第3話建前と本音
放課後の掃除の時間。未だ落ちることの無い太陽の日差しが爛々と照り付ける教室は饐えた臭いで満ちていた。
貴重な10代の、本来なら何物にも代えがたいはずの自由時間を、俺たちは安い会費のように教室へ納めている。
西日に照らされた廊下には、使い古されたワックスの匂いと、どこか投げやりな誰かの笑い声が反響していた。
「ジンベイちゃん今日も……いいよね? 掃除」
「うん、全然大丈夫だよ! みんな部活とかあるし、ゆっくりしてきて」
クラスの中心の派手な女子達。色とりどりのスクールバッグを肩にかけ、放課後の街へと繰り出していく彼女たちの背中は、この薄暗い教室には不釣り合いなほどに自由で、残酷だ。
「いい子」という役割を押し付けられた仁平は、その背中をどんな瞳で見送っていたのだろうか。
向けられた悪意のない「お願い」という名の刃(やいば)に、彼女は今日も、静かに血を流しながら笑っている。
よくある話だ。「彼氏と帰りたいから」「友達と遊びたいから」。そんな利己的な理由で押し付けられた掃除を、彼女は快く受け入れていた――ように見えた。
*
数時間前、『隅っこ』で交わされたあの「美しい」やり取りを思い出すだけで、吐き気がした。『みんな』の中には、当然のように俺も含まれていた。陽キャグループの連中に「あずさ、悪いけどプリント回収してきてよ」と押し付けられ、俺は放課後の教室へと戻ってきた。
誰もいないはずの廊下に、異様な気配が漂っていた。
「アイッツら……! なにがジンベイじゃ、っこら。魚介臭いんじゃこらっ……!」
扉の隙間から漏れ聞こえてくるのは、鈴を転がすような彼女の声とは程遠い、低く、どろりとした呪念のような独り言。時折、室内で何かがぶなかる鈍い音が響く。
俺が引き戸を引くと、そこには箒を杖のように突き、髪を振り乱した仁平が立ち尽くしていた。
「二度とっ、私の視界に映るんじゃなっ――……あ」
俺の姿を認め、彼女の呪念がピタリと止まる。乱れた髪の隙間から覗くその瞳には、隠しきれない殺意と、それ以上に深い絶望が沈んでいた。
(……なんだ、あんたか)
そんな目線でこちらを一瞥する彼女を横目に、俺は目的の物を取りに向かう。
「……なによ」
「……いや。随分と、殊勝なことだなと思ってな。一人でクラスのために掃除なんて。感服するよ」
俺は、自分でも驚くほど嫌味な声を出しながら、教卓に置かれたプリントの束を掴んだ。そのまま出口に向かって歩き出す。だが、通り過ぎる瞬間。
「……待って」
振り返ると、仁平は箒の柄を白くなるほど強く握りしめ、足元を睨みつけていた。
「……それ、あいつらに届けるの?」
「……は? だから頼まれたって」
「あんただって、体よく使われてんじゃん」
ギリッ、と奥歯を噛む音が聞こえそうなほど、低く冷たい声。
「自分の意思もないくせに、ヘラヘラご機嫌取って。……あんたこそおんぶに抱っこにコバンザメじゃん」
「っ……! お前こそ、いい子ぶって全部押し付けられてるじゃねーか!」
気づけば、俺は怒鳴っていた。
腹から声を出すことに慣れていない声帯が、わなわなと震えている。
矢継ぎ早に出る言葉の中に、自分を肯定するための言葉が並んでいるのを確認すると。熱を持っていた声帯が、自然と冷えて閉じていくのを感じた。
「隅っこでグチグチ文句言ってる暇があったら、本人に言えばいいだろ! 結局、お前も嫌われるのが怖くて逃げてるだけじゃねえか!!」
仁平の肩が、ビクッと大きく跳ねた。顔を上げた彼女の瞳には反照する光もなく、次いで出てくるはずだった言葉たちは、皆同様に床に吸い込まれた。
「…もう、いいよ。」
彼女の手元の箒が軽い音を立て倒れると、こちらを一瞥することもなく静かに教室を飛び出していった。
俺は、しばらくその場から動けなかった。手に握られたプリントの束が、滲んだ手汗を吸ったせいか、酷く重たく感じられたからだ。
結局、俺はまた「最適解(関わらないこと)」を選んだつもりで、一番最悪な「大間違い」を選んでしまったのだ。
翌日から、彼女がいつもの定位置に姿を見せることはなかった。
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