがね。六月から社会人になっても、あなたは私たちの星なんだから」


隣で笑う友人たちの声が、遠い水底から聞こえてくるような気がする。

 私は、正しい筋肉を使い、正しい角度で微笑みを返した。

 

「ええ、ありがとう。……皆も、それぞれの場所で、最善を尽くしましょうね」


(……嘘よ。……最善なんて、もうどこにもない)


私の胸の奥には、ぽっかりと巨大な「真空」が広がっている。

 高橋くんが提示した「最適解」という名の別れから数日。

 私は、自分が自分であることを保つための重力――「彼に認められている自分」というアイデンティティを失った。

 六月からは大手企業の化学技術者。誰もが羨む「正解」の道が用意されているというのに、今の私は、ただ重力に抗う術を失い、冷たい宇宙を漂うだけの、中身を失ったガウンでしかない。


安田講堂へと続く並木道。

 華やかな歓声が渦巻く中、私は、二年前の中庭に立っていた「彼」の視線を、無意識に探している自分に気づいて、自嘲した。


(……馬鹿ね。……あんなに「見ないで」と願ったのに。……今は、誰でもいいから、私を『観測』してほしいなんて)


高橋くんは、もうここにはいない。

 彼が去った瞬間、私の「霧崎京子」という数式は、解を失ってエラーを起こした。

 エラーを起こしたままの私は、誰にも見られたくない。けれど、誰の瞳にも映らなくなった瞬間に、私は消えてしまう。そんな矛盾した恐怖が、ガウンの下の私の肌を、じりじりと焼いている。


その時だった。


講堂の入り口。人混みの向こう側に、不釣り合いな黒いブルゾンが見えた。

 

 (…………っ!)


心臓が、鋭い音を立てて跳ねた。

 

 ハジメくん。

 

 彼は、卒業生たちの華やかな色彩の中で、そこだけが別の物理法則に従っているかのように、黒く、烈しく、そこに存在していた。

 彼は、他の誰とも笑い合っていない。

 ただ、野獣のような鋭い瞳を、一直線に私へと向けていた。

 

 (……あ。……観測されている)


その瞬間、私の空っぽだったガウンの中が、ドロリとした熱量で満たされた。

 それは、高橋くんがくれた清潔な承認とは違う。

 もっと野蛮で、不純で、私の絶望さえも土足で踏み荒らそうとする、暴力的なまでの執着。

 

 (……嫌。……見ないで。……今の私は、……あなたが尊敬した『霧崎京子』じゃないの)


私は、わざと視線を逸らし、友人たちとの会話に没頭する振りをした。

 高い声で笑い、洗練された標準語をこれ見よがしに使い、完璧な「お嬢様」を演じ続ける。

 そうしなければ、彼が放つあの紅い引力に、私の崩れかけた心が、一瞬で引き裂かれてしまう気がしたから。


式典の間も、私は背中越しに彼の視線を感じていた。

 講堂の冷たい空気。壇上で語られる、希望に満ちた祝辞。

 それらすべてが、私にとっては虚無の羅列でしかなかった。

 

 「……私たちは、知性の光を絶やすことなく……」

 

 (……光? ……どこにそんなものがあるの?)

 

 私は、膝の上に置いた卒業証書の入った筒を、指が白くなるほど強く握りしめた。

 高橋くん。あなたがいないこの場所で、私はどうやって、光を証明すればいい?

 大手企業への切符を手に入れても、この最高傑作は今、自ら立ち上がる力さえ失って、ただ一人の少年の視線に、怯えているのよ。


式典が終わり、人々が解放感に満ちて講堂の外へ溢れ出す。

 私は、誰にも見つからないように、裏手の古い時計台の影へと逃げ込んだ。

 

 ここなら、誰も来ない。

 ここなら、ハジメくんの視線からも、逃げられる。

 

 私は、壁に背を預けて、ようやく深く息を吐いた。

 

 (……ああ、……苦しい)


ガウンが、肺を締め付けている。

 知性という名の装束が、今の私には、絞首刑の縄のように感じられた。

 

 私は、ずるずると地面に座り込んだ。

 汚れることなんて、もうどうでもよかった。

 私の正解を保証してくれる人がいない世界で、化学者として生きる意味なんて、どこにもない。

 

 「………………っ……、……うぅ……」


一度漏れ出た声は、もう止まらなかった。

 私は、ガウンの袖で顔を覆い、子供のように泣きじゃくった。

 

 高橋くんへの愛が、消えないから泣いているのではない。

 私が信じてきた「論理」という世界が、これほどまでに脆く、これほどまでに残酷な形で終わってしまったことへの、救いようのない絶望。

 

 (……私、……何のために、……あんなに頑張ったのかしら)


標準語を完璧にこなし、大阪の泥の匂いを消し、完璧な数式を組み立て、大手企業の技術職の内定まで登ってきた。

 その頂上で、私は一人きりになった。

 

 風に吹かれて、ガウンの裾がバサバサと音を立てる。

 その音が、まるで「お前は空っぽだ」と私を嘲笑っているように聞こえた。


「…………霧崎」


不意に、上から降ってきた声。

 

 (…………っ!?)


私は、弾かれたように顔を上げた。

 

 そこには、逆光の中で影になった、ハジメくんが立っていた。

 

 「…………見、見ないで!」


私は、叫んでいた。

 震える声。崩れた顔。地面に座り込み、泥に汚れたガウン。

 かつて彼を「非論理的ね」と見下した、あの高潔な面影なんて、どこにもない。

 

 「……見ないでって、……無理な相談やな。……俺は、お前を観測しに来たんやから」


ハジメくんは、一歩詰め寄った。

 

 「……何よ、観測って! ……あなたは、……私の壊れる姿を見て、……楽しんでいるの!? ……『やっぱりあなたは、この程度の女だったのか』って、……笑いに来たの!?」


「…………アホか」


ハジメくんは、私の隣に、無造作に腰を下ろした。

 

 「……俺がそんな奴に見えるんか? ……俺はな、霧崎。……お前がどんなに惨めでも、……どんなに無様でも、……二年前、俺を泥の中から救い上げた、……あの星の輝きを、……一秒も忘れたことなんてあらへん」


「…………っ……」


「……泣けよ。……誰にも見られへんこの場所で、……全部吐き出せ。……高橋が残したその『空っぽなガウン』、……俺の熱量で、……焼き尽くしたるから」


ハジメくんの手が、私の肩に触れた。

 それは、高橋くんの冷たい承認とは正反対の、剥き出しの、火傷しそうなほど熱い体温だった。

 

 (……あ。……熱い)


その熱が、私の真空になった心を、無理やり押し広げるように入り込んでくる。

 

 「……ハジメくん、……私、……私、……もう、……どうしたらいいか、……分からないの……」


標準語の仮面が、ついに剥がれ落ちた。

 私の口から漏れたのは、自分でも驚くほど震えた、生身の感情だった。

 

 「……分からんままでええ。……俺が、お前の新しい重力になったる。……お前がどこにも行かれへんのやったら、……俺が、……地獄まで、……お前を観測し続けたるわ」


私は、ハジメくんの胸に、崩れ落ちるように顔を埋めた。

 

 ガウンの黒い布地が、彼のブルゾンと擦れ合い、カサカサと乾いた音を立てる。

 

 (……ああ。……空っぽだったはずの私が、……今、……この人の熱量で、……壊されそうに満たされていく……)


卒業。

 それは、私の「正解」が終わった日。

 

 そして、この空虚なガウンの中で、私が「ただの霧崎京子」として、新しい地獄への一歩を踏み出した、最初の夜だった。

 

 ハジメくんの胸を打つ、烈しい鼓動を聴きながら。

 私は、自分の信じてきた知性の敗北を、静かに、けれど痛切に受け入れていた。


(……四月。……新しい季節が、私を殺しに来る)


目覚めると、世界は白かった。

 それは希望の白ではなく、何も書かれていない計算用紙のような、無機質で、冷酷な白だ。

 私は、一人暮らしのマンションのベッドの中で、動かなくなった指先をじっと見つめていた。


高橋くんは、もう日本にいない。

 あの日、成田からのフライトを見送ることも許されず、私はただ、一通の「最適解」という名のメールを受け取っただけだった。

 『君なら、この静寂を糧にできるはずだ』

 その一文が、今の私にとっては、宇宙へ放り出される背中を押す最後の一突きになった。


(……糧になんて、……なれないわよ)


私は、重い身体を引きずるようにして、洗面台へと向かった。

 蛇口を捻り、冷たい水を顔に叩きつける。

 鏡を拭い、そこに映った自分を見た瞬間、私は息を呑んだ。


「………………誰?」


掠れた声が、洗面所に反響した。

 鏡の中にいたのは、かつて「東大の金星」と持て囃された霧崎京子ではなかった。

 

 髪は艶を失い、頬は病的なまでに削げ落ちている。

 そして何より、瞳。

 かつて高橋くんが愛した、あの烈しい知性の光が、完全に消え失せていた。

 そこにいるのは、ただの「異分子」だ。

 東京という洗練された街に馴染もうとして、中身を全部吸い出されてしまった、哀れな抜け殻。


「……おはよう、……ございます。……今日も、……良い、天気、ですね」


私は、鏡の中の自分に向かって、完璧な標準語を喋ろうとした。

 けれど、舌が、喉が、私の意志を拒絶する。

 

 「……おはよぉ、……ござ、ます……。……なんや、……これ……」


(…………っ!)


私は、自分の口を両手で塞いだ。

 

 出てきたのは、標準語ではない。

 私が何年もかけて、血の滲むような努力で封印してきた、あのドロドロとしたミナミの泥の匂いがする、大阪の言葉だった。

 

 「……嫌。……嫌よ! ……私は、……私は霧崎京子なのよ!」


叫ぼうとすればするほど、私の言葉は崩れていく。

 知性という名の鎧が、内側からミシミシと音を立てて壊れていくのがわかった。

 高橋くんという「絶対座標」を失ったことで、私の言語体系さえもが、その拠り所を失ってしまったのだ。


(……助けて。……高橋くん。……私、……もう、……正しく喋ることもできないわ)


私は、洗面台の床に蹲り、自分の身体を抱きしめた。

 震えが止まらない。

 

 大学院の新学期が始まったというのに、私は研究室へ行くことさえできなかった。

 あそこには、高橋くんの残像が溢れている。

 あそこに行けば、周囲の人間は私を見るだろう。

 「あの完璧だった霧崎さんが、どうしてこんなに無様に?」という、好奇と憐れみに満ちた視線で。


その時、ふと、あの「火星」の瞳を思い出した。

 

 葛城一。

 ハジメくん。

 

 卒業式のあの日、時計台の裏で私を抱きしめた、あの火傷しそうな熱量。

 

 (……あ。……あの熱……)


私は、震える手でスマートフォンを手に取った。

 履歴には、彼からのメッセージは一件も入っていない。

 

 あの日、彼は言った。

 『お前が自分を捨てるんやったら、俺が、お前の代わりに、お前を観測し続けたる』

 

 (……嘘つき。……観測なんて、……していないじゃない)


いや、わかっている。

 彼は、私が自分自身の足で立ち上がるのを待っているのだ。

 甘えさせるのではなく、私が、私という結晶を一度粉々に壊し、その破片を自分で拾い集めるのを、じっと、獲物を狙う野獣のように見守っている。


「…………残酷やわ、……自分も……」


ぽつりと漏れた、剥き出しの言葉。

 

 私は、ふらふらとした足取りでキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。

 中には、賞味期限の切れたヨーグルトと、ミネラルウォーターしかない。

 食欲なんて、何日も前から消失していた。

 

 私は、水を一口含み、それを飲み込もうとして、激しく咽せた。

 

 「……ゲホッ、……う、……ぅぅ……」


水さえも、私の身体を拒絶しているようだった。

 

 私は、カーテンを閉め切った暗いリビングのソファに倒れ込んだ。

 

 (……私、……このまま、……独りで、……消えてしまうのかしら)


高橋くんと一緒に解いていた、あの方程式。

 私たちが夢見た、論理的な未来。

 それらすべてが、今の私にとっては、宇宙の彼方にある古い神話のように思えた。

 

 私は、ハジメくんがくれた、あのボロボロのノートのコピーを、テーブルの下から引きずり出した。

 彼が泥に塗れ、重力を呪いながら、それでも「お前に追いつきたい」という一心で書き殴った、あの不格好な文字。

 

 その文字に指で触れると、そこから微かな、けれど確かな「生の振動」が伝わってきた。

 

 (……ハジメ、くん……。……あなたは、……今、……何を、……計算しているの?)


あなたはきっと、今もキャンパスのどこかで、孤独な戦いを続けている。

 かつての仲間から裏切られ、周囲から疎まれ、それでも「俺のルール」を貫き通している。

 

 それに比べて、私は。

 

 「…………カッコ悪い。……ほんまに、……カッコ悪いわ、私……」


私は、自分の顔を両手で覆った。

 

 涙は、もう出なかった。

 水分を失った枯れ木のように、私の心は、ただただ、乾いて、軋んでいた。

 

 不意に、インターホンが鳴った。

 

 ピンポーン、ピンポーン。

 

 執拗な、遠慮のない、暴力的なまでのリズム。

 

 (…………っ!?)


私は、心臓が口から飛び出しそうになるのを感じた。

 

 宅配便ではない。高橋くんでもない。

 こんな強引な鳴らし方をする人間を、私は一人しか知らない。

 

 (……ハジメ、くん……?)


私は、這うようにして玄関へ向かった。

 ドアスコープを覗く勇気さえなくて、ただ、冷たい金属の扉に背中を預けた。

 

 扉の向こう側から、あの、低くて、烈しい声が聞こえてきた。

 

 「……霧崎。……おるんは分かっとるぞ。……さっさと開けぇ」


(…………あ……)


その声を聞いた瞬間、私の凍りついていた血潮が、ドロリと動き出した。

 

 「……来ないで、……って言った、……じゃない……」


私は、震える声で答えた。

 

 「……そんなもん、知るか! ……一週間も大学休んで、……自分、死んどるんちゃうかと思って、……飯持ってきてやったんや! ……開けんねやったら、……このドア、……蹴り破るぞ!」


(……なんて、……なんて非論理的な人なの)


私は、可笑しくもないのに、唇を歪めて笑った。

 

 鏡の中の、無様な、崩れ落ちた、異分子の私。

 それを見られることは、死ぬよりも屈辱的なことのはずなのに。

 

 今の私は、この冷たいドアが開くことを、心の底から、飢えた獣のように求めていた。

 

 私は、震える手で、鍵を回した。

 

 カチリ、という小さな金属音が、私の「正解」という名の監獄が解錠された音に聞こえた。

 

 鏡の中の異分子。

 

 それは、私が「完璧な霧崎京子」を完全に殺し、一人の、不条理で、無様な女として、あの火星の熱量に身を投じるための、最初の一歩だった。

 

 「…………ハジメくん」


私は、ドアを開けた。

 

 溢れ出してきた四月の強い光の中に。

 眉間に皺を寄せ、コンビニ袋をぶら下げた、最高に「カッコイイ」私のライバルが立っていた。


(……開けてしまった。……私は、……私の最後の一線を、……自ら差し出してしまった)


玄関のドアが開くと同時に、春の暴力的なまでの陽光と、埃っぽさを帯びた風が、死に絶えていた私の部屋へと雪崩れ込んできた。

 あまりの眩しさに、私は目を細め、腕で顔を覆った。

 卒業式以来、暗闇の中で自分を飼い殺してきた私にとって、この世界はあまりに色彩が強すぎて、網膜を直接焼かれるような痛みを感じる。


「……なんや、……酷いツラやな、霧崎」


光の渦の中に、逆光で巨大な影となったハジメくんが立っていた。

 低い、地を這うような大阪の言葉。

 いつもなら「その野蛮な言い方は何?」と冷たく切り捨てていたはずの声が、今の私の鼓膜には、死の淵で聞いた福音のように響いてしまう。それが、何よりも屈辱的で、何よりも恐ろしかった。


「……見ないで、……って、……言ってる、……でしょう……」


私は、壁に背を預けて、ずるずると崩れ落ちそうになる膝を必死で支えた。

 髪は乱れ、白衣は汚れ、肌は血の気を失って土気色をしている。

 高橋くんが愛した、あの磨き上げられた「金星」の欠片なんて、今の私には一欠片も残っていない。


ハジメくんは、私の静止を無視して、土足同然の勢いで部屋の中に踏み込んできた。

 

 「……見んなと言われて見んようなお利口さんやったら、俺はわざわざミナミから東京まで出てきてへんわ。……これ、食え。冷めるぞ」


彼は、手に持っていたコンビニの袋を無造作にテーブルに置いた。

 中から漂ってくるのは、安っぽい油の匂いと、強い出汁の香り。

 それは、私がこの数年間、自らのアイデンティティを保つために「非論理的で野蛮な匂い」として徹底的に遠ざけてきた、故郷の匂いだった。


「……いらない。……食べたくない、……帰ってよ……!」


「……食べたくないやと? ……お前、鏡見たんか? ……今にも幽霊になって消えてまいそうな顔して、何が『いらない』や! ……お前がここで勝手に死んだら、俺のこの二年間の努力は、一体誰にぶつけたらええんや!」


ハジメくんが、私の肩を強く掴んだ。

 熱い。

 火傷しそうなほどの体温が、白衣の薄い布地を通して、私の冷え切った芯を強引に炙り出す。

 

 「……放して! ……私を、……私を汚さないで……! ……私は、……私はまだ、……霧崎京子なんだから……!」


「……霧崎京子やったらなんやねん! ……六月から大手の手先になるんやろ? ……高橋の『最高傑作』やったら、このまま六月まで霞でも食うて生きていけるんか!」


(…………っ!)


高橋くんの名前を出された瞬間、私の中で何かが、音を立てて決壊した。


「……そうよ! ……私は高橋くんの、……彼が信じてくれた正解だったのよ! ……彼がいなくなった世界で、……汚れた私が生きていくことに、……何の意味があるっていうの! ……あなたは、……あなたはただ、……私の崩壊を観測して、……笑いに来ただけなんでしょう!?」


叫んだ言葉は、もう標準語ですらなかった。

 ドロドロとした、濁った、大阪の感情が、私の知性を塗り潰していく。

 私は、彼の胸を何度も、力の限り叩いた。

 けれど、私の拳には重みなどなく、ただ虚しく、彼の黒いブルゾンの上で弾けるだけだった。


「……笑う? ……ああ、笑うたろか。……お前があんまりにもアホすぎて、腹抱えて笑うたろか!」


ハジメくんは、私の両手首を一つにまとめ、頭上に押さえつけた。

 至近距離。

 彼の瞳の中に、私の無様な、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が映っている。

 

 「……霧崎。……お前、……自分のこと、……そんなに安売りすんなや」


「……安売りなんて、……してないわ……」


「……しとるわ! ……高橋がおらんようになっただけで、……自分の価値がゼロになったと思って、……六月までの余生を腐らせとる。……そんなん、俺が惚れた、あの烈しい金星やあらへん!」


(…………え?)


今、彼は、なんて言ったの?


「……俺はな、……お前の数式に惚れたんやない。……お前のキャリアに惚れたんやない。……泥に塗れて、……『カッコイイじゃん』って笑った、……あの、お前の中の『不条理』に惚れたんや!」


ハジメくんの声が、震えていた。

 

 「……お前が正解を失ったんなら、……俺が、……俺のこの熱量が、……お前の新しい正解になったるわ。……お前がどこにも行かれへんのやったら、……俺が、……奈落の底まで、……お前の手を引いて行ったる!」


私は、呆然として彼を見上げた。

 

 高橋くんは、私を「完璧な標本」として愛してくれた。

 けれど、この人は。

 この「火星」から来た侵入者は、私の「崩壊」そのものを、愛していると言うの?

 

 「……ハジメ、くん……。……私、……もう、……元には戻れないのよ。……知性も、……プライドも、……全部、……壊れちゃったの……」


「……戻らんでええ。……壊れたまま、……俺の隣におれ」


ハジメくんは、拘束していた私の手を解き、そのまま私を、壊れ物を扱うような優しさで抱きしめた。

 

 (……あ。……あぁ……)


彼の胸から伝わってくる、烈しい鼓動。

 それは、私の部屋を支配していた「死の静寂」を、一瞬で粉砕する「命の音」だった。

 

 私は、彼の肩に顔を埋め、赤ん坊のように声を上げて泣いた。

 

 知性なんて、いらない。

 正解なんて、いらない。

 ただ、この熱量が欲しい。

 私という「異分子」を、そのままの温度で受け止めてくれる、この絶対的な引力が欲しい。


侵入者の影。

 

 それは、私の完璧だった過去を焼き尽くす炎であり、

 同時に、私が一人の女として、本当の意味で「呼吸」を始めるための、最初の酸素だった。


「……泣け。……全部、俺に預けろ」


彼の腕の中で、私は、生まれて初めて、重力に逆らうことをやめた。

 崩れていく結晶の破片が、彼の体温に溶かされていくのを、私は、遠ざかる意識の中で、心地よく感じていた。


(……あ。……消えていく。……私が、消えていく)


ハジメくんの腕の中で、私は自分の輪郭が曖昧になっていくのを感じていた。

 四月の雨が窓を叩く音。カビ臭い研究室の匂い。遠くで響く都会の喧騒。

 それまで私を縛り付けていたすべての「意味」が、彼の体温に触れた瞬間、パチンとはじける泡のように消滅していった。


高橋くんは、私を「最高傑作」と呼び、論理という檻の中に美しく閉じ込めた。

 その檻がなくなった時、私は自分の力で呼吸することさえ忘れて、ただの真空に成り果てていた。

 けれど今、私の背中に回されたハジメくんの大きな手。その不器用な、けれど絶対的な力強さが、私の中に新しい「重力」を書き込んでいく。


「…………ハジメ、くん」


私の口から漏れたのは、自分でも驚くほど甘えて、震えた、大阪の言葉だった。

 標準語の仮面を被らなくていい。

 東大生という記号でなくていい。

 「正解」を導き出す機械でなくていい。

 ただ、ここにいて、泣いて、縋り付いてもいいのだと、彼の烈しい心臓の音が教えてくれている。


「……霧崎。……自分、もうええわ。……もう、十分頑張ったやろ」


ハジメくんの声が、私の耳元で低く、けれど温かく響く。

 

「……完璧じゃなくてもええ。……バグっててもええ。……お前がどれだけ無様になっても、……俺が、……俺だけは、絶対にお前を離さへん。……お前が信じられへんお前の価値を、俺が一生、観測し続けたる」


(…………あぁ。……そうか)


私を救ってくれるのは、綺麗な方程式ではなかった。

 私を立ち上がらせてくれるのは、誰からも称賛されるキャリアではなかった。

 

 ただ、この「不純物」だらけで、非論理的で、野蛮なほどに烈しい、一人の少年の執着。

 それだけが、絶対零度の宇宙に放り出された私の魂を、唯一繋ぎ止める「絆」だったのだ。


「……ハジメくん、……私、……本当に、……最低よ。……高橋くんがいなくなって、……自分が空っぽになったことに、……安心してさえいるの……。……計算しなくていい、……正しくなくていい、……そう思うだけで、……涙が、止まらないのよ……」


「……それでええ。……空っぽになったんなら、……今度は俺の熱量で、……お前を全部満たしたるわ」


ハジメくんは、私の頬を包み込み、その親指で私の涙を拭った。

 彼の瞳の中に、一ミリも揺らぐことのない「確信」が見える。

 それは、高橋くんが持っていた「知的な確信」ではない。

 どんな泥沼に沈んでも、どんな嵐に巻き込まれても、決して獲物を逃さないと誓う、飢えた「獣の確信」だ。


「……霧崎。……お前はもう、独りで戦わんでええ。……俺が、お前の盾になったる。……俺が、お前の矛になったる。……お前の世界を壊したあいつらも、……お前を縛っとるルールも、……全部、この俺がぶち壊したるわ!」


私は、彼の胸に顔を押し当てて、再び声を上げて泣いた。

 

 それは、惜別でも絶望でもない。

 

 「知性」という名の神様に死を宣告され、

 「情熱」という名の悪魔に魂を拾われた、

 一人の、救いようのない女の再誕の産声だった。


窓の外。雨が止み、雲の隙間から一筋の黄金色の光が差し込んできた。

 それは、私の「金星」が死んだ場所に降り注ぐ、鎮魂の光であり、

 同時に、ハジメくんという「火星」に照らされて、私が新しく歩き出すための、導きの光。


(……さようなら。……高橋くん。……あなたが愛した、あの完璧な結晶の私は、……今、死んだわ)


私は、自分の中にあった「高橋くんの残像」を、静かに、けれど完全に、闇の奥へと埋葬した。

 

 彼がくれた「正解」は、美しかった。

 けれど、ハジメくんがくれる「不条理」は、あまりに熱くて、あまりに生々しい。

 

 私は、ハジメくんの手を握り返した。

 その感触は、重く、熱く、そして何よりも「確か」だった。


「……ハジメくん。……私、……もう、……逃げないわ。……あなたが観測する私を、……あなたが作った新しいルールの中で、……生きていく。……それが、私の……、新しい方程式よ」


ハジメくんが、不敵に笑った。

 

「……へっ、……やっと言うたな。……ほな、行こうか。……お前のその、ボロボロのプライドごと、……俺が、美味いもん食わせに連れてったるわ」


「……ふふ。……あなた、……本当に、……デリカシーがないんだから……」


私は、涙を拭い、彼に寄り添いながら立ち上がった。

 

 研究室の床には、かつての私の「遺書」である論文や資料が散らばっている。

 けれど、私はもう、それらを振り返ることはなかった。

 

 背後でドアが閉まる。

 

 それは、私が「聖域」から追放され、

 「地獄」という名の自由を手に入れた、決定的な音。

 

 外に出ると、春の夜風が私の肌を撫でた。

 冷たいはずの風が、今はひどく心地よい。

 

 (……重力なんて、……最初から、……なかったのね)


私は、隣を歩くハジメくんの横顔を見つめた。

 

 私たちは、この東京という孤独な街で。

 互いの欠落を埋めるのではなく、

 互いの崩壊を認め合い、

 互いの不条理を笑い飛ばしながら、

 どこまでも、この暗闇を突き進んでいく。

 

 火星の引力に捕らえられた、金星。

 

 けれどそれは、一方的な略奪ではない。

 

 私たちが、二人で一つの新しい天体となり、

 誰の計算式にも載らない、未知の軌道を描き始めた瞬間に他ならなかった。

 

 「……待っとけよ、霧崎。……これから、お前の世界、全部塗り替えたるからな」

 

 「……ええ。……楽しみにしてるわ。……私の……『不条理な騎士』さん」

 

 私は、彼の手を、骨が軋むほど強く握りしめた。

 

 夜空には、二つの星が並んで輝いていた。

 

 紅く、烈しく燃える星と。

 その傍らで、初めて自分の「命の光」を放ち始めた、黄金の星。

 

 結晶は崩れた。

 けれど、その瓦礫の上に、

 私たちは、どんな理論よりも強固で、どんな数式よりも美しい、

 たった一つの「真実」を築き上げていくのだ。


 私は、彼と共に、光の中へと足を踏み出した。

 

 もう、標準語の練習をする必要はない。

 もう、完璧を演じる必要はない。

 

 私は、私のままで。

 彼と、生きていく。

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『金星』ーThe Venus 満田一十 @mkazu110

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