第9話 病床上の修羅場
朔は発熱した。
別に不思議なことではない——前日に雨に打たれ、そのうえ濡れたままで結月の部屋にあれほど長く座り込んでいたのだから、熱を出さない方がおかしい。
おかしな点は、彼がそれを予期していなかったことだ。
「理性が退化し始めている証拠だな」と自分に言い聞かせ、その言葉があまりにも自分らしくて少し笑った。
笑うと、頭の痛みがさらに増した。
ベッドに横たわり、毛布を顎まで引き上げた。窓の外の陽光が忌々しいほどに眩しい。スマホの画面は午前十時を表示している——すでに二コマ分の講義をサボっていた。
ベッドサイドのテーブルには、結月が置いていった解熱剤と温水の入ったポットがあった。その隣に一枚のメモが添えられている。
『学校に行ってきます。薬を忘れないように。お昼に一度戻ります。勝手にうろちょろしないで。——結月』
几帳面な筆跡だったが、最後の「勝手にうろちょろしないで」という三文字だけはやけに筆圧が強く、まるで彼が言うことを聞かないのを恐れているかのようだった。
朔は錠剤を手に取り、温水で流し込んだ。薬が喉に一瞬引っかかってから落ちていき、舌の奥に苦味が広がった。
まどろみの中で、インターホンの音が聞こえた。
家のインターホンではない——階下のオートロックのチャイムだ。父親と継母は今日仕事に出ているはずで、家には自分一人しかいない。
それから——。
「先輩——!!」
朔は目を開けた。
陽葵の声が階下のどこかから聞こえてきた。すでに家の中に侵入しているようだ。
どうやって入ったんだ?
朔がその疑問を咀嚼しきる前に、ドタドタという足音が階段を駆け上がり、部屋のドアが勢いよく蹴破るように開かれた。
入り口には陽葵が立っていた。金色の髪は風に吹かれて乱れ、頬を赤く染めながら、手には巨大な保温バッグを提げている。
「先輩! 熱出したって聞きましたよ!」
彼女は部屋に飛び込み、保温バッグを机の上に置いた。「お粥持ってきました! 私の手作りです!」
「……どうやって入った」
「窓からですよ!」
「窓?」
「そうですよ! 一階の窓が開いてたから、そこから登って入りました!」
「それは不法侵入だ」と言いたかったが、もうその気力も残っていなかった。
陽葵はバッグから保温容器を取り出し、蓋を開けた。途端に、妙な臭いが部屋に充満した。
「……これは何だ?」
「お粥ですよ!」陽葵が誇らしげに言った。「ピータンと豚肉のお粥! レシピ通りに作りました!」
朔は保温容器の中にある、その灰白色でドロドロとした、どこがピータンでどこが肉なのか判別のつかない物体を三秒間見つめ、沈黙した。
「本当にお粥か、これ」
「もちろんです! 味見もしました!」
「味はどう?」
陽葵の笑顔が一瞬硬直した。
「えーと……なんて言うか……すごく層のあるレイヤード・テイスト?」
「……」
「先輩、そんな目で見ないでください! 本当に頑張ったんですから! 美味しくないかもしれないけど、私の気持ちは本物です!」
陽葵は保温容器を朔の前に差し出し、スプーンで一口分を掬うと、ふーふーと息を吹きかけてから朔の口元へ運んだ。
「はい、あーん——」
朔はその得体の知れない物体を見つめ、それから陽葵の期待に満ちた瞳を見た。
お粥が口腔に進入した瞬間、朔の脳内で第一級警戒態勢が発令された。
塩辛すぎる。ドロドロすぎる。ピータンは苦く、肉はパサパサだ。おまけに醤油と酢を混ぜ合わせたような、得も言われぬ味がした。
だが、彼はそれを飲み込んだ。
「どうですか?」陽葵の目がキラキラと輝く。
「……不味い」
陽葵の表情がガクリと崩れた。
「だが、ありがとう」
陽葵は呆然とし、それからパッと顔をほころばせた。
「先輩! やっと『ありがとう』って言えるようになったんですね!」
「元から言える」
「前は『手間をかけたな』とか『分かった』とか『構うな』ばっかりだったじゃないですか!」
「それも感謝の表現だ」
「違います!」
陽葵は保温容器を机に置き、椅子を引き寄せて朔のベッドサイドに座った。
「先輩、顔色すごく悪いですよ。何度あるんですか?」
「知らない。測ってない」
「ダメですよ~ちゃんと測らないと!」陽葵は手を伸ばして朔の額に触れ、それから自分の額にも触れた。
「熱っ! 先輩待ってて、体温計探してきます!」
彼女は部屋の中をひっくり返すように探し回り、ようやく学習机の引き出しから体温計を見つけ出した。
「はい、あーん——」
「自分でやる」
朔は体温計を受け取り、口に咥えた。
陽葵はベッドの脇に座り、両手で頬杖をついて首を傾げながら彼を見つめていた。
「先輩、知ってますか? 風邪引いてる時の先輩、すごくお利口さんに見えますよ」
朔は彼女を睨みつけた。
「ほら、睨んでる時もお利口さん!」
体温計が『ピー』と鳴った。朔が取り出して確認する——38.7度。
「わあ、高い!先輩、水分たくさん摂って、しっかり休んで、変なこと考えちゃダメですよ」
「変なことなんて考えてない」
「嘘だ。絶対、神城先輩のこと考えてましたよね」
朔は沈黙した。
陽葵はその表情を見て、青い瞳をパチクリとさせた。
「先輩、」彼女の声が少しトーンを落とした。
「神城先輩と……昨日の夜、何かあったんですか?」
「どうしてそう思う」
「だって、今日の神城先輩、学校でずっと笑ってたんですもん」
「笑ってた……?」
「ええ。すごく、ふんわりとした笑顔。いつもの作り笑いじゃなくて、本当に笑ってる感じ。……あの笑顔を見た時、直感したんです。昨夜、絶対に何かあったんだなって」
陽葵は俯き、指先でスカートの裾を弄ぶ。
「先輩、説明しなくていいですよ」陽葵は顔を上げ、少し無理をしたような笑顔を見せた。「嫉妬してるわけじゃありません。ただ……先輩が幸せならいいなって、そう思っただけです」
「先輩が幸せなら、私も幸せですから」
彼女は笑っていたが、その青い瞳には薄い膜のような涙が浮かんでいた。
「陽葵」
陽葵が目を瞬かせる。朔に名前を呼ばれると、彼女の表情はいつも柔らかくなる。
「お前を、悲しませるようなことはしない」
陽葵は呆然とした。
そして、彼女の目の縁が赤くなった。
「先輩……」彼女の声が震える。
「そんなこと言われたら、泣いちゃいますよ」
「泣けばいい」
「嫌です。泣いたらメイクが崩れちゃう」
「……待て、メイクしてるのか?」
「当然ですよ! 先輩のお見舞いに来るのに、すっぴんなんてありえません!」
朔は思わず吹き出した——短く、小さなものだったが、確かに笑った。
陽葵はそれを見逃さなかった。
ついに彼女の涙が溢れ、こぼれ落ちた。
「先輩が笑った……」彼女は泣きながら笑った。「先輩が、本当に笑った……」
「泣くな。不細工だぞ」
「先輩の方が不細工です! 熱出してる時の顔、死ぬほど不細工!」
「なら、どうして見舞いに来た」
「好きだからですよ! 不細工だろうが何だろうが、好きなんです!」
陽葵は袖で涙を拭い、深呼吸をして再び笑顔を作った。
「先輩、お粥の続き食べますか?」
「いや、いい」
「じゃあ、薬飲ませてあげます!」
「もう飲んだ」
「じゃあ、お喋りしましょう!」
「寝かせてくれ」
「じゃあ、寝顔見てます!」
「……」
朔は目を閉じ、寝たふりをした。
だが、陽葵の視線が自分の顔に注がれているのを感じる。優しく、真剣で、薄いベールに包まれているかのような視線。
この女は本当に騒々しい、と彼は思った。
けれど、温かい。
突然、インターホンが鳴った。
「私が出てきます!」
数分後、足音が再び階段を上がってきたが、今度は二人分だった。
陽葵がドアを開け、その後ろに続いていたのは——。
詩織。
制服姿で、紙袋を手に提げ、いつも通りの静かな表情を浮かべていた詩織。
「月乃森先輩も来ました!風邪薬を届けに来たって!」
詩織は部屋に入ると、紙袋を机に置き、机上の薬と朔を交互に見た。
「どうやら、遅かったみたいね」
「いや、そんなことはない、逆にどうして俺が熱を出したと分かった?」
「直感」
「それに、今日は学校に来なかったから」
彼女は紙袋から数種類の薬、一袋のオレンジ、そして一冊の本を取り出した。
「薬は解熱用。オレンジはビタミン補給。本は暇つぶしよ」
ありがたいと思うが、何故日本史なんだ?
彼女は淀みのない動作で、それらを一つ一つ机に並べていった。
「ありがとう」
詩織は頷くと、もう一つの椅子を引き寄せ、ベッドの反対側に腰を下ろした。
こうして、朔のベッドを挟んで、左側には陽葵が、右側には詩織が座ることになった。
陽葵はオレンジの皮を剥き始め、詩織は静かにスマホを眺めている。
部屋は静かだったが、気まずさはなかった。
朔は目を閉じ、再び眠りにつこうとした。
が、
「バンッ」
またドアが開いた。
今度はチャイムもノックもなく、ただ勢いよく扉が押し開けられる音だけが響いた。
朔は目を開けた時、結月が入り口に立っていた。コンビニの袋を提げ、髪を少し乱し、肩で息をしている。走って帰ってきたのだろう。
彼女の視線が室内を走った——ベッドに横たわる朔、左側でオレンジを剥く陽葵、右側でスマホを操作する詩織。
結月の表情に変化はなかった。
だが、コンビニ袋を握る指先に力が入り、カサカサと小刻みな音を立てた。
「ただいま」
彼女の声は、恐ろしいほどに穏やかだった。
「おかえり」
結月は室内に入り、コンビニ袋を机に置くと、椅子を引き寄せ——ベッドの足元に座った。
三人。
三脚の椅子。
一台のベッド。
その中央に横たわる朔は、まるで三匹の猫に囲まれた金魚鉢のような気分だった。
「五十嵐さん」結月が口を開いた。「あなた、どこから入ったの?」
「窓からです!」陽葵が堂々と言い放った。
「月乃森さんは?」
「玄関よ」詩織が答える。「鍵が開いていたわ」
「どうして鍵をかけなかったの?」
「38.7度だ。鍵をかける気力もなかった」
「私に頼めばよかったでしょう」
「お前はいなかった」
「電話すればよかったじゃない」
「スマホは充電中だ」
「あなたは、いつも——」
「神城先輩」陽葵が遮った。「先輩、まずは落ち着いてください! 朔先輩は病人なんですよ」
結月は口を閉ざした。
彼女は深く息を吐くと、立ち上がって朔のそばに寄り、その額に手を当てた。
「薬は飲んだの?」
「飲んだ」
「どの薬?」
「お前が朝置いていったやつだ」
「ご飯は?」
「陽葵のお粥を食べた」
結月の視線が机の上の、あの灰白色の物体へと向けられた。眉がわずかに動く。
「……あれがお粥?」
「陽葵はそう言っていた」
結月は一秒間沈黙し、それからコンビニ袋から保温容器を取り出した。蓋を開けると、そこには刻みネギが散らされた淡白な白粥があり、湯気がふわりと立ち上った。
「こっちを食べて」
彼女は保温容器を朔に手渡した。
溜息をつき、朔は容器を受け取ってスプーンを動かした。
お粥は、美味しかった。
薄味で、温かく、すべてが適切だった。
「神城先輩、料理上手すぎます……」陽葵が、悔しさを滲ませながら小声で呟いた。
「ありがとう」
結月は得意げな様子はなく、ただ事実を述べるような淡々とした響きだった。
「私だって上達しますから! 次は絶対に先輩に『美味しい』って言わせます!」
「次?」結月の声が一段低くなった。
「そうですよ、次! 先輩が風邪を引くのは一回きりじゃないでしょうし!」
「……彼にまた病気になってほしいの?」
「そんなわけないじゃないですか! でも、万が一ってことが!」
「万が一なんてないわ」
二人の少女がまた言い合いを始めた。
朔が黙々とお粥を食べていると、余光で詩織が自分を見ていることに気づいた。
「どうした?」
「別に。ただ、朝よりも顔色が良くなったなと思って」
「お粥を食べたからな」
「お粥のせいじゃないわ」詩織は陽葵と結月をちらりと見やり、その口元に極めて淡い微笑を浮かべた。
「誰かがそばにいてくれるからよ」
朔はスプーンを止め、器の中の白粥を見つめた。
彼女の言う通りだ。
お粥のせいではない。
誰かがそばにいてくれるから。
陽葵の騒がしさ、結月の細やかさ、詩織の静寂——。
それぞれの形は違えど、そのどれもが、自分は「一人ではない」と感じさせてくれた。
「浅倉」
「何だ?」
「明日は生徒会の会議があるから、看病には来られないわ」
「気にするな。一人で何とかできる」
「五十嵐さんは明日、中間テストでしょう」
「テストなんていいんです! 私、どうせ満点取れますから、サボります!」
「ダメだ」
結月と朔の声が重なった。
陽葵は不満そうに頬を膨らませた。
「月乃森さん。彼の看病をお願いしてもいいかしら?」
詩織は少し考えた。
「ええ、いいわよ」
結月は頷き、それから朔を見た。
「私が行った後も、いい子にしてるのよ。薬を飲んで、水を飲んで、寝ること。勝手に出歩かない、体を冷やさない、それから——」
「結月」
「何?」
「今のお前、すごくお節介な母親みたいだぞ」
結月は虚を突かれたように固まり、それから顔を赤らめた。
「……私は、義理の妹としての務めを果たしているだけよ」
彼女の声は、普段より少し小さかった。
「妹の務めに、これほど細かい小言は含まれていないはずだ」
「……なら、元カノとしての務めだと思って」
部屋が静まり返った。
陽葵が目を見開き、詩織の表情は変わらず、朔の手は空中で止まった。
結月自身も、そんな言葉が口から出るとは思っていなかったのか、一瞬呆然とした。
だが、彼女は言葉を撤回しなかった。
彼女は朔を見つめた。その灰色の瞳には、何らかの決意を固めたかのような、不思議な強情さが宿っていた。
「元カノとしての務めよ」彼女は繰り返した。「私が身を引いたことを、後悔させないでほしいっていう……ただの警告」
朔は彼女の瞳を見つめ返した。
その瞳に涙はなく、震えもなかった。ただ静かで、確固たる、何かにようやく辿り着いたような光だけがあった。
「……分かった。後悔はさせない」
結月の口角がわずかに上がった。
それは朔が今まで見た中で、最も嘘のない、結月の真実の笑顔だった。
陽葵は二人のやり取りを見つめ、唇を噛んだが、何も言わなかった。
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