第8話 変わってしまった距離

あの日から、何かが変わった。


チョキーナ自身は、最初そう思っていなかった。


パーダロとのことは一度きりだった。

知らない世界を知った、それだけのことだ。

そう、何度も自分に言い聞かせていた。


けれど、日々の中に小さなほころびが生まれ始めていた。


講義棟の入り口で目が合いかけた朝、図書館で同じ列に入ろうとしたとき、食堂でたまたま近くに座ろうとしたとき――そのたびに、グーダスはいなくなる。

さりげなく、自然に、まるで最初からそこにいなかったかのように。


(……どうして……)


声には出さず、ただ唇だけが動いた。


思い返すのは、あの日のことだった。

薄暗い部屋、差し出した手、緊張で汗ばんでいた指先。

そしてグーダスの手――節が目立ち、ごつごつとして、力強い、あの手。

見ているだけで、胸が高鳴った。


「……綺麗な手だな」


不意にそう言われたとき、心臓が跳ね上がった。

恥ずかしかった。

でも、確かに嬉しかった。


勝負が終わったあと、チョキーナは迷わずそう言えた。


「……あなたと、じゃんけんができて……よかったです」


嘘ではなかった。

グーダスと向かい合ったあの時間は、チョキーナにとって特別なものだった。

初めてで、緊張していて、負けてしまって。

それでも終わったあとには確かな温かさがあって、胸の奥がそっと裂けるような痛みも、その後に広がった静かな余韻も、全部グーダスとのものだった。


パーダロとのことは――違う、とチョキーナは思う。


あれは流されてしまっただけだ。

知らない世界を見せると言われて、断り切れなくて、気づいたら深みにはまっていた。

終わったあとも何度もそう言い聞かせた。

一度きり、あれは特別なことじゃない、ただ知らなかっただけだ、と。


でも――


(……グーダスさんは……)


胸の奥に、冷たいものが落ちる。

もしかして、知っているのだろうか。

その考えが浮かんだ瞬間、指先がわずかに震えた。


知っているはずがない。

あの資料室に、グーダスがいたはずはない。

それでも問いだけが静かに積み重なって、廊下の角に消えていく背中を見つめながら、チョキーナはただそこに立ち尽くしていた。



それからも、日々は続いた。


避けられているという感覚は、日を追うごとに確かさを増していった。

偶然ではない、そう確信できるほどに、はっきりと繰り返された。


ある日の放課後、チョキーナは図書館の返却棚の前で見覚えのある後ろ姿を見つけた。

背が高く、肩幅のある、見間違えようのない体格。

棚に向かってページをめくるその横顔は、こちらに気づいていないようだった。


(……今なら……)


胸が、わずかに速くなる。

声をかけてしまえばいい。

ただ名前を呼べばいい。

それだけのことのはずなのに、足が動かなかった。


そのとき、グーダスがふと顔を上げた。

視線がこちらへ向く。

目が、合いかける。


けれど次の瞬間、グーダスの視線はすっと逸れた。

棚から一冊を抜き取り、そのまま静かに別の列へと消えていく。

意図的だったのか、偶然だったのか。

その区別すら、もうチョキーナにはつかなかった。

返却する本を胸に抱いたまま、しばらくその場を動くことができなかった。


(……やっぱり……)


避けられている。

それはもう疑いようのない事実として、静かにしかし確実に形を持ち始めていた。



夜、自室に戻ってからも、その感覚は消えなかった。


布団の中で天井を見上げながら、チョキーナはあの夜のことを思い返していた。

あのじゃんけんの夜から、何が変わったのだろう。

グーダスとの距離は、あの夜を境に縮まったと思っていた。

ぎこちなくて、恥ずかしくて、緊張しながら手を向け合って、それでも終わったあとの空気はどこか柔らかかった。


「ああ、俺もだ」


静かにそう答えてくれたグーダスの声を、チョキーナはまだ覚えている。

あれは本物だったはずだ。

なのに、どこで変わってしまったのだろう。


パーダロとのことが、頭をよぎる。


一度きりだった。

グーダスには関係のないことだった。

誰にも知られていないはずだった。

それでも思考は止められず、考えたくない方向へとゆっくり滑っていく。

もし、知られていたとしたら――その可能性を、チョキーナは強く打ち消した。

知られているはずがない。

あの資料室に、グーダスがいるはずはなかった。

だからきっと別の理由がある。

自分が気づいていないだけで、何か別のことがグーダスを遠ざけているのだ。

そう思うことにした。

そう思わなければ、胸の奥に沈んでいく重さに耐えられなかった。



それから数日が経った。


このままではいけない、という気持ちは日を追うごとに大きくなっていった。

避けられ続けるたびに胸の奥の重さは増していく。

声をかけたい、理由を知りたい、もう一度あの距離に戻りたい。

その気持ちだけは、何があっても揺るがなかった。

パーダロのことがあっても、何が変わっていても、グーダスのことが大切だという気持ちだけは。


ある朝、チョキーナは決めた。

今日こそ、声をかける。

理由を聞く。

たとえその答えが怖くても、たとえ胸が壊れそうになっても、このまま遠ざかっていくのをただ見ていることだけは――できなかった。


講義が終わり、人の波が廊下へと流れ出す。

その中に、グーダスの姿を見つけた。


声が震えないように。

足が止まらないように。


「……グーダスさん」


チョキーナは、一歩を踏み出した。

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