第17話 見て
——その日、千秋は自宅の窓辺で一人、苦悩していた。
目の前の出窓から差し込む光が、物憂げに伏せた長いまつ毛の影を白い頬の上に柔らかく落とす。
部屋の空気を入れ替えるため、わずかに開けた窓の隙間からは爽やかな5月の風が静かに吹き込み、レースのカーテンと、大屋根を開けたピアノの譜面台に置いた古い楽譜のページを揺らしていた。
そんな中、千秋は先ほどから一人、そこから動けずに立ち往生している。
——千秋にはわからなかった。
トゲ太郎の丸い体の一部分に、今朝突然まるでタンコブのように出来た茶色い小さな膨らみが、一体なんであるのかが……。
……病気だろうか。
動物病院、という単語はよく耳にするけれど、植物の病気はどうすればいいのだろう。
ふと、視線を感じて振り返ると、譜面台の上からとげ丸が黒いつぶらな眼でこちらを見ていた。
『俊ちゃんに聞けば?』
そう言っているような気がした。
俊ちゃんに……
続いて視線を、ダイニングテーブルの上に伏せたスマートフォンへと移動させる。
先日俊介と連絡先を交換した。
スマートフォンの中に俊介の名前があるのはたまらなく嬉しかったが、同時につまらない連絡をして面倒がられるのも怖くて、結局あの日以来トークルームは一度も開かないままだった。
彼に、サボテンの様子がおかしいなんてくだらない連絡をするのは、はたして許されるものなのだろうか……
まるで今から犯罪でも犯すような気持ちで、テーブルの上のスマートフォンにそろりと手を伸ばす。
……と、千秋の細い指先が触れる直前に、ヴッと小さなバイブ音を短く鳴らしてスマートフォンが揺れた。
想定外の出来事にびくりと指先を跳ねさせた後、スマートフォンを手に取りモニターを上に向ける。
初期設定のままのロック画面には、黄緑色のアイコンとともに受信通知が表示されていた。
[しゅんちゃん 「見て」]
スマホの画面に表示された、今まさに頭の中を支配していたその名前に、鼻の奥がきゅんと甘く痛む。
千秋が通知をタップし、トークルームを開くと、一枚の写真が表示された。
ピンク色で袖のない羽織をきた知らないおばあさんと、ケーキの上に刺された何本もの蝋燭が、まるで山火事の如く燃え上がっている写真だ。
[ばあちゃんの誕生日]
[100歳。笑える。]
写真の後、俊介からの短いメッセージが2件続けて届いた。
へぇ、100歳か……と、目を細めた後、千秋は思わず眉を寄せる。
……え、じゃあこの蝋燭も、もしかして100本?
もっとこう……
数字で「100」と書いたやつなんかもあったんじゃないだろうか……。
そう思って真っ赤に燃え上がるホールケーキを見ていると、俊介の言うようにその光景が面白くなってきた。
千秋はしばらく一人で肩を揺らして笑ってから、短く息を吸い、カメラアプリを開いて窓辺のトゲ太郎にレンズを向けた。
***
——一方。隣県、寺島家本家にて。
仏間では、親戚一同が100歳の祖母を囲んで大騒ぎしている。
俊介は、母親から今日の予定を
『爺さんの三回忌の法要』
だと聞いていた。
せっかくの休日に制服姿で連れてこられた親戚宅では、確かにみんな喪服姿で仏間に集まり、地域の住職が読み上げるお経に神妙な顔で耳を傾けていた。
だが、そんな住職が帰り、墓へ行っていたメンバーが戻ってきてからは様子が変わった。
喪服を着た叔母さんが、墓の帰りに買ってきたというケーキをテーブルに出すと、突然法事の場が大婆さんの100歳の誕生日パーティへと仰天チェンジしたのだ。
俊介はその光景を、めちゃくちゃだな、と呆れて見ていた。
けれど、自分の息子の法要にずっと置物のように座っていただけだった大婆さんが、ふと笑っていることに気づく。
俊介はその笑顔と、火事一歩手前のケーキを自分のスマートフォンに収め、障子一枚隔てた縁側へと出た。
障子を閉めても騒がしさはまるで変わらないが、肩の力は抜ける。
全開にした掃き出し窓からは清々しい風が吹き込んで来ていた。
俊介はその風に髪や制服の裾を揺らしながら、硬い板張りの床に腰を下ろしてLINEアプリを開き、千秋の名前を見た。
俊介は、その名前の上を撫でるようにタップする。
このアカウントがスマホに入ったその日から何度も開いて見ては閉じ、『小岩井です』のたった一言に唇を緩ませていたトークルーム。
そこに、俊介は新たに短い文字を打つ。
[見て]
別に内容は何だっていい。
千秋にも、スマートフォンの中にいる『しゅんちゃん』を、[見て]もらいたかった。
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