第2部 第6話「潜入、ブラッククリニック(1)」後編
CH3
-ゴースト本部3階処置室-
無影灯の下、白いリクライニングチェアに横たわるニーナの頭部には、細く繊細な神経接続モジュールが幾つも装着されていた。
ここは、ゴースト本部内に設けられた第3チーム専用処置室。
CIARの倫理審査委員会による正式な承認を経て、人格移植の実施はゴースト第3チームが担っている。
処置台の傍らに立つのは、第3チーム医療主任――サザーランド。
彼は無言のまま計測値を確認し、必要最小限の指示だけを端末へ送っていた。
装置の周囲では、CIARの専門医とエミリーが、医療監督として静かに作業を進めている。
「中核記憶、封鎖。代理記憶の上書き、開始します。
感情制御プロトコル、正常範囲……副次人格、安定しています」
モニターを睨みながら、エミリーが低く告げた。
「……ニーナ。まだ、聞こえる?」
ニーナの唇が、かすかに動く。
「……聞こえてる。やって」
エミリーは一瞬だけ視線を上げ、ニーナを見つめた。
「あなたの中には、必ず“帰る場所”がある。それだけは、忘れないで」
「忘れるもんか。……ブルーダー家の娘は、簡単に迷子にはならない」
その言葉を合図に、エリオットが短く頷く。
「――転送準備、最終段階へ。開始する」
次の瞬間、処置室の装置が低く唸りを上げた。
青白い光がニーナの額を照らし、ほんの一瞬だけ、
その表情から“ニーナ”という輪郭が、かすかに揺らいだ。
CH4
-ゴースト本部前-
ゴースト本部前は、深夜特有の静けさに包まれていた。
照明は間引かれ、端末の小さな光だけが空間を点々と照らしている。
ブリーフィングで詰め込まれた情報の断片が、カイルの頭の中をゆっくりと流れていった。
――足音。
振り返ると、“彼女”が立っていた。
「待たせた?」
その声は、確かに知らない女のものだった。
だが、どこかに聞き覚えのある旋律が、かすかに残っている。
サラ・エルドリッジ──人格移植を受けたニーナ。
栗色の髪を結い上げ、瞳には鋭い光が宿る。外見は完全に別人だ。それでも、表情の奥にある呼吸のリズムだけは、確かにニーナのものだった。
カイルは目を細め、静かに首を振る。
「いや。今来たところだ」
「ふうん。そういうの、ちょっと安心するね」
微笑みが浮かぶ。だが、その奥には、わずかな緊張が滲んでいた。
彼女自身もまた、“誰でもない他人”として立っている違和感を、まだ拭いきれていないのだろう。
「出発まで、あと10分。支援装備はすべて機材に転送済みだ。エアダクトのルート、もう一度確認しておいてくれ」
「了解。私は表の入り口からね。演技……うまくやれるといいけど」
「うまくいかなくても、カバーはする。焦らなければ問題ない」
サラ──いや、ニーナは小さく息をついた。
「ほんとに、信じてるんだね。私を」
「信じてるよ。君だからな」
その一言に、サラの瞳がわずかに揺れる。
次の瞬間、エントランスのドアが静かに開いた。
「時間だ。行こう、“サラ”」
カイルが一歩を踏み出す。
サラもまた背筋を伸ばし、その背中を追った。
2人の影は、音もなく闇の中へ溶けていった。
CH5
-ブラッククリニック・正面受付前-
夜の医療施設とは思えないほど、ブラッククリニックのエントランスは整然としていた。
人工石材の床。無菌処理された自動扉。
香りすら制御された空気が、静かに張り詰めている。
サラ・エルドリッジ──ニーナは、冷静を装って受付に立った。
手にしたのは身元書類のコピー。表情は抑えられているが、指先にはわずかに力がこもっている。
カウンターの奥から、白衣姿の男と警備員が現れた。
警備員の視線が、逃がさぬように彼女の眼を捉える。
「エルドリッジさん。書類をお預かりします」
ニーナは無言で差し出した。
警備員は端末に入力し、確認を終えると、別のIDカードを提示する。
「内部移動は、このIDで行ってください。
あなたは“提供者”候補として、一時的に施設内に滞在します。
外部との連絡、個別機器の操作は禁止です。理解できますか?」
「はい」
声は低く、少しくぐもっていたが、不自然さはなかった。
警備員はしばらく彼女の顔を観察し、やがて納得したように頷く。
「ご案内します。お荷物はこちらでお預かりします」
ニーナはバッグを手放し、静かに警備員の後ろについた。
(問題なし──今のところは)
だが、胸の奥では、
小さな針が音もなく沈み続けていた。
CH6
-施設外部・通風ダクト区画-
風は止み、夜気が低く、重たく垂れ込めていた。
カイルは外壁の陰から施設の上部を見上げ、無言のまま跳躍する。
着地音は特殊ソールに吸収され、金属音は残らない。
次の瞬間、彼の姿は再び影へ溶け込んだ。
目標は通風ダクトの開口部。
事前に入手した設計図では、ここから内部の保守エリアへ侵入できるはずだった。
カイルは工具を取り出し、磁気固定された外蓋を静かに外す。
内部には消音繊維が貼られ、視界は狭く、薄暗い。
「……行くか」
腰元には、蒼く光るTSR。
普段と変わらぬ淡い光を放つそれが、静かに背を押してくる。
身を滑り込ませると、ダクトの中はほのかに湿っていた。
呼吸を整え、匍匐前進で進む。
金属が擦れる音を極力抑え、定期的に動きを止めて周囲の気配を探る。
内部は想定以上に整備が行き届いており、騒音も少ない。
“異物”として入り込んでいる自分の存在だけが、異様に浮いている感覚があった。
(サラは……無事に入ったか)
内部通信は使えない。
互いの位置も状況も、すべては事前の取り決めと時間計算に委ねるしかない。
ダクトの先に、小さな通気スリットが見えた。
その下は休憩スペースらしく、誰かの足音がかすかに響いている。
(まだ通常運用か……検査が始まる前に、動く)
警戒と静寂が混ざり合う空間。
それでも、カイルの瞳に濁りはなかった。
ただ、静かに前だけを見据えている。
彼の中では、すでに“最悪の場合”の手順がすべて組み上がっていた。
指先に触れたダクトの縁から、冷気が伝わる。
カイルはさらに奥へと、音もなく這い進んだ。
CH7
-ブラッククリニック・深部管理エリア-
通路の照明は、どこか冷たく沈んだ色を帯びていた。
ニーナ──いや、“サラ”は警備の目を避け、割り当てられていた個室を抜け出して静かに歩を進める。
あらかじめ頭に叩き込んだ施設図をなぞりながら、足音を極力殺して角を曲がった。
(端末室は……この先)
空調の流れ、照明が切り替わる微妙なリズム。
すべてが静かであるがゆえに、わずかな物音すら際立つ。
やがて視界に入った。
鋼鉄製の扉。その奥、ガラス越しに淡く光る管理端末。
だが──手前には、警備員が1人立っていた。
無表情だが、制服のシワや肩の落ち方から、長時間の持ち場に辟易しているのが読み取れる。
(……このままじゃ、入れない)
ニーナは陰に身を潜め、静かに息を整えた。
無理に動けば警報が鳴る。だが、時間は刻一刻と削られていく。
そのときだった。
《検査員が到着した。全区画、準備を進めろ。対象者は各自の部屋で待機させろ》
館内放送。
鋭く切り込むような声に、警備員の肩がぴくりと動いた。
「また急だな……クソ。準備かよ」
不満を吐き捨てながら、警備員は連絡端末を手に取り、足早にその場を離れていく。
背中が曲がり角に消えるまでの数秒間──ニーナは、呼吸すら止めていた。
(……検査員? 誰が来たの?)
一瞬、不安が脳裏をよぎる。
だが、迷っている余裕はない。
(……今しかない)
ニーナはすぐに端末へ駆け寄った。
指先でセキュリティを解除し、用意していたデータ復元プログラムを接続する。
モニターが反応し、無数のファイルが走査され始めた。
──対象ファイル確認。ダウンロード開始──
──進捗:32%……68%……92%……
(……早い。想定より、ずっとスムーズ)
完了音が短く鳴る。
ニーナは手早くログオフ処理を行い、接続ツールを引き抜いた。
──その瞬間。
《全提供者に告ぐ。眼球検査を順次開始する。対象者は割り当て室で待機せよ》
館内放送が、再び空気を切り裂いた。
心臓が、一瞬だけ跳ね上がる。
(眼球検査……ここで言う眼球検査とは……まさか!虹彩リング検査? 今、ここで?)
顔を上げた彼女の表情から、血の気が引いた。
この身体──“サラ・エルドリッジ”は、本来の目ではない。
人格移植の痕跡が、虹彩リングの“揺らぎ”として検出される可能性がある。
(まずい……戻らないと。すぐに)
端末室を飛び出す直前、
耳の奥で、自分の鼓動がやけに大きく響いていた。
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