第9章 消えた名前
朝、俺が窓の外を見ていると、中庭に人影があった。
早い時間だ。授業まであと三十分はある。数人の生徒が荷物を抱えて渡り廊下を歩いていた。俺はそのうちの一人に、何となく目を向けた。
止まった。
見えている。制服の背中が見えている。荷物が見えている。歩いていることも分かる。
でも、「誰」かが分からない。
顔は見えていない。後ろ姿だから当然だ。でも「後ろ姿だから分からない」とは違う。前を向いていても分からない気がした。その感触は、ひどくはっきりしていた。
俺は窓から離れた。
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教室に入って、俺は習慣で周囲を確認した。
前列の三番目の席。
空いていた。
空席だった——という意味じゃない。誰かが座っていた。制服があった。姿があった。
でも「誰が座っているか」が、もう出てこない。
第5章のときは「引き出せない」という感触があった。記憶を探れば端っこに何かが引っかかる感じがあった。今日は違う。探す場所がない。引き出す引き出しが、最初からない。
名前はない。声の記憶もない。どんな動きをするかも出てこない。
ただ、「そこに誰かいる」という情報だけが残っている。
俺は視線を黒板に戻した。
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「あの席のやつ、名前知ってるか」
昼食後、一つ上の寮の先輩に声をかけた。先輩は教室まで用があって来ていた。前列の三番目の席を顎で示した。
先輩が目を向けた。
「……誰だっけ」
一秒も経たなかった。
「知ってるはずなんだけどな。同じ飯班だったと思う。確かに」
「思う、は?」
「出てこない」先輩は眉を寄せた。「何か変だな。顔は知ってるのに」
先輩は少し考えてから、「まあ、忙しいとそういうこともある」と言って、用件を済ませに行った。
俺は前列の三番目の席を見た。
授業が始まった後も、その席の生徒は普通に授業を受けていた。ノートを取っていた。教師に当てられて、短く答えた。
声が聞こえた。
でも声を「誰の声」として記録できなかった。「前列の席から声がした」という情報になった。人の声じゃなく、場所の音になった。
教師がまた別の生徒を当てた。答えが返ってくる。板書が進む。
俺はそのやり取りを見ていた。誰が答えたかは分からなかった。答えた内容だけが残った。内容も、しばらくすると薄れた。
授業は続いていた。俺の中では何も積み上がっていなかった。
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午後の休み時間に、俺はその生徒の近くを通り過ぎた。
意図的に近づいた。名前を思い出すためじゃない。「見る」ことで何かが変わるか確かめるためだ。
すれ違った。
目が合った——かもしれない。
視線の向きとして「合った」と言えるかもしれない。でも俺には「目が合った」という感覚がなかった。「俺を見た人がいた」という情報だけがあった。
その生徒は俺を認識したか。
向こうから見ても「誰か通り過ぎた」としか残っていないかもしれない。俺がそうであるように。
廊下に出た。
窓の外に中庭が見えた。
朝の影はもうなかった。代わりに別の生徒が何人かいて、昼の光の中で笑っていた。声が届かない距離だ。表情だけが見える。
以前はまだ合っていた。顔と名前が。薄くても、合っていた。
今日は中庭の一人一人を追っても、「そこに人がいる」という情報を越えられない。顔が分かる。姿が分かる。でも「誰」かが、分からない。
それは情報が足りないのとは違った。情報を置く場所がない、という感触だった。名前を貼りつける壁が、端から剥がれている。
足が止まっていた。
気づいたら廊下の真ん中に立っていた。別の生徒が隣を通り過ぎた。誰かは分からなかった。
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訓練場での練習の後、俺は一人残った。
他の生徒が出ていった後の静けさが、今日は少し別の種類に感じられた。
氷を一つ出した。形を保とうとした。
砕けた。
粒子が消えた。それを見ていた。いつもはここで次の氷を出す。今日は手が動かなかった。
前列の三番目の席の生徒。
名前がない。声の記憶がない。飯班の先輩も「出てこない」と言った。
第5章のとき——正確には、名前を思い出せなくなった初日のことを思い出した。あのときはまだ「端に引っかかる何か」があった。今日のこれは、そこから先に進んでいる。
次は何が消えるか。
顔か。姿か。「そこに人がいる」という情報すらも、か。
俺はそこで、一つ気づいた。
第5章の現象を知っているのは俺だけじゃなかった。あのとき隣のクラスの生徒に確認した。「名前が急に出てこなくなった」と彼は言った。「前は普通に知ってたはずなのに」と言った。
今日、先輩は「顔は知ってる」と言った。
「顔は知ってる」。それが、第5章のときより後退している。
俺が認識できなくなった段階より、先輩はまだ前の段階にいる。
複数の人間で同じ現象が起きている。でも速度が違う。
――じゃあ俺はなぜ、先輩より先に「消えた」のか。
俺が観測したからか。俺が視線を向け続けたからか。
氷の粒子が消えた床を、まだ見ていた。
何も残っていない。消えた。それだけだ。
「また」、と頭の中で言葉になった。
口からは出なかった。でも確かに出てきた言葉だった。
また、消えた。
俺はその言葉が来ることを、知っていた。知っていたというより——知っていると気づいた、という方が近い。
過去に一度、同じことがあった。
誰が、とは出てこなかった。何があったかも、すぐには出てこなかった。ただ「また」という言葉が来た。「また、こうなった」という感触が来た。それだけだった。
手を上げようとした。
止まった。
また手を上げた。次の氷を出そうとした。
冷気が指先に集まろうとして、散れた。
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寮室に戻って、窓の外を見た。
夕暮れが中庭に伸びていた。光の角度が変わって、午後とは別の影が出ていた。
前列の三番目の席の生徒が、今日も学院にいる。夕食も食べるだろう。明日も教室に来るだろう。
でも俺には、その生徒が「誰」であるかが、もうない。
なぜ俺だけが、ここまで先に進んでいるのか。
俺が観測しているせいか。俺が「見る」ことで何かを動かしているせいか。
それとも——俺が見なければ、もっと遅かったのか。
窓の外の影が伸びた。
「また、消えた——俺のせいじゃない、のか?」
言葉が出た。
声に出したわけじゃない。でも口が動いた気がした。
答えは、ない。
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