第31話 戻った声で、最初に選ぶ問い
朝は、思っていたより普通に来た。
窓の外で鳥が鳴き、通りの石を踏む誰かの足音が遠く響く。夜のあいだ、第三留置枠の底で何かを選び、何かを閉じ、自分の声を取り戻したのに、世界の方は拍子抜けするほど変わらない。
その変わらなさが、今は少しだけありがたかった。
リネアは居間の椅子に座ったまま、両手で湯気の立つ杯を包んでいた。湯の香りが喉に優しい。熱が通るたび、まだ新しく開いたばかりの場所が、自分の身体の一部として少しずつ馴染んでいくのがわかる。
声は戻った。
だが、元通りではない。
言葉を出すたび、喉の奥で小さな痛みが走る。長く続ければ掠れるだろうし、強く出そうとするとまだうまくいかない。けれど、沈黙しかなかった昨日までと比べれば、それはむしろ確かな手応えだった。
居間の向かいでは、ユリウスが記録紙を整えている。
オルドは窓辺に寄り、外の気配を眺めていた。
カイルは眠そうな顔で壁にもたれているが、少しの物音にも視線だけは鋭く動く。
「補佐室側は、まだ静かです」
ユリウスが紙から目を上げずに言った。
「少なくとも、今朝の時点では。旧棟周辺の封鎖は維持されていますが、追加の呼び出しや強制立入の動きはありません」
「向こうも測ってるんだろ」
カイルが低く言う。
「閉じたのか、残ってるのか、どこまで読めるのか」
「ええ」
ユリウスは短く頷いた。
「こちらと同じです」
同じ。
その言葉に、リネアは杯を持つ指へ少しだけ力を込める。
昨夜、確かに閉じた。
少なくとも、第三留置枠のあの形では終わった。
けれど、応答体が完全に消えたのか、それとも別の形で残っているのかまでは、まだわからない。
そして、それを知りたいと思ってしまう自分も、まだいる。
喉の奥が、ほんの少しだけきしんだ。
オルドが窓の外を見たまま言う。
「で、これからどうする」
その問いは乱暴ではない。
静かな確認だった。
今までなら、そこでリネアはすぐ紙を探していただろう。あるいは、声を失っていたままなら、答えたくても答えられなかった。
けれど今は違う。
彼女は一度、喉へ意識を向ける。
「……たしか、めます」
掠れる。
だが、意味は届く。
カイルが顔を上げた。
「何を」
リネアは息を整え、今度はもう少し慎重に言葉を継ぐ。
「こえ、が……どこ、まで……わたし、の、こえ、か」
完璧ではない。
けれど、伝わる。
その瞬間、自分で少しだけ驚いた。
戻った声は、まだ壊れかけの橋みたいに不安定だ。だが、短い問いなら、自分の意志でかけられるところまで来ている。
ユリウスが静かに言う。
「良い順序です」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
「定着の確認が先です。無理に過去を掘り返すより、まず現在の状態を把握するべきでしょう」
オルドが振り返る。
「つまり、事件の後始末より先に、喉の後始末か」
「言い方は雑ですが、概ねそうです」
カイルが苦笑する。
「こうして聞くと、やっと普通の回復っぽいな」
普通。
その言葉は、少しだけ遠かった。
普通の回復なら、こんなふうに“自分の声が自分のものかを確かめる”必要はないだろう。けれど、それでも今は、その確かめ方こそが大事なのだとリネアにはわかる。
昨夜選び取った声で、次に何を語るか。
それは、応答体や補佐室のことより先に、自分自身へ向けるべき問いなのかもしれない。
ユリウスが紙を一枚取り出す。
「簡単な確認をします」
「確認?」
「発声の安定と、意味の連続性です」
カイルが顔をしかめた。
「また硬い言い方だな」
「要するに、どこまで話せるか試します」
ユリウスはさらりと言った。
リネアは杯を置く。
少し緊張した。
けれど、昨夜の第三留置枠に比べれば、怖さの質はずっと穏やかだ。
「短くて構いません。まず、自分の名前を」
その言葉に、部屋が少しだけ静かになる。
昨夜、温室跡で彼女は言った。
わたし、です。
けれど今度はもっとはっきり、名前として言わなければならない。
リネアは息を吸う。
喉の奥の新しい重みを感じる。
怖い。
でも、ここで問われているのは応答体の正体ではない。自分自身だ。
「……リ、ネア」
音は細い。
それでも、切れずに最後まで届いた。
自分の名前。
それが声になって部屋へ落ちた瞬間、胸の奥で何かが静かに揃うのを感じた。
カイルが目を細める。
「ちゃんと、お前の声だな」
オルドも頷く。
「少なくとも、今のは向こうの返りじゃない」
その言い方に、リネアは少しだけ笑いそうになる。
ユリウスは記録紙へ短く何かを書き留めてから、次を促した。
「次は、自由で構いません。今、最初に言いたいことを」
自由。
その言葉に、リネアは少し戸惑う。
昨夜なら、ありがとうと言った。
それは間違っていない。
けれど、今朝の自分が最初に言いたいことは、たぶん少し違う。
戻った声で、最初に選ぶ問い。
何を語るかではなく、何を問うか。
それが、この先の新しい自分を決める気がした。
リネアは窓の外を見る。
朝の光は薄く、でも確かに家の中へ差し込んでいる。
十年前の朝、自分には何も選べなかった。
いまは違う。
彼女は、ゆっくりと言った。
「……これ、から」
喉が少し掠れる。
でも、続ける。
「……なに、を……はな、せば……いい、ですか」
問いだった。
部屋の三人が、一瞬だけ黙る。
それは弱い問いではなかった。
誰かに答えを預ける問いでもない。
自分の声を取り戻したあと、その声で何を語っていくのかを、自分の意志で選ぼうとする問いだった。
ユリウスが静かに答える。
「あなたが、話したいことを」
オルドが鼻で笑う。
「つまらん答えだな」
「答えを奪わないようにしています」
「そこは褒めてやる」
カイルは壁から背を離して言った。
「でも、最初はそんな大きい話じゃなくていいだろ」
彼は少し考えてから、肩をすくめる。
「たとえば、腹減った、とか」
一拍遅れて、リネアは本当に少しだけ笑った。
笑って、そのまま喉を震わせる。
「……それ、は」
掠れながらも、言葉は続く。
「……あり、ます」
カイルが吹き出す。
「だろ?」
オルドまで小さく笑う。
ユリウスも、口元だけほんのわずかに緩めた。
その瞬間、リネアはようやく実感する。
戻った声で語ることは、最初から大きな真実や正義や過去でなくていい。
まずは、自分が今ここにいること。何を感じて、何を望んで、何を話したいのか。そこから始めればいいのだ。
十年閉じていた声は、きっとそのために戻ってきた。
外では、朝の気配がもう完全に夜を追い出している。
補佐室側の反応も、応答体の痕も、まだ先には残っているだろう。
それでも、今この小さな部屋の中では、昨夜までとは違う順番で時間が進み始めていた。
リネアは、自分の喉へもう一度だけ手を当てる。
空白ではない。
選んで戻した声が、ここにある。
――第三十一話了
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