第3話 兵糧も矢もない砦で、外れ補給係が一晩で壁と粥を用意する
破城槌の弱点は、先端じゃない。
車輪だ。
特に、左前輪。
西の闇から押し出されてくる車輪付きの破城槌を見た瞬間、俺は確信していた。
あの荷車は、去年の春の泥濘で軸受けを割った。
正規の交換部品を申請したが、予算不足を理由に却下された。
だから俺は、灰樫の割り楔と、ひと回り大きい留め鋲で誤魔化した。
運ぶだけなら足りる。
だが、重い荷を前に載せて、斜めから衝撃を食らえば外れる。
そして今、あの連中は荷車の前へ、鉄を巻いた丸太なんて馬鹿みたいに重いものを載せている。
壊しどころが、わかりやすすぎた。
「副司令」
俺は破城槌から目を離さずに言った。
「井戸の鎖、馬具の革帯、太縄、滑車。全部こっちへ」
「全部か」
「全部です。あと、さっき剥いだ狼の脂も」
「脂?」
「滑らせます」
セレナは一瞬だけ眉を上げたが、すぐに振り返った。
「聞いたな! 井戸の鎖を外せ! 馬具も切れ! 脂は鍋で温めろ!」
兵たちが一斉に散る。
ガレス軍曹がこちらへ駆けてきた。
「補給主任、本当に止められるんだろうな」
「止めます」
「どうやって」
「左前輪を折ります」
「……あんな大物を、車輪一つでか?」
「大物ほど、足を折ると勝手に転びます」
ガレスが一拍置いてから、にやりと笑った。
「嫌いじゃねえ理屈だ」
俺は崩れた壁材と折れた槍、回収した鉄鎖へ手を置いた。
《野戦工房》起動
資材を認識します
鉄材 百二十九
木材 百四十六
鎖 四
革帯 十一
微小魔石 九
構築可能
――鉤鎖槍
――巻上機
――車輪楔
――滑走脂
「よし」
まずは巻上機だ。
井戸の鎖、滑車、寝台の脚、壊れた荷車の車軸。
それらを砦の内壁に組み、六人がかりで回せる巻上機を二基作る。
そこへ太縄を通し、先端に鉤鎖槍を繋ぐ。
さらに、門前の石畳へ狼脂を塗り、上から薄く水を打つ。
北辺の夜だ。
たちまち表面がぬめり、足も車輪も嫌がる地面になる。
最後に、俺は正門跡の左側へ、手のひらほどの低い石段を一つ作った。
若い兵が不思議そうに見る。
「補給主任、それは?」
「段差です」
「それだけ?」
「それだけで十分です」
荷車は平地に強い。
段差に弱い。
特に、壊れかけの左前輪は。
西から太鼓が鳴った。
赤牙族が隊列を整え、破城槌を押し出してくる。
左右は板で囲い、上には粗い屋根までつけている。
矢を弾きながら近づくつもりだ。
先頭を走る狼騎が、こちらを見て牙を剥いた。
「撃つな」
弓兵たちがざわつく。
「屋根に弾かれる。矢は温存しろ。狼騎だけを見ろ」
「でも、あれを近づけたら――」
「近づけるんです」
俺は言い切った。
「近づけないと、壊れない」
兵の何人かが息を呑む。
怖いだろう。
だが、怖い時に必要なのは、納得より手順だ。
「巻上機一番、二番は待機。俺が『回せ』と言うまで動くな。弓兵、狼騎を牽制。槍兵は内壁の後ろ。副司令」
「何だ」
「俺が下に行ったら、三十息だけ守ってください」
「短いな」
「贅沢は言えません」
「死ぬなよ」
「善処します」
セレナの口元が、ほんの少しだけ上がった。
赤牙族の咆哮が近づく。
狼騎が左右に散る。
その間を、破城槌が正門跡へ向かってまっすぐ進んできた。
火に照らされた左前輪の留め鋲が見える。
大きい。
不格好な鋲だ。
俺が急場しのぎで打ったものだから、間違えようがない。
「狼騎、撃て!」
矢が飛ぶ。
一頭が喉を抜かれて転げ、もう一頭が騎手ごと落ちる。
だが破城槌は止まらない。
押し手たちが板の陰で吠えながら、一気に距離を詰めてくる。
十歩。
八歩。
六歩。
まだだ。
「補給主任!」
誰かが叫ぶ。
屋根板に何本も矢が刺さり、嫌な音が続く。
門前の石畳が震える。
あの鉄の頭がこのまま突っ込めば、せっかく作った半月壁もただでは済まない。
だが、俺は待った。
左前輪が、俺の置いた低い石段へ差しかかる。
その瞬間だ。
「今だ! 鉤鎖槍、発射!」
俺は自分で作った簡易投槍器の引き縄を引いた。
短く重い鉤鎖槍が、唸りを上げて飛ぶ。
狙うのは人間じゃない。
留め鋲だ。
金属音が鳴った。
鉤が、左前輪の大鋲へ噛みつく。
「回せ!」
六人が同時に巻上機を回した。
鎖が張る。
縄が軋む。
破城槌が、ほんのわずかに左へ引かれる。
だが、それでも押し手の勢いは止まらない。
若い兵が顔を青くする。
「だ、駄目です! 止まりません!」
「まだだ!」
俺は叫んだ。
左前輪が石段へ乗り上げる。
荷重が傾く。
鎖が横へ引く。
そして、俺が打った大鋲が、悲鳴みたいな音を立てた。
ぎぃん、と嫌な音。
次の瞬間。
左前輪が、丸ごと飛んだ。
「――ッ!」
破城槌の車体が左へ沈む。
前へ載せていた鉄巻きの槌頭が、重みに引かれて石畳へ叩きつけられた。
鈍い衝撃が砦全体へ響き、板屋根がひっくり返る。
押していた赤牙族が、悲鳴と一緒に下敷きになった。
後ろから押していたやつらも止まれない。
滑った。
狼脂を塗った石畳で足を取られ、折れた車台へ次々に突っ込む。
「火脂壺!」
左右から壺が飛ぶ。
割れる。
粘る火が板屋根と獣皮へ貼りつき、一気に燃え上がった。
赤牙族が燃えながら暴れる。
押し潰されたやつの上で、さらに別のやつが転ぶ。
狭い。
熱い。
滑る。
そして、逃げ場がない。
最高だ。
「撃て!」
今度こそ、弓兵が容赦なく矢を降らせた。
火に照らされた影へ、喉へ、顔へ、脇へ。
板の陰へ隠れたつもりの連中が、燃え上がった車体ごと射抜かれていく。
だが、一人だけ止まらない。
炎の向こうから、赤い毛皮を肩に掛けた大男が飛び出した。
狼騎の頭目か、あるいはそれ以上だ。
手には長斧。
胸には人間用の胸甲を削って作った鉄板。
第三遠征団の刻印まで残っている。
「返せよ、それ」
思わず口から出た。
大男は俺の言葉などわからないまま、倒れた破城槌の上を踏み越えてきた。
火を浴びても止まらない。
斧を振りかぶり、そのまま内壁の隙間へ飛び込もうとする。
まずい。
あいつが通れば、せっかくの詰まりが崩れる。
「副司令!」
「わかっている!」
セレナの槍が伸びる。
だが、炎と転がる死体が邪魔で一拍遅い。
なら、俺がやる。
俺は内壁から飛び降りた。
「おい!?」
「補給主任!?」
着地と同時に、倒れた破城槌へ手をつく。
熱い。
焦げる臭いがする。
だが構わない。
「借りるぞ。今度は、こっちの門になれ」
《野戦工房》起動
構築対象を再編します
倒れた車台が鳴る。
折れた梁が引き寄せられ、板が噛み合い、鎖が巻かれる。
左へ傾いていた破城槌の残骸が、まるで生き物みたいにねじれながら起き上がった。
大男が目を見開く。
間に合わない。
旋回した鉄巻きの槌頭が、そのまま大男の胸を石壁へ叩きつけた。
鈍い、嫌な音がした。
人間用の胸甲ごと潰れ、大男の身体が折れる。
そのまま槌頭と壁の間へ挟まり、完全に動かなくなった。
次の瞬間、車台の板が畳まれ、槌頭ごと門の隙間へ楔みたいに食い込んだ。
門が、一枚増えた。
しかも、敵が持ってきた破城槌で。
「ははっ……!」
誰かが笑った。
その笑いはすぐ、兵たち全体へ広がる。
「門が増えたぞ!」
「敵の門だ!」
「押し返せ!」
半月壁の後ろから槍が突き出される。
燃え残った赤牙族が、今度こそ完全に詰まった。
前は破城槌の残骸。
後ろは仲間。
足元は滑る。
上からは矢。
もはや戦いじゃない。
処理だ。
角笛が鳴った。
一度。
二度。
短く、焦った音。
撤退だ。
赤牙族がようやく後ろへ引き始める。
だが、詰まった死体と燃える残骸のせいで、それすら遅い。
最後尾が闇へ消えるまでに、さらに何人も矢で倒れた。
「追うな!」
前へ出かけた兵たちを、俺は怒鳴って止める。
「外に出たら向こうの数だ! 今夜は奪い返す夜じゃない、生き残る夜だ!」
兵たちは踏みとどまった。
正しい。
勝った直後の一歩が、いちばん危ない。
しばらくして、砦の中にようやく本当の静けさが戻る。
火の音。
荒い呼吸。
血の臭い。
そして、遅れてくる実感。
セレナが槍を下ろし、短く報告を受ける。
「死者なし。重傷二、軽傷七」
誰かが、信じられないものを見る顔をした。
死者なし。
この数を受けて、その報告なら十分すぎる勝ちだ。
ガレス軍曹が笑いながら額の汗を拭う。
「本当にやりやがったな、補給主任」
「荷車ですから」
「いや、そこじゃねえだろ」
「俺にとってはそこです」
兵たちがどっと笑う。
いい笑いだ。
生き残ったやつの笑いは、腹に響く。
だが、仕事はまだある。
「笑うのは手を動かしながらにしてください。火を落とせるところは落とす! 残骸は全部回収! 鉄板、鎖、車軸、斧、胸甲、全部だ! あと、燃えてない荷も探せ!」
「まだあるのかよ」
「あるなら俺たちのものです」
今度は、笑いながら誰もが動いた。
敵が持ち込んだ破城槌は、もう砦の一部だ。
板も鉄も、二度目まで使える。
この勝ちは、そのまま明日の壁になる。
俺は焦げた御者台の近くへしゃがみ込んだ。
この荷車には、隠し箱がある。
御者台の下。
外からは見えない薄い板の裏だ。
俺がつけた。
帳簿だけだと、王都では物が消える。
だから現場の補給官は、物の側にも記録を残す。
誰にも教えない、自分だけの保険だ。
焦げた板を剥がす。
中から、油布に包んだ小さな包みが出てきた。
焼けていない。
「……残ってたか」
広げる。
中身は木札と、折り畳んだ羊皮紙だ。
木札には、見慣れた焼印がある。
王都第三遠征団補給列
第三便
六台編成
荷車番号 三
やはりだ。
この破城槌は、俺が失ったことにされた補給列の三番車。
そして、羊皮紙の積載欄にはこうある。
小麦 二十袋
塩肉 三樽
矢柄 二百
矢尻 五百
包帯 百巻
治癒薬 四十
冬布 六十
鉄釘 八箱
思わず、息が止まった。
「どうした」
セレナが隣へしゃがむ。
俺は羊皮紙を見せた。
「六台編成です」
「六台?」
「ええ。ここにあるのは三番車だけです」
セレナの目が細くなる。
「残り五台がある、と」
「あります」
俺は積載欄を指でなぞった。
この量なら、第八砦は三日じゃない。
もっと持つ。
負傷兵に包帯が回る。
治癒薬が切れない。
矢が尽きない。
冬布があれば、凍えて死ぬやつも減る。
金になるどころの話じゃない。
命そのものだ。
羊皮紙の下端には、俺が昔書き込んだ再集合地点まで残っていた。
旧鉱道南口。
補給列が分断された時の、仮集結地点だ。
地形的に風を避けられ、荷車も隠しやすい。
俺が選んだ場所だから、間違いない。
そして、こういう連中は、一度うまくいった手順を変えない。
「副司令」
俺は立ち上がった。
「残り五台、旧鉱道南口にいる可能性が高いです」
「高い、では困る」
「かなり高いです」
「かなり、か」
「俺が組んだ補給路ですから」
セレナはしばらく黙り、それから羊皮紙を受け取った。
「これを奪えれば」
「この砦は持ちます」
「守るだけじゃなくなるな」
「ええ」
俺は、焦げた破城槌――いや、もう門になった残骸を振り返った。
盗まれた荷車で、敵は門を壊しに来た。
なら、その続きをこっちでやればいい。
盗まれた補給で、敵は腹を満たしている。
なら、返してもらう。
まとめて。
「副司令。夜明けに出せる兵を選んでください」
「何をするつもりだ」
「決まってます」
俺は羊皮紙を畳んだ。
「残り五台、全部この砦に引き戻します」
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