第22章 皮肉な警告
一週間が過ぎた。
リュシアンの練習は毎日同じだった。「もう一回」。それだけ。具体的な歌詞の指導はまだ始まっていなかった。ノアの声が「自分の声」になる瞬間を——待っているように見えた。
毎朝、旧音楽室に向かう足取りが少しだけ軽くなっていた。昨日の自分より、声が出る。それだけが確かだった。
六度目の「追いかけ」以来、セレーネの音がノアの声を追う時間は少しずつ伸びていた。十五秒が、二十秒になり、三十秒になった。でもまだ——一曲を通して維持することはできなかった。途中でセレーネの音が「いつもの位置」に戻る。重心が自分の中に閉じてしまう。
「今日は早めに上がろう」
リュシアンが言った。珍しかった。
「何かあったのか」
レックスが聞いた。
「いや。ただ——疲れてるでしょう、全員」
否定できなかった。外からの視線が、日に日に増していた。廊下で。食堂で。講義中でさえ。LYRIC BREAKERという名前が——学院の中で、重くなり始めていた。
ノアは最近、食堂で端の席を選ぶようになっていた。壁を背にして座る。視線が来る方向を減らすために。
---
旧音楽室を出たのは、日が落ちる前だった。
学院の外壁沿いを歩いていたとき——誰かがいた。
壁に背をつけて立っていた。細い体。薄い存在感。灰色の上着は学院の制服ではない。紋章も徽章もない。兵士でもない。年齢はノアたちより少し上——二十代前半。
影のように立っていた。気配を消すことに慣れている人間の佇まい。
ノアは足を止めた。
レックスが一歩前に出た。
「……誰だ」
「落ち着けよ。敵じゃない」
声が返ってきた。低い。抑揚が少ない。でも——敵意はなかった。
男が壁を離れた。
「LYRIC BREAKERだな」
「そうだが」
「ヴェイル・ハースト。血統魔法王国ハースト侯爵家——三男」
沈黙が落ちた。
「王国の人間か」
レックスの声が硬くなった。
「まあ、そうだけど——味方でもないし、使節でもない」
「じゃあ何だ」
「情報を売りに来た」
ヴェイルがノアを見た。灰色の目。感情を読ませない目。
「王国がお前を狙ってる。知ってるか」
ノアは黙っていた。
「連盟が確保命令を出してるのは知ってるだろう。あのマレンとかいう研究将校が動いてる。——でも、もう一つある」
「王国が、か」
セイが言った。
「血統魔法王国は、体系外の能力に興味がある。お前の歌詞具現化——血統に依らない力だ。連中は『血統に組み込めるかもしれない』って考えてる」
「組み込む?」
「養子縁組。貴族の家に迎え入れて——お前の能力を王国の資産にする。表向きは礼儀正しい勧誘だ。『あなたに相応しい場所がある』ってやつ」
ノアの喉の奥が詰まった。
ヴェイルの口元が——わずかに歪んだ。自嘲とも嘲笑ともつかない形。
「選択肢があるように見えて、実はない。断ったら——別の手段に切り替える。善意の顔をした手を振り払うと、次は善意ではなくなる」
「なぜそれを俺たちに言う」
レックスが聞いた。
ヴェイルはしばらく黙った。灰色の目が、一瞬だけ遠くを見た。
「勘違いするなよ。俺はお前たちの味方じゃない。利害が一致してるだけだ」
---
旧音楽室に戻って、六人で話をした。
ヴェイルは付いてこなかった。「これ以上は——ここじゃ言えない」とだけ言って消えた。
「信用できるのか」
レックスが聞いた。
「情報の正確さは確認できない。でも——」
セイが腕を組んだ。
「前にあっただろう。外壁沿いの影」
「……ああ」
「ノアを観察していた何か——薄い存在感。あの気配と、今のヴェイルの気配が一致する」
アリアが頷いた。「ぼくもそう思った。あのとき感じた『見られてる』感じ——今の人だよ」
「じゃあ、ずっとこっちを見てたのか」
「観察してた、が正しいかな。そして——今日、接触してきた。タイミングを選んでる」
リュシアンが椅子に座ったまま言った。
「王国の動き自体は、僕も聞いていましたよ。旅の途中で——『中立諸国に面白い能力者がいる』って噂は、王国の宮廷でも流れていた」
「知ってたのか」
「噂程度です。でも——使節が来る、という話は初耳ですね」
沈黙。
ノアは黙って座っていた。
連盟のマレン。王国の使節——まだ名前も知らない誰か。
二方向から——挟まれ始めていた。
「……どうすれば」
ノアが言った。声がかすれていた。
「どうもしない」
レックスが言った。
「来たら対処する。それだけだ」
「でも——」
「でも、じゃない。俺たちは逃げるために集まったんじゃない。お前が歌えるようにするために集まった」
レックスの目がノアを見た。まっすぐに。
「だから——歌え。それ以外のことは俺が考える」
---
夜。
ノアは寮の自室で壁に背をつけて座っていた。
天井を見ていた。
リュシアンの言葉が頭の中で回っていた。
——綺麗だけど弱いね。君の声がしない。
ヴェイルの言葉が重なった。
——王国がお前を狙ってる。
マレンの声が遠くから聞こえた。
——君の力は素晴らしい。だから正しく使われるべきだ。
全部——ノアの力に向けられていた。ノア自身にではなく。
声を、能力を、歌を——欲しがっている。管理したがっている。組み込みたがっている。誰もがノアの力を見ていた。ノアという人間ではなく。
でも誰も——ノアの声を聴こうとはしていなかった。
リュシアン以外は。レックスたち以外は。
手が冷たかった。いつもの冷たさ。恐怖とも違う。ただ——遠い。自分の手が、自分のものではないような。
窓の外。月が出ていた。
声を出した。
小さく。ハミング。旋律だけ。
旧練習棟で一人で歌っていた頃と——同じ音。でも、同じではなかった。
四つの音が、記憶の中にあった。ギター。ドラム。ベース。キーボード。追いかけてくる四つの音。それが怖くて、でも——温かかった。
ハミングの中に——四つの音の残響があった。
声は弱い。まだ弱い。
でも——一人ではなかった。
ハミングが止まった。四つの音の残響だけが、耳の奥に残っていた。
——それだけで、息が吸えた。
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