第15話 大地の牙と、潰えた覇気
【穂高拓真の視点】
土を舐めていた。比喩ではない。俺は今、文字通り泥濘の中に顔を突っ込み、肺に流れ込む泥水と激痛に耐えながら、死の淵を覗き込んでいた。
――事の起こりは、水路の掘削作業中だった。カイルの管理の下、男たちは順調に作業を進めていた。俺もスコップを手に、水路の底で勾配の最終チェックを行っていた時のことだ。
「……ん?」
俺の長靴が、ズルリと嫌な音を立てて不自然に深く沈み込んだ。ふと足元を見ると、先ほどまで澄んで流れていた水が、急激に赤茶色く濁り始めている。周囲の粘土層の壁面にはミシミシと細かい亀裂が走り、プクプクと不気味な気泡が泥の中から噴き出していた。
俺の農学を学んだ者としての警報(アラート)がガンガンと鳴り響いた。枯れ果てていた酸性の粘土層に、突如として大量の地下水が流れ込んだことで、地盤の内部で急激な『液状化現象』が起きているのだ。
『――頭上注意! 崩れるぞ!!』
俺が叫んだ直後、崖の斜面が、まるで重力を失ったかのようにズルリと滑り落ちた。
「うわぁっ!?」
すぐ横で土砂を運んでいたガッシュが、液状化した泥に足を取られて転倒する。何十トンという泥と岩の塊(土石流)が、彼の頭上へ迫っていた。
「退け!!」
俺は反射的に手を伸ばし、ガッシュの肩を思い切り横へと突き飛ばした。だが、武術の試合のように綺麗に相手を投げる余裕などあるはずがない。力任せに突き飛ばした反動で、ただでさえ足場の悪い泥の中で、俺自身の体勢が完全に崩れた。立て直そうと踏み込んだ足が、底なし沼のように沈み込む。逃げ遅れた。そう悟った瞬間、凄まじい質量の塊が俺の頭上から雪崩れ込んできた。
視界が暗転し、トラックにはねられたような衝撃が全身を打つ。俺は谷底の深い窪みへと叩き落とされ、その上に巨大な岩盤と、強酸性の泥水がのしかかってきた。
「が、はっ……!」
下半身の感覚がない。巨大な岩の下敷きになっている。辛うじて右手と顔の半分だけが泥から出ているが、強酸性の泥水が皮膚を容赦なく焼き、傷口から火のような激痛が走る。肺が圧迫され、呼吸ができない。武術の達人だろうが何だろうが、数トンの岩と土砂の重みを素手で退けることなど不可能だ。
(……くそっ。俺は、自然を舐めていた……!)
現代の重機も安全基準もないこの世界で、生身で土に挑むことの恐ろしさ。意識が急速に遠のいていく。俺は最後の力を振り絞り、右手で握りしめていた黒い板(スマホ)を、崩落の穴の上――まだ安全な地表に向かって、放り投げた。
「カイル……! 四ノ宮に……訊け……!!」
声になったかどうかも分からない。ただ、その言葉を最後に、俺の世界は泥の冷たさと暗闇に完全に沈み込んだ。
【カイルの視点】
轟音の直後、水路は凄惨な地獄と化していた。斜面が崩落し、先ほどまでタクマが立っていた場所は、赤黒い泥水が渦巻く巨大な陥没穴(シンクホール)に変わっていた。
「現場監督が……俺を庇って、埋まっちまった……!」
泥だらけのガッシュが、絶望に満ちた声で叫んだ。他の男たちもパニックに陥り、意味もなくウロウロと逃げ惑っている。
私は、陥没穴の縁に転がってきた四角い『黒い板』を拾い上げた。タクマが最後に放り投げた魔導具。表面には赤い光が点滅している。
「……静まれ、貴様ら!!」
私の腹の底からの怒声が、荒野の風を切り裂いた。五十人の男たちがビクッと動きを止める。私は、陥没穴を見下ろした。泥水は急速に水位を増しており、タクマが埋まっているであろう場所を完全に飲み込もうとしている。あと数分で、あの男は泥の中で窒息死する。
「お前たちが生き残るための『矛』が、今あの泥の中で死にかけている! ここで彼を失えば、我々に明日はないぞ!」
私は男たちを睨みつけた。だが、どうすればいい?ただ穴を掘り返そうにも、泥は液状化しており、足を踏み入れれば我々も呑み込まれる。岩を退かす滑車もない。タクマの『圧倒的な力』に頼り切っていた私は、自分の無力さに歯噛みした。
その時だ。私の手にあった黒い板から、タクマとは違う、若く、ひどく切羽詰まった男の悲痛な声が響いた。言葉は分からない。だが、板から響く無機質な我々の言葉が、その必死さを即座に伝えてきた。
『――俺の声が聞こえるか! 現地の人間! 拓真はどうした! 計測データが異常だ、何が起きた!』
私はハッとして黒い板を見た。こいつは……タクマの背後にいるという、『未知の組織』の人間か。
「……タクマは土砂崩れに巻き込まれた。巨大な岩の下敷きになり、酸の泥水に沈んでいる。我々の力では岩を退かせない。あと数分で死ぬぞ!」
私が怒鳴りつけるように答えると、黒い板の向こうで、何かが激しく叩かれる音が響いた。そして、数秒の沈黙の後、かつてないほど冷徹で、論理的な声が返ってきた。
『――直接掘るな。泥が崩れてお前たちも死ぬぞ。今から俺が、重機なしで数トンの岩を持ち上げ、排水する手順(ロジック)を教える。一歩でも間違えれば拓真は死ぬ。お前、五十人を完璧に動かせるか?』
私は、その言葉にニヤリと笑った。絶望の泥沼に、蜘蛛の糸が垂らされたのだ。それを掴んで引き上げるのは、商人の意地だ。
「誰に向かって口を利いている。私はカイル。この大事業の最高執行責任者だ」
私は黒い板を握り締め、五十人の男たちに向かって、修羅の顔で命じた。
「野郎ども、死に物狂いで動け! これより、現場監督の救出作業を開始する!!」
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