海 翡翠 踊る

@ironlotus

世界に突然穴が開いたのは、もう10年も前だ。


当時のことはよく憶えている。


その日は普段通りに朝起きて、顔を洗う前にリビングに行ったら、僕の住む小さな田舎町が、全国のテレビニュースの生中継に映っていた。

普段はあまり喋らない父親と母親が興奮気味に話し合っていて、なんだか大変な事が起こってるんだな、と子供心に思った部分も、よく記憶に残っている。


ニュースに映るヘリコプターから撮った中継映像では、僕の街の風景とは違う点が一つあった。

街から近く、海面上に大きなブラックホールみたいな「穴」があった。

揺れる映像に目を凝らしていると、すぐに画面が切り替わって、街の風景よりも見慣れた、うちの国の総理大臣が喋りだした。


総理大臣はなんだか深刻な顔で、むつかしい事を言ったような、ぐらいのことしか憶えていない。

なにせ、まだ小学生の時のことだ。


けれども、生まれてこの方、脚光を浴びたことなんてなかったうちの街が、突然、ニュースでよく見る「超有名人」と結びついて、なんだかその違和感を必死に飲み込もうとしたのを憶えている。


穴は、半円に近く、円の下半分は海面近くを飲み込んでいるように見えた。

見えた、というと曖昧な表現だが、実際現在に至るまでその辺りははっきりしていない。

穴からは黒い霧のようなものが常に吹き出していて、濃度によって穴の輪郭をぼやかして、一体どこからどこまでが霧なのか、穴なのか、それは同じものなのか、穴が霧の発生元なのか、すべての境界線も因果も曖昧なままだ。


穴からは霧に限らず、様々なものが漏出した。

その多くは霧のように気体ではなく、確かな実体を持つ固体である事が多かったが、この世界に存在するどれとも違う文化によって築かれた構造物で、ほとんどは生き物にとって、人体にとって有害なものだった。

政府はこれを、未知の異次元構造体として、接触を禁じた。

すぐに厳戒態勢が敷かれて、見慣れた故郷の風景は、鉄と網で、見る影もなくなった。


それから穴には、何度となく調査船が出航したが、その一つも「船」として戻ってくることはなかった。

その後、有人探査は早々に打ち切られて、今ではたまに「船」と名付けた鉄くずを、先も見えない向こう側に飲み込ませるだけになっている。



それが、この街と穴のあらまし。

顔を上げて、穴を見上げる。この街では水平線よりもはるか手前、朝焼けの太陽よりも大きな存在として穴の暗闇が存在する。

この距離まで近づくと、穴から発する黒い霧で、昼日中であっても薄暗く、照明が必要になる。


電灯を翳しながら、足元に堆く積もる、異次元構造体を蹴り上げる。

霧に濡れた泥も、同時に撒き上がる。

ここはかつて、海岸だった。

腰を落として、異次元構造体の下、泥をすくい上げてみる。

霧の浸潤によって濃淡のグラデーションを描く泥の中、反射するなにかがある。

泥を払い、つまみ上げると、それは緑色に光を透かす翡翠だった。



「なにか見つかったのか」

横合いから声がかかる。黙って翡翠を突き出してやると、相手は興味もなさそうにそっぽを向いた。

この海岸では、かつて潮干狩りのように翡翠狩りが行われた。

今では誰も、こんな石に見向きもしない。僕は石を軽く擦ってポケットに投げ込む。


僕たちのように、「海岸」で非認可の異次元構造体拾得かってにゴミ拾いをする人間の先は長くない。

穴から漏れる霧自体もそうだが、この日光すら届きづらい環境。肉体、精神を侵食する異次元構造体に常に触れる事。


鋭利だとか、可燃性、爆発性、一見してわかりやすい危険なら、まだいい。

だが、未知の文明の構造体を理解することは難しい。

石器時代にライターを持ち込まれたようなものだ。

使い方すらわからないものに触れることは、常に危険がつきまとう。


霧烟る薄闇の中、もがき倒れ、命を散らす人々の影は、『黄昏に踊る者』と呼ばれた。


無論、多分に侮蔑の意味を込めて。




官公は、早々に穴の管理を諦めた。

海の真ん中に監視の鉄塔と、金網を設けてはみたが、霧と構造体の漏出は無限に近く続いたのだ。

どれだけ囲おうと、それは溢れるように穴からこぼれ続けた。


未知の文明の構造体に使われた技術に有用性があるとわかってからも、管理と制限はうまくいかなかった。

その頃には、資本の手が伸びて、官憲の網をすり抜けていたのだ。

寂れた田舎町は、一躍、未知の技術資源が眠る油田になった。


だが、そこに従事する僕たちのような『黄昏に踊る者』の扱いは先ほども述べた通り。

従事者はすぐに、学も技術もない命知らずおおばかものと同義になった。



霧による汚染を落とすためのシャワーを、申し訳程度の防護服ごと浴びながら、僕は考える。

どうしてこんなどうしようもない仕事を続けているのか。

一度は離れたこの街に、戻ってきてまでする価値のある生業なのか。


考えはするが答えは出ない。

生家も、既にない。開発の続く街に飲み込まれるように、あっという間に消えてしまった。

幼い頃とは、何もかも姿を変えた僕の世界に、残っているものなどない。


ふと思い出し、ポケットを探る。先ほど拾った翡翠が出てくる。

シャワーに翳すと、みるみる砂が落ちて、翡翠はなめらかな輝きを取り戻した。

最早あの海岸において、なによりも価値もない、ただの石だ。


それでも、僕はこの石が好きだった。

初めてこの石を、あの海岸で拾った時よりもずっと。

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