抱っこしちゃったね

 暗い。どこまでも黒かった。


 樫くんの奥へ潜っていくほど、視界が黒い線で埋めつくされていく。最初はただの分厚い壁だと思ったけれど、しゃがみ込んで黒い線をなぞると、ぼろぼろと破れていく。


 破れた箇所の隙間に耳をすますと、奥から小さな声が微かに聞こえてきた。


 まま、おそといっちゃった。

 いいこにしててねって。

 でも、ずっとこないの。


 ――ああ。

 これが、樫くんの最初の色なんだ。


 寂しくて苦しくて、冷たい。ここは樫くんのいた床の色。クレヨンで何度も何度もぬりつぶれた跡が痛々しく残っている。


 でんきつかない。

 カチカチいっぱいしたけど、

 ずっとくらいよ。おなかいたい。

 ぼくのあし、どこにあるの?


 かきわけた暗闇のいちばん奥で、樫くんによく似た小さな気配を見つけた。

 

 おくつのところゴロンした。

 ここなら、ドアがガチャってしたら

 すぐわかるもん。


 ままごめんね。いいこにするから。

 まま、まま、ままどこ?


「……見つけた」


 声に反応して、小さな肩がぴくりと震える。僕は冷え切った身体を抱きしめた。葉っぱみたいに小さな手に黒いクレヨンがぎゅっと握りしめられている。


 もうこれ以上、ぬらなくていいように。

 その手を包み込んで止めた。


 やがて、小さな唇がかすかに動く。


「おかえり」

「みかげ、いいこにしてたよ」


 ずっと、ずっと待っていた声だった。

 胸がぎゅっと痛くなる。僕はこの子のママじゃない。それでも、この子が待っていた場所へ帰ってきたかった。

ひとりぼっちで、真っ黒になるまで自分を見えなくしていた、この子のところへ。


「ただいま、みかげくん」


 頬へ根を寄せた。黒の中へ白が少しずつ滲んで淡くなる。僕はひび割れた暗やみを少しだけ食べた。愛しいこの真っ暗やみが、僕以外を待たなくてすむように。


「いっしょにお外に行こうね」


 僕は小さな影を抱きしめて、すっかり取り込んでしまってから立ち上がった。僕なら真っ暗でも進路はわかる。こっちだと確信しながら先へ進むと、やがて小さな背中が見えてきた。ひと回り大きくなっている。


 床へ膝を抱えて座り込んで、新しい黒を重ねようとしていた。みかげくんの隣で微笑む年配の女性の足元に、ゴミ箱を見つけた。


 カラン。

 乾いた音が暗やみへ落ちる。


「そんな汚れたもの、もう必要ないわよね」


「あ……」


 小さな身体が固まっていた。取り戻したいのに動けない。欲しいと言ってはいけないみたいに、唇を噛みしめていた。


「さあ、みかげくん。おかげさまは?」


 優しいのにぞっとする声が振り注ぐ。

 小さな喉はひくりと震えていた。


「……うばって、いただき……おかげ、さまです」


 違う。そんなの違う。

 気づけば僕は走り出していた。


「……しーっ。こっちにおいで」


 驚いて振り向いたみかげくんの手を取って、僕はそのまま一緒に床へしゃがみ込む。


「ポイされちゃったね」


「……うん」


「拾っちゃおうか。ないしょだよ」


 僕の影から、白い根がするりと伸びる。ゴミ箱の底へ潜りこみ、生ゴミや濡れた紙をかき分けると、かつりと硬い感触に触れた。


「見つけた。これだね」


 拾い上げたキーホルダーを、みかげくんの手へ戻す。キャラクターの色が剥げている。薄くてペラペラだ。いつの間にか真っ黒だったゴミ箱の底に、じんわり夕焼けみたいな色が浮かび始めた。


「……あ。だめだよ。それ、よごれてるから……」


 怯えた声で耳を塞いでいる。僕は首を振り、拾ったキーホルダーを自分の頬へそっと擦り寄せた。


「お母さん、どんな時に買ってくれたの?」


「スーパーの、ガチャガチャで……ぼくが、いいこにしてたからって……」


「そっか。いいこにしてたから、くれたんだね」


 胸が苦しい。みかげくんの目が揺れている。小さな唇が震えている。


「……でも、ぼく、わるいこだから……お母さん、しんじゃった……っ」


 みかげくんの真っ黒な瞳からぽろ、と大粒の涙が零れた瞬間、黒い世界に小さな亀裂が走る。僕はたまらなくなって、やせっぽっちで、壊れてしまいそうな身体を抱きしめた。


「大丈夫」


 根が、無意識にみかげくんの背中へ巻きついていく。


「これは、みかげくんが持ってていいものだよ。お母さんに会いたかったんだね」


 みかげくんの顔がぐしゃぐしゃに歪む。


「おかあさん……っ、おかあさん……!!」


 記憶の奥底にいたあの日から、この子はずっとガマンしていたのだろう。僕は何度も、その涙を根で拭って吸いこんだ。


「これはゴミなんかじゃないよ」


 黒いぬりつぶしの下に残っていた、愛されていた記憶を誰にも捨てさせたくなかった。涙一滴だって落ちたままにしたくない。


 僕はみかげくんの寂しくて愛おしい思い出の欠片を、世界で一番大切な宝物として自分の身体の奥深くに飲みこんだ。


「ぼく、わるいこになっちゃった」


「偶然だね。僕もわるいこなんだ。もっとわるいこになっちゃおうか」


 二人でクスクス笑い合う。根をみかげくんの指の間にするりと絡みつかせた。黒いクレヨンで汚れた小さな手を、僕は離すつもりはない。


 今度は二人で歩く。向こう側でパシャ、と光が瞬く場所が見えてくる。


 テーブルがあって、お皿のカチカチした感触。ハンバーグの匂いがする。お皿の3時の場所にフォーク、9時にナイフ。食器はピカピカに光っているのに、部屋全体からカビの匂いがする。


「さあ、みかげくん。笑って。みんなのために」


 園長先生の声はやさしいのに、喉の奥が苦しくなる。このハンバーグは、食べちゃいけない。幸せなぼくを撮るためのごはんだから。空腹でおなかが鳴ると、園長先生はうれしそうに笑った。


「かわいそうなのに、ちゃんと頑張れてえらいわね。さすが、みんなのお兄ちゃんね」


 ぼくは、お母さんに捨てられた「かわいそうな子」じゃないといけない。そうじゃないと、ぼくはここにいちゃいけない。


「世界であなたを愛しているのは、わたしたちだけなのよ」


 パシャと光が瞬くたびに、みかげくんは膝の上でぎゅっと指を握っていた。


 僕は、みかげくんの小さな手を引いて、のっぺりとした、大きな白い服の前に立った。白い服は、触れたら汚れてしまいそうだったからみかげくんは、ずっと自分の手を後ろへ隠していた。


「こわくないよ。僕が君の腕になるから」


 みかげくんの小さなてのひらには、ゴミ箱から救い出したばかりのキーホルダーがぎゅっと握りしめられている。


「園長先生だっこして」


「ぼくを、みて……」


 みかげくんは白い服を見上げる。


「このキーホルダーもいっしょがいい」


 涙で濡れた頬で、黒いクレヨンで汚れた指で、お母さんとの思い出を捨てないままで。


「園長先生が嫌いな、ぼくの汚れもぜんぶ抱っこして」


 みかげくんは真っ白な胸元に、キーホルダーを押し当て飛びこんだ。パシャパシャと焚かれていたフラッシュの光が激しく乱れている。


 僕は先生の服の壁ごと、みかげくんをぎゅっと抱きしめた。白い根で小さな強張った手を幾重にも包み込んでいくと、布地はトロリと溶け、だんだん柔らかい綿毛へと変わって飛んでいった。


 みかげくんの小さな背中を優しく、何度もさすった。ずっといい子でいるために、板みたいに硬くしていた背中が、ゆっくり解けていく。


「抱っこしちゃったね」


 黒い塗りつぶしは消えないけれど、奥底の柔らかい場所は、静かに眠りにつこうとしていた。


「おかげさまで、僕はわるいこになりました」


 皮肉めいた晴れやかな言葉と共に、足どりは次の暗闇へと芽吹いていく。

今度はページをめくる音がした。暗闇の中に、白くて艶やかな紙が浮かんでいる。


『光恩の家 おかげさまの光に抱かれて』


 文字がやけに眩しい光を放っている。そこに写っていたのは、少し幼いみかげくんだった。


『ゴミ溜めの中で母親に捨てられた少年。彼は今、私たちの愛の中で、新たな生命を謳歌しています』


 胃の奥がぐらりと揺れた。

 違う。これは、愛なんかじゃない。

 幼い声が響く。


「おかげさまです」


 言わされていると気づいた途端、根がざわりと逆立った。


「みかげくん、今日はこの方の隣に座って。あなたの生い立ちを話せば、きっとまたこの施設に光恩を授けてくださるわ」


 園長先生は微笑んでいる。吐き気がするほどやさしい声だ。笑わなきゃいけない気がするから口角を上げた。


「お母さんは、千円札一枚だけ置いて、ぼくを置いて遠くへいってしまいました。雪が降っていて、すごく寒い日でした。でも、園長先生がぼくを見つけて、本当の愛を教わりました」


 何度も繰り返した台本。本当のことを言ってるけど、真実は言っていない。支援者の大人たちは、「かわいそうに」と涙を流していた。その涙一滴がいくらになるのか、おれにはだいたいわかる。


 この人たちは、不幸な子どもを助けている自分が欲しいだけだ。別に相手が、おれじゃなくてもいい。


「みかげくん。この家を出て、あなたがどこへ行けるというの?パンも、着ている服も、あなたの居場所だって、全部『おかげさま』が用意したものなのよ」


 違う。最初からそんな神なんていやしない。クラスのやつに聞いたことがある。


『おかげさま?なにそれ』


『変な宗教?なんかこわい』


 でも、大人たちは違った。学校は、園長先生から贈られた教育功労賞の盾を職員室へ飾ってたし、市役所から来た大人は地域福祉への貢献と言って施設を褒めていた。


 みんな、この場所が便利なんだ。愛って名前さえつければ行き場のないガキを一つの箱へ押しこんでおけるから。


 チャイムが鳴った。次は体育の時間だ。

冬の校庭は冷たくて乾いた風が吹いてる。


「ドッジやるぞー!」


 クラスのやつらが、騒ぎながらコートへ散っていく。おれは壁際へ下がった。別にドッジボールは嫌いじゃない。でも、どう混ざればいいのかわからない。だって、みんなおれを遠巻きに見るから。


 笑い声とボールを奪い合う音が響く。


 足元を見るといつのまにか影が伸びてた。こいつが、俺を全部飲み込めばいいのに。そうしたらもう無理して笑わなくてすむ。



「あーそーぼ」


 背後から、場違いなくらい気の抜けた声がした。振り向くと、白い根っこみたいなものを揺らした変なやつが立っていた。その隣には、小さな頃のおれがいる。


 ……なんだこれ?


「ねえ、これ何の遊び?」


「ドッジボール。知らねーのかよ」


「うん、知らない」


「こうやるんだよ」

 

突然ボールを投げられて、鈍い音が響く。


「……っ」


こんな衝撃、初めてだった。

誰かが本気で投げたものが、まっすぐ自分へ届く。ちゃんとぶつかってきてくれる。


どうしようもなく嬉しかった。おれもボールを投げ返したら、あっさり当たった。


「あは、当たっちゃった」


「当たったじゃねーよ。避けろよ、どんくせーな」


 痛い、びっくりするくらい痛い。胸の奥まで揺れたよ。思わず息が変になった。

 壁際からみかげくんが近づいて、呆れた様子でこっちを眺めている。また少し背が伸びたみたい。


「強いね、みかげくん」


「お前が弱すぎるんだよ」


 ぽろ、と涙が落ちる。


「そんな痛かったか?突き指してないか?」


 あたふたしながら僕の手を掴んで、痛んでないか確かめている。君はまだ子どもなのに、もう、この時点で樫くんなんだ。


「違うんだ。初めてだったから。誰かが、ちゃんと僕にぶつかってきてくれたの」


 僕は涙を拭いながら笑った。


 風が吹いて、遠くで歓声が上がった。ころん、とボールがこちらに転がってくる。僕はしゃがんで、小さなみかげくんをそそのかした。


「あのおにーさんに当てちゃえ。大丈夫だよ。いっしょにやろう?」


 白い根を小さな腕へするりと絡みつかせる。ぽい、と投げられたボールは、思ったよりずっと速かった。トンっと足に当たる音がする。


「はい。君も当たったよ。ルールでしょ?外に行かなきゃ」


「しょうがねーな。次は負けねーからな。お前を的にしてやる」


「ふふ。期待してるね」


 壁際に立っていたはずの足は、コートの外側へ踏み出していた。少しずつ指の長さが伸びて、大きくなっていくてのひらと一緒に、樫くんの人生の続きへ進んでいく。


「次は、どんな黒があるのかな」

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