遺言執行人

@Eugenie

第1話

それは、もはや以前の自分として生きられないという思いから始まった旅だった。


雨は降らなかったが、空気は水に濡れた綿のように重い日だった。都市の郊外、再開発区域の境界線に危うく立つクラシックな外観の古い建物は、粗い工事の音を嘲笑うかのように静かだった。 赤いレンガの間を這い上がったツタは、すでに茎が太くなり、建物の骨組みをつかんで揺らしているように見えた。 古びているが、みすぼらしくはなかった。 むしろ、時間が重なり合って作り上げた気品が建物全体を保護膜のように包んでいた。


鉄製の門を押すと、心地よい抵抗感が手のひらに伝わった。 祖父が生前に大切にしていたというチーク材の階段は、ほこりが薄く降り積もっているにもかかわらず、依然としてほのかな光沢を保っていた。


中用ビラ、私が今日から滞在しなければならない、そして最終的には自分の手で壊さなければならない空間だ。


鍵を回す音が廊下の静寂を破った。 扉が開くと、長い間閉じ込められていた涼しい空気が一気に流れ込んできた。 祖父が使っていた書斎と寝室は、主人が去った直後の整然さをそのまま保っていた。 チェス盤の上に置かれた駒、半分読んで倒した本、そして窓枠に置かれた乾いた鉢植え。 私は荷物を下ろして部屋の真ん中に立った。 ここに、祖父の空いた席を埋める形で、この建物の管理者として入居した。


"引っ越しはもう終わりましたか?"


静寂が漂う廊下の奥から、低めの声が聞こえてきた。 体を回すと、階段の暗闇の中に立ち止まった男が見えた。 201号室のヌークだった。 彼は階段の手すりを軽く握りしめ、高い場所から低い場所を見下ろす捕食者のような姿勢で私を見下ろしていた。


"あ、はい。大体終わりました。 今日から102号に入居して住むことになりました。」


私は荷物の箱の上に付いた埃を払いながら、少し頭を下げた。 彼は答えずにゆっくりと階段を一段下りた。 上から下へと降り注ぐ廊下の間接照明が、彼の額と鼻筋に長く鋭い陰影を作り出した。 ヌークは私をじっくりと、非常に執拗に見つめた。 それは単に新しく来た隣人への好奇心ではなかった。 キャンバスに初めて筆を入れる前は、被写体の骨格や欠点を掘り下げる画家の視線であり、同時に相手の価値や弱点を見抜く熟練した商人の眼差しでもあった。


"この部屋がずっと空いていて心配でした。 人が住んでいない空間は骨組みから腐り始めるもので、管理が行き届かないと建物がすぐに傷んでしまうからです。"


彼は階段の手すりを指でトントンと叩いた。 その規則的な音が廊下の静寂にビートのように入り込んだ。 彼の言葉はこのヴィラへの愛情のように聞こえたが、実際には自分の領域に侵入した異物が傷んでいない清潔な部品であるかを確認する手続きに近かった。


"それでも··· 思ったよりもずっと若い方が入ってきたようで、雰囲気が新鮮ですね。"


彼の口元には薄い微笑みが浮かんでいたが、目は依然として笑わず、私の足元に置かれた荷物を撫でていた。


"騒ぎを起こして迷惑をかけたなら申し訳ありません。"


私の答えにヌークはとても短く、鼻をつんざくような軽い木製の音を残して体を回し、上の階へと足を進めた。 彼はまだ私について知らない。


階段を上る彼の靴のかかと音が遠くなるまで、私は彼の視線が留まった場所が妙に気になった。 201号室のドアが閉まる重い音が聞こえた後、ヴィラの空気は再び元の重く湿った静寂に戻った。


私はドアを閉めて再び部屋に入った。 その時、101号室のドアがほんのわずかに開く音が聞こえた。 エイミーだった。 彼女はドアの隙間から猫を抱きしめながら私をしばらく見守っていたが、私が視線をそらす前にドアを閉めてしまった。 ドンという音もなく、空気さえも切らない密かな閉じ方だった。


バッグの中から古い封筒を取り出した。 それは祖父が残した最後の指示書だ。


[このヴィラの柱を支えている5つの礎石を抜き出せ。 彼らが自ら門を開いて外へ出るとき、あなたは初めてこの家系が築き上げた偽の城壁から解放されるだろう。]


窓の外に暗闇が降り始めた。 廊下の端にあるカンポの部屋では、古いラジオから流れるクラシックのメロディが聞こえ、2階のどこかではヌークがサンドバッグを叩くような鈍い音が規則的に響いていた。 プレフが滞在する301号室のドアの隙間からは、青白いモニターの光が漏れ出ているだろう。


彼らはこのヴィラの快適さに中毒している。 祖父が設計した巨大な自我の牢獄の中で、彼らは永遠の平和を夢見ているだろう。 私は手紙を静かに引き出しの奥深くにしまった。


私はカーディガンを羽織って再び外に出た。 102号室のドアを閉める音が、以前よりはるかに重くヴィラに響き渡った。


部屋の家具はすべてしっかりと固定されているように見えた。 祖父が何十年も手を触れてきたチークの机の上に手を置くと、冷たい木の質感が手のひらに伝わってきた。 この部屋は祖父の体の延長のように感じられた。 荷物と言えるほどの服を数着、ビルトインクローゼットに掛けてみると、まるでこの完璧な対称の部屋を乱す不審者のように感じた。


喉の渇きを癒すために、共用キッチンのある2階へ向かった。 廊下は依然として静かだったが、階を変えるたびに空気の温度が微妙に変わった。


キッチンに入ると、今度は全く違う匂いが私を迎えた。 古い紙の匂いとほろ苦いお茶の香り。


窓際のテーブルにカンポが座っていた。 彼は古びたハードカバーを読みながら、湯気の立つ茶碗を持っていた。 私が入ってくる気配にも、彼は顔を向けて確認しなかった。 すでに入ってきた人が誰なのか、どんな歩幅で歩いているのかが記録されたデータで知っているかのような態度だった。


「いいタイミングですね。」 茶がちょうど良く冷めました。"


彼は低く乾いた声で尋ねた。 初めて会った私に拒否感なく席を勧める姿からは、優しさよりも熟練した距離感が感じられた。


「大丈夫です。 ただ水を飲もうと思っています。"


冷蔵庫から水を取り出す私の背後で、カンポが茶碗を置く音が聞こえた。


「この家の配管には少し変わったところがあります。 古いパイプが悲鳴を上げながら水を汲み上げますが、実際にグラスに入った水はあまりにも静かです。 まるで何もなかったかのように。"


カンポはページをめくることなく、指でページの角をゆっくりとなぞった。


"ここでは声を低くするのが良いです。 あなたもこの家の家具のように、風景の一部になってみてください。 風景となった人だけが初めて見ることができるものがあるからです。」


カンポ。彼は思った以上に多くのことを知っている人物だ。 長い間、祖父が消せなかった過去の断片を集め、自らもその断片の一部となってしまった生きた記録物だった。


私は水を一口飲んだ。 喉を通って流れる水は冷たかったが、カンポの視線は粘り強く私の背後を追いかけてきた。


部屋に戻る前に3階の階段を見上げた。 最も高い場所、301号室のドアの下から鋭い青い光が漏れ出ていた。 プレフの部屋だった。 ヌークの熱も、カンポの茶の音も届かないその場所では、機械的なファンの回る音だけが静寂を満たしていた。


プレフは外にあまり出てこない。 しかし、私は感じることができた。 3階の廊下の端に設置された小さなCCTVレンズが私の動きをリアルタイムで追っていることを。 彼はすでに私が誰なのか、私のバッグの中に何が入っているのかを分析しているかもしれない。


廊下に出ると、下の階から上がってくるアークと出会った。 彼女は外出を終えて戻ってきたかのように、エレガントなトレンチコート姿だった。 廊下のかすかな照明の下でも、彼女が放つ清らかなオーラは変わらなかった。 しかし、彼女の目には隠しきれない疲労と敏感さが宿っていた。


彼女は私を見つけて、しばらく立ち止まった。 私たちはお互いの正体を知っていた。 幼い叔母と甥。しかし、このヴィラの壁の中では、わざわざ見せたくなかった。 私たちはまるで約束でもしたかのように、その事実を沈黙の深淵の下に埋めていた。


彼女は軽く会釈をして、上の階に向かった。 階段を上る彼女の靴の音は規則的で品位があった。 しかし、その後ろ姿から私は何かに追われる人特有の硬直感を読み取った。 自分を常に合理化し、自分の体面を保ってくれるロープを失うのではないかと不安に駆られる彼女の不安感が、階段の踊り場に表れているようだった。


ドアを閉めてベッドに横たわった。 天井には古びたシャンデリアがかすかに光っていた


アークの優雅な虚飾、ヌークの制御できない熱意、カンポの執拗な貯蔵強迫、プレフの見えない監視、そしてエイミーの危うい沈黙。


祖父は、ここに長く縛られていた人々が自ら解放されることを望んでいた。 しかし、このヴィラの壁は思ったよりも厚く、彼らが握っている終身契約という盾は堅固だった。 彼らは単にこの家に住んでいるのではなく、この家の一部として根付いているようだった。


無償で与えられる快適さは時に過酷な慣性となり、人間を定められた軌道から外れさせてしまう。 おじいさんはなぜこれほど異なる物語を持つ人々を自分のそばに、そして今、私にその平和を壊そうとしているのだろうか。 このヴィラは彼らにとって安息の場なのか、それとも祖父が設計した巨大な監獄なのか。


夜が更けると、ヴィラ全体が一つの巨大な生命体のように息をし始めた。 ギシギシと音を立てる床の音、壁の向こうからのひそかな息遣い。 私は闇の中で目を覚ました。


これからが始まりだ。


あの堅固な平和の下にどんなトラウマや執着が隠れているのか、私は天井に映るシャンデリアの影を見ながら、これからの計画を考えてみた。

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