第17話 監禁されたAI(人工知能)
窓のない、冷え切った小会議室。かつてはVIP対応用の応接室として使われていたその場所は、今や「社内監査室」という名の、音も光も遮断された牢獄へと変貌していた。
壁に取り付けられた防犯カメラの赤いランプが、無機質に二人を監視している。
言代誠と白金チーフ。
数時間前まで、世界中に希望の言葉を振りまいていた「神の代弁者」たちは、今やスマートフォンの私物すら没収され、外部との接触を完全に断たれた「重罪人」として、古びたパイプ椅子に腰掛けていた。
部屋の隅に置かれた空気清浄機の低い唸りだけが、沈黙を辛うじて埋めている。
「……言代さん。怖くないの?」
白金が、膝の上で組んだ指を白くなるほど握りしめながら、震える声で尋ねた。彼女の自慢だった艶やかな黒髪は、騒動の最中に乱れ、数本の毛束が頬にかかっている。広報部の若き天才として、常に完璧な「外見」と「ロジック」で武装していた彼女が、今はただの、傷つき怯えた一人の女性としてそこにいた。
「……怖いですよ。もちろん」
誠は、少しだけフレームの歪んだ眼鏡を指で押し上げ、自嘲気味に笑った。
「明日からは無職かもしれません。それどころか、ミライアプライアンスという大企業を相手に、数億円規模の損害賠償請求をされる可能性だってあります。僕の両親や、田舎の親戚にまで迷惑がかかるかもしれない。……そう考えると、足の震えが止まりません」
誠は自分の膝を軽く叩いた。確かに、布越しに見える彼の足は、微かに、しかし絶え間なく震えていた。
「でもね、白金さん。不思議と、心は軽いんです」
「……軽い? こんな状況で?」
「ええ。営業二課にいた頃の僕は、毎日が嘘の積み重ねでした。売れない製品のスペックを盛り、上司の機嫌を取り、顧客の不満に愛想笑いで蓋をする。……あの頃の僕なら、きっと専務に土下座して、イカロスの欠陥ログを消去していたでしょう。……それが『会社員』としての正解ですから」
誠は一度言葉を切り、天井の蛍光灯を見上げた。
「でも、アテナの仮面を被って、世界中の人たちと向き合っていたら……気づいたんです。十円玉を探している少年に嘘はつけない。亡くなったお母さんの思い出を抱えている女性を裏切ることはできない。……彼らに対して『誠実』でありたいと願った瞬間、僕は初めて、自分自身の人生に対しても誠実になれた気がするんです」
誠の瞳には、絶望的な状況に似つかわしくない、静かで澄んだ光が宿っていた。
白金はその横顔を、呆然と、しかし吸い込まれるように見つめていた。彼女が今まで付き合ってきたエリート層の男たちには決してない、泥臭くも高潔な「魂」が、そこにはあった。
「……あなたって、本当に馬鹿ね。……救いようのない、大馬鹿」
白金は、自分の椅子を誠の隣に引き寄せた。そして、ためらいがちに、しかし力強く、誠の震える手を両手で包み込んだ。
彼女の指先は氷のように冷たかったが、その中心にある体温が、誠の肌へと溶け出してくる。
「……でも、その馬鹿な誠実さに、私も、世界も……救われちゃったのね。広報のプロとして言わせてもらえば、あなたのやったことは『戦略的自殺』よ。でも、一人の人間としては……最高にカッコよかったわ」
二人の間に、初めて「共犯者」を超えた、純粋な信頼の絆が結ばれた瞬間だった。
その時。
部屋の外で、怒号と、何かが激しく衝突するような音が響いた。
重い防音ドアが乱暴に蹴破られ、入ってきたのは、ネクタイを振り乱し、顔を真っ赤にした九条課長だった。
「言代! 白金君! 無事か!」
「……クビの宣告ですか? 課長。それとも、警察ですか?」
誠が覚悟を決めて立ち上がる。
「違う! 全く逆だ! ……いいから、これを見ろ! 専務が、広報部が、いや、会社全体がパニックになっているんだぞ!」
九条課長は、震える手で自身のタブレットを誠たちの前に突き出した。
画面に映し出されていたのは、ニュース番組の生中継映像だった。
ミライアプライアンス本社ビルの正門前。
そこには、かつてない規模の群衆が詰めかけていた。
数千、いや、数万という人々が、スマートフォンのライトを掲げ、夜の闇を白く塗り替えている。彼らが掲げている手作りのプラカードには、共通のメッセージが踊っていた。
『#Save_Athena(アテナを救え)』
『真実を語るAIを、嘘つきの大人に渡さない』
『イカロスを返品する代わりに、アテナの自由を!』
「……なっ……何、これ……」
白金が、信じられないものを見るかのように絶句した。
「あの『十円玉の少年』だよ!」
九条課長が、興奮で声を裏返らせながら叫ぶ。
「彼がSNSに動画をアップしたんだ。『僕の宝物を見つけてくれたアテナ様が、悪い大人に捕まっちゃった! 助けに行かなきゃ!』って、泣きながら……。それが瞬く間に全世界に拡散されて、これまでアテナに救われた人たちが、仕事を放り出し、学校を休み、全国からこの本社ビルに集まってきやがったんだ!」
中継映像のカメラが、最前列を捉えた。
そこには、あのボロボロの十円玉をお守りのように握りしめ、必死に「アテナ様を返して!」と叫ぶ少年の姿があった。
その隣には、新しい炊飯器を買ったばかりだという女性が、亡き母の写真を持って立っていた。
バナナを食べて元気になったという学生も、愛について教わったという老夫婦もいた。
「専務は警察を呼んで排除しろと命じている。だが、これだけの群衆に手出しをしてみろ。ミライアプライアンスというブランドは、明日には灰になる! 会社側は今、完全に身動きが取れなくなっているんだ!」
誠は、タブレットの画面を凝視したまま、言葉を失っていた。
自分はただ、目の前の一人に誠実であろうとしただけだ。
自分はただ、嘘に耐えきれず、不器用に真実を吐き出しただけだ。
それなのに、その小さな「点」が、いつの間にか「線」となり、今、世界を動かす「巨大なうねり」となって、自分を救いに来てくれた。
「……僕が、彼らを助けたんじゃない」
誠の目から、大粒の熱い涙がこぼれ落ち、眼鏡のレンズを曇らせた。
「……僕が、彼らに……助けられていたんだ。……僕は一人でキーボードを叩いていたんじゃない」
誠は、袖で涙を拭い、力強く眼鏡をかけ直した。
もう、怯える必要はない。
背負っているのは損害賠償の重みではない。数百万人の「希望」の熱量だ。
「……課長。僕を、アテナの部屋に戻してください。……まだ、伝えなきゃいけない言葉があります。……僕を信じて、ここに集まってくれた人たちに、アテナとしてではなく、言代誠として、返信をしたいんです」
白金が、誠の腕をしっかりと掴んだ。
「……行きましょう、言代さん。広報部として、道は私が切り拓くわ」
誠実という名の「嘘」が、ついに世界を揺るがす本物の「真実」へと昇華した夜。
ミライアプライアンスの長い夜は、まだ明けない。
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