5章 現本家 “月と影”
雪乃は、湯呑みに視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
「私は、今この家に起きていることの詳細までは知りません」
その言い方は、言い逃れのようにも聞こえた。
けれど同時に、本当に知らない者の声にも聞こえた。
「月江は若い頃、忌み地について調べていました。
円香さんのお父様、正明さんと同じように」
「何度も通っていたようです。
何を見て、何を知ったのか。
私には、すべては話しませんでした」
雪乃は、そこで一度言葉を切った。
「あの日、月江に聞かれました」
「桜子をこの家に取られて、姉さんは何も思わなかったのか、と」
桜子。
その名前が出た瞬間、座敷の空気がわずかに重くなった。
「私は、答えました」
雪乃は、顔を上げなかった。
「対価。この家の決まりだもの。仕方ないわ、と」
陽奈が、わずかに息を飲む。
雪乃は、それに気づいたようだった。
けれど、弁解はしなかった。
「清水家では、末の子は取られるものとして扱われてきました。
昔からずっと、そういうものだった」
「末子には、花に関する名がつけられることが多かった。
桜子も、そうです」
透は、車の中で陽奈が持っていた家系図を思い出した。
「私は、それを当然のものとして見ていました。
良くも悪くも、私は清水の人間です」
その声には、誇りもなければ、悔恨もなかった。
ただ、長く身についた事実だけがあった。
「でも、月江は違いました」
雪乃の指が、湯呑みの縁に触れる。
「月江は、桜子を大層可愛がっていました。
桜子は少し風変わりな子で、ものの見方も、言うことも、不思議なところがありました。
だから月江が執着した気持ちも、分からないではありません」
「けれど」
雪乃は、静かに続けた。
「私は、仕方のないことだと言った」
座敷の中に、重い沈黙が落ちた。
「月江は、怒りました」
雪乃は、ようやく顔を上げた。
「姉さんも、人間じゃない、と」
誰も、何も言えなかった。
「月江は泣いていました。
大きな目から、ぼろぼろと涙をこぼして。
それでも、私を睨んでいました」
雪乃は、少しだけ目を細めた。
「そして言いました」
一拍。
「気持ちは決まった、と」
怜が、かすかに眉を寄せる。
「何を……決めたんですか」
雪乃は、低く答えた。
「本尊を、忌み地の神に帰す、と」
その言葉の意味を、すぐに理解できた者はいなかった。
「本尊……?」
透が聞き返す。
「冥婚の儀に使われた、花嫁の遺体です」
雪乃は淡々と言った。
「旧本家の奥に隠されていたもの。
清水家では、本尊と呼ばれていました」
陽奈の顔色が変わる。
「……それを、月江さんが?」
「分かりません」
雪乃は首を横に振った。
「あとのことは、私には分かりません。
私は現本家で過ごした時間が長く、本尊が本当に残されていることさえ、当時は知りませんでした。
迷信だと思っていたのです。
誰でも、そう思うでしょう」
その言葉は、どこか自分に言い聞かせているようだった。
「けれど、それからしばらくして、月江から電話が来るようになりました」
「電話?」
怜が訊いた。
「ええ」
雪乃は頷く。
「定期的に。
ただし会話ではありませんでした。
報告、あるいは通告に近いものでした」
「どんな内容だったんですか」
怜が尋ねる。
雪乃は、少しだけ目を伏せた。
「何年もかけて、少しずつ」
そして、指で数えるように言った。
「儀式は行った」
「何かあれば、忌み地の“裏”を覚えておいて」
「旧本家の離れにて、呪い(まじない)を行う。
これは守るため。
手を出すな」
最後の言葉だけ、雪乃の声がかすかに揺れた。
「私は、そのたびに尋ねました。
何をしたの。
何を守るつもりなの。
誰から、何を守るの、と」
雪乃は、湯呑みから手を離した。
「でも月江は、答えませんでした」
座敷の隅で、古い柱時計が小さく鳴った。
「いつも、言いたいことだけを言って、電話を切るのです」
座敷には、嫌な余韻が残った。
誰もが、それぞれに言葉の意味を追っていた。
その中で、藤原が顔を上げる。
「忌み地の“裏”って、何ですか」
「滝です」
雪乃は言った。
「表に見えるものと、裏に隠されたものがあります」
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