風割

吟遊蜆

風割

 ある晴れた穏やかな日曜日。わたしは近所の小型スーパーで買い物をしていた。スーパーといっても個人商店のようなもので、レジはひとつしかない。店員も背の高い青年ひとりしか見たことがないので、おそらくは彼が店主なのだろう。しかし妙に迫力のある看板の書体や、もっと赤かったのであろう幌の色褪せ具合からすると、彼は二代目あるいはそれ以降ということもあり得るのかもしれない。


 なにしろ床面積が狭いので品揃えこそ期待できないが、生活に必要なジャンルはまんべんなく網羅されており、商品選びのセンスは悪くない。たとえば醤油は独自のルートでもあるのか、価格が安いわりにほかでは見ない一種類だけが置かれているといった具合だ。ほかに客はひとりもいなかった。


 何度もこの店を利用したことはあるが、店主と日常会話を交わしたことはない。毎度向こうは挨拶と金額を、こちらは支払い方法を一方的に告げるだけの関係である。狭い店内を一周し、カゴの中に豆腐、ネギ、ティーバッグ、台所用洗剤、味つけ海苔、たまごパックを投入したわたしは、そのまま誰も並んでいないレジへと向かった。


 レジカウンターにカゴを置くと、背の高い青年はいつもの「いらっしゃいませ」を省略して、「風の日セールです」とさも言い慣れたフレーズのように低くつぶやいた。よく見ると右手にはいつものバーコードリーダーではなく、スマートフォンのレンズをこちらに向けて構えている。


 しかし「雨の日セール」というのは聞いたことがあるが、「風の日セール」とは初めて耳にする言葉の並びであった。おそらくは風が強い日にだけなにかしらの割引があるということではあるのだろうが、その日はむしろ風を感じないほうの日であった。


 とはいえ普段からそんなに風を気にして歩いているわけではないから、本当に風がなかったかどうかまではわからない。あるいはほんの少量でも風が吹いていればセールの対象になるのだとすれば、完全に無風の日などあり得ないはずだから、毎日が「風の日セール」の対象ということになる。


 しかしわたしはこれまでに、レジでそのフレーズを言われたことは一度もなかった。むろんわたしが風に特別な興味がない以上、自信を持って断言することはできないが、きっと今日よりも風の強い日は何日もあったはずだ。


 そうしてわたしは「風の日セール」という言葉について考えを巡らせながら、ここはいったいなんと返せば良いものか、どのようなリアクションを求められているのかがすっかりわからなくなり、数秒間レジ前でフリーズ状態に陥ってしまった。


 しかし唯一の客であるわたしがそうやって逡巡している間にも、店主からセールに関する説明が追加されることはなかった。かといって彼はカゴの中の商品を取り出してスキャンする様子もなく、ただスマホカメラをこちらに向けてわたしの動きをじっと待ち続けている。そうなると何から訊いていいのかもわからず、適切な言葉が出てこない代わりにわたしが精一杯の表現として無言のまま首をかしげてみせると、店主はそこでようやく説明の必要を感じたようで、


「なにかしら風を感じさせてもらえれば、全品半額になります」


 と、待望の詳細を平板な口調でつけ加えた。


「感じさせる……?」


 風というのは自然に吹くものだと思っていたわたしは、その言葉のニュアンスを摑まえきれずに尋ねた。


「ええ、感じさせてもらえさえすれば、どんな風でも構いませんよ」


 しかしわたしが説明してほしいのは、そこの部分ではなかった。そんなことを言われたところで、こちらがどういうアクションを取れば良いのかは、依然としてわからないままだ。入口の自動ドアは閉まっているので、外の風が吹き込んでくる環境でもなかった。


「それはつまり、わたしが風を感じさせるということですか?」

「ええ、もちろん。割引の対象は、風を感じさせていただいたご本人のみとなっております」


 なんだかよくわからないが、さすがに全品半額となればこのチャンスを逃すわけにはいかない。わたしは頬をめいっぱい膨らませてから、店主の顔を目がけて「ふーっ!」と大きく息を吹きつけた。


 すると店主は「ちょ、ちょっと!」と言いながら、手に持っていたスマホを盾にしてあからさまに顔をそむけた。そして彼が服の左袖で顔にかかってもいない唾を拭ってみせると、代わりに突き出していた右手の中のスマホが「ブーッ!」という不快な音を言いふらすように発した。


「ああ、それじゃダメみたいですね」


 店主はまるで他人事のようにそう言った。どうやらわたしが風を感じさせなければならないのは店主ではなく、その手の内にあるスマホのほうであったようで、セールの合否判定を下すのも店主ではなくスマホの役割であるらしかった。


「AIが風を感じないって言ってるんで、それでは割引できません。たぶん『風』じゃなくて『息』と判断されたんじゃないでしょうか」


 いまどきのAIは、空気中の風と人間の息の区別までやってのけるのか。だがそもそもスマホ本体に、風やにおいを感知する機能など備わっていただろうか。わたしは途端に自分の口臭が気になりはじめたが、ならばいまわたしはそのAIとやらに、いったい何を求められているというのか。


 そうしてわたしが再びレジ前で思い悩んでいると、不意に入口の自動ドアが開いて、いかにもパチンコ屋に開店前から並んでいそうな、くたくたのキャップをかぶった中年の男性客が入ってきた。


「なるほど、ここはひとつ様子を見てやろう」


 思いがけず不正解の判定を下されたわたしは、こうなると是が非でも割引なしの全額など払ってやるものかという気になってきて、「あ、ちょっと買い忘れた物が……」とわざとらしく言い残してカゴを引き上げつついったんレジを離脱すると、いま入ってきた客がレジ前でどのような動きをするのかを、棚の陰からひとまず観察する作戦に切り替えた。


 すると明らかに小さすぎるキャップをかぶった男はカゴも手に取らず、棚からこんにゃくひとつを手に取ると、そのままレジへと向かっていった。そしてこんにゃくをレジカウンターの上へ投げるように置くと、「風の日セールです」と言いながら店主が差し出してきたスマホにひるむこともなく、そちらへ向けて脇を肋骨に擦りつけるようにして、ナイロン製のジャンパーをシャカシャカと鳴らしてみせた。


「ピンポーン!」


 スマホから明らかに合格音らしき音が鳴り、その画面を確認した店主が、「あ、〈ウインドブレーカー〉の判定が出てますね。ではこちら半額になりまーす」と、セール条件が適用されることを告げた。


 だがそんなことがあるだろうか。ウインドブレーカーの擦れる音が、AIに風を感じさせるなどということが。AIはわりに直接的なところがあるから、単に「ウインド」という単語に引っ張られてつい合格判定を出したということなのか。


 ならばいま自分が身につけているものの中に、「風」や「ウインド」と名のつくものがどこかに含まれていやしないだろうか――わたしが自らの身体をまさぐるようにして服装をたしかめていると、入れ替わりで次の客が入ってきた。それはスウェット上下でいかにも近所に住んでいるといった感じの若い男性客で、いつもここで買う物は決まっているのか、特に迷う様子もなく缶コーヒーとおにぎりを持ってレジへと向かっていった。


 スウェットの男がレジ前で「おう、やってんな」と声をかけると、店主は妙にぺこぺこと細かく頭を下げながら、上目遣いで「うぃっす」と恥ずかしそうに挨拶を返した。そのやりとりからすると、どうやら男は店主にとって単なる常連客という以上の存在であるらしい。


 それから男はカウンターの上におにぎりを立てて置き、続けてあえて硬質な音を店内に響き渡らせるように、缶コーヒーを台の上に強く叩きつけてその脇に立てた。その動作からは、明らかに相手を威圧しようという狙いが見て取れた。それに対し店主が、例によってスマホを男のほうへそっと向けて「風の日セールです……」と小声で囁くと、男はその言葉を無視して、


「おう、お前もすっかり板についてきたな」


 と明らかな上から目線で言い放った。しかしこれは必ずしも会話の流れを無視したわけではなく、むしろ明確な狙いを持って放たれた言葉であったのかもしれない。なにしろ男がその台詞を口にした直後に、なぜかその言葉に反応したスマホが「ピンポーン!」と即座に正解の音を鳴らしたのだから。


 一方で店主はそれで鳴ることがあらかじめわかっていたのか、スマホの画面をぞんざいに確認したのちに、「あ、たしかに〈先輩風〉の判定が出てますんで、商品半額になります……」と、カツアゲに遭った後輩のように引き続きぺこぺこと頭を下げながらセール条件が達成された旨を伝えた。


 すると男は機嫌がいいのか悪いのか、おそらくは先輩らしい威厳を見せつけたいだけなのだろうが、半額分の小銭をカウンターに叩きつけて商品を受け取ると、去り際に「またな!」と背後に向けて軽く手を振って、いかにも先輩らしいうしろ姿を残して店を出ていったのであった。


 なるほど比喩的な風もありなのか。わたしはそのAIの判定に思わず感心してしまっていたが、かといって自分がこの手法を取り入れることはできそうになかった。たしかにわたしは店主よりおそらく歳上ではあるが、単に人生の先輩というだけで先輩風を吹かせるのは、並大抵のことではないように思われたからだ。やはり先輩風というのは、学校や会社などの集団における上下関係があって初めて吹かせられるものであって、単に歳上の人間が偉そうな態度を取ったからといってそのように感じられるものではない。かといって男が店主にとってなんの先輩なのかはさっぱりわからなかったが、これは安易に手を出すと怪我をするパターンの風ではあるだろう。


 それにしても風を吹かせられるのは先輩ばかりで、「後輩風」や「同輩風」がないのはなぜなのか。なるほど「風上」というくらいだから、風というのはやはり上から吹いてくるもので、だとしたらやはり先輩にしか風を吹かせる権利などありはしないのか――わたしが棚の陰に身を潜めたままそうやってついつい考え込んでいるうちに、今度はサッカーのユニフォームを着用した中年男性の五人組が続々と店に入ってきた。彼らはフットサル終わりにこれから銭湯にでも寄って汗を流そうというのか、みなカバンとは別に風呂桶にタオルを入れて持ち歩いているが、それほど本気のチームではないのか、ユニフォームにはまったく統一感がなく、それぞれに実在するプロチームのロゴや選手名の入ったユニフォームを着用していた。


 やがて彼らはそれぞれ飲み物を手にして、レジ前に行列を作った。通い慣れた銭湯の自販機が割高であることを知っているのか、あるいは今日が風の日セールであることを知ったうえでここで買おうと決めていたのか。


 まずは先頭に並んでいる背番号9の青いユニフォームを着用した男が、エナジードリンクの缶をレジに置いた。そして店主が「風の日セール」であることを伝えると、彼らはこの店にそのような日があることは知っていたが今日がその日であったとは知らなかったようで、先頭の男がいったん店員に背を向けると、六人で頭を寄せあっての話しあいがはじまった。


 一分ほど話しあったのちに全員が一斉に頷くと、9番の男が手に抱えていた桶を店主に差し出し、「じゃあこれでお願いします」と自信ありげに言った。商品棚の陰からその様子を覗き見ていたわたしは、これはいったい何が起こっているのかと首をひねるほかなかった。


 ところがそんなわたしの疑問に反して、店主のスマホはその桶を視野に収めると、いとも簡単に「ピンポーン!」という例の合格音を高らかに響かせたのだった。


「《風が吹けば桶屋が儲かる》と出てますね。半額になります」


 これではまるでとんちではないか! ユニフォーム姿の男たちは次から次へと、手に持っている桶を見せては次々に合格音を鳴らしていった。


 支払いを済ませた彼らは順番にドアの手前に溜まっていったが、しばらくたっても最後のひとりだけがレジカウンターに置いたオレンジジュースを前になにやらごねている様子であった。どういうわけか彼の風呂桶だけが、何度スマホにかざしても不合格の「ブーッ!」音を鳴らしてしまうようなのである。しかしあまりにも何度も繰り返し鳴るものだから、店主がスマホ側の故障を疑っていると、いよいよ申しわけなくなったのか、背番号18の赤いユニフォームを着たその最後のひとりは、実は自分のだけが人から借りた桶であることをにわかに告白したのだった。


 そういえばたしかに店主は、風を感じさせた本人にしか割引は適用されないと言っていた。すると借り物で感じさせた風では本人の手柄とはカウントされず、割引の適用外になるということなのか。それにしてもそこまでしてオレンジジュース一本を半額にする必要があるのかとも思うが、たしかに自分ひとりだけが明確に損をするのは我慢がならないという気持ちもわかる。


 18番は自ら真実を告白したにもかかわらずなおも諦めがつかないようで、残りの五人をドア付近に待たせたまま頭を様々な方向へ掻きむしってさらに三十秒ほど粘ると、突如妙案を閃いた感じに目を見開いてからくるりと店主に背中を向け、首の後ろを左から右へ何度も指でなぞるという奇妙な動きを見せた。


 それを見た店主が小首をひねりながら、その指先の動きが示すアルファベットの並びをスマホのカメラで律儀に追いかけると、最後にはどういうわけか「ピンポーン!」の音が鳴り響いて、18番が「よっしゃー!」と勝利の雄叫びを上げたのだった。


 スマホの画面を確認した店主は、まったく知らない言語を読み上げるように、「カ……カゼミーロ……?」とつぶやいた。


「そうそう、マンチェスター・ユナイテッドの18番。ブラジル代表のカゼミーロのユニだから、これ。つまり風が見えたってことでしょ!」


 まさか駄洒落までAIが理解して認めたということなのか。ここまで来ると、もう何が正解で何が不正解だかさっぱりわからない。これだからAIってやつは……とわたしが諦めかけて六人組の背中を見送っていると、今度はまだ幼稚園児くらいの、三つ編みの少女が店内に駆け込んできた。そして少女はレジ前にあった四個入りのガムを手に取ると、手に持っていたうちわで店主を仰ぐことにより、最速で「ピンポーン!」の音を鳴らしてみせたのであった。うちわにはなにやら推しのアイドルらしきピンク髪のイケメンが、様々なポーズを取っている写真が何枚も貼りつけられてあり、それが借り物でなく彼女自身の物であることは誰の目にも明らかであるように見えた。

 

 それにしてもやはり子供の素直な発想こそがときにブレイクスルーをもたらすものだ。わたしは濁った経験の積み重ねから、いろいろと考えすぎる癖がついてしまっていたのかもしれない。


 それからわたしは、ひとつの商品を求めて店内を探しまわった。数分後にようやくそれを見つけてカゴの中に入れると、再び満を持してレジへ。そしてカゴの中からその商品を、つまりうちわを取り出すと、店主及び彼がこちらに向けているスマホの背面を、ドヤ顔でゆっくりと仰いでやったのであった。


 その風を受けたスマホは、どういうわけか意味ありげにふた呼吸ほど間を空けてから、いかにもしぶしぶといった感じで例の「ピンポーン!」という音を鳴らした。


「あの、カゴの中に入ってる商品は、正確にいえばまだお客様のものではないので、厳密に言えばお客様が風を感じさせたことにはならないんですけどね」


 店主はそう言いながらも、しかしAIが許可を出してしまったのならば仕方ないとばかりに、なんとなく納得いかない顔をキープしたまま、しぶしぶ半額の会計をしてくれたのであった。


 会計を終えてからレジ横のサッカー台で、エコバッグに半額で購入した商品を詰めていると、先ほどの少女がつかつかとやってきて、


「ええ大人がマネしたらあかんねんで!」


 と、関西弁でひとことだけ言って店の外へ走り去っていった。そうしてわたしは、吹いてもいない向かい風を真正面から感じながら帰路についた。

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