第十九話:片耳のポートレート

古民家フリースペース「キボクマ」の土間には、今日も100体の木彫りの熊たちが静かに並んでいます。


そしてその足元には、いつからか、もう一つの小さくて愛らしい影が加わりました。少し高齢の柴犬「こまる」です。


こまるは、いつもどこか「困ったような顔」をして歩きます。けれど、その困り顔こそが、ここに集まる人々の心を不思議と解きほぐしていくのです。


今日は、一人の若い女性がやってきました。

潮風と犬の体温、そこで木彫りの熊たちが紡ぐ、ある一日の静かな時間をお届けします。


……。

三崎の朝は、京急バスの低いエンジン音と、遠くで聞こえるウミネコの声で動き出す。


私の家から日ノ出バス停近くの「キボクマ」までは、大人の足で歩いて10分ほどだ。

その短い通勤路を、少し高齢な柴犬の「こまる」は、私のチノパンの裾を追いかけるようにしてトボトボと歩く。朝の潮風に鼻をひくつかせながら、時折、草の匂いを熱心に嗅いでは、また困ったような顔をして歩き出す。


築50年の古民家「キボクマ」の格子戸を開ける。

私が格子戸を引いて中へ入ると、こまるは土間の隅にあるお気に入りの丸いクッションへと直行した。


「さてと。今日もボチボチいこうかね」


私が独り言のように呟いて伸びをすると、こまるはすでにクッションの上へもぞもぞと体を収めていた。

「ふふぁ」と大きなあくびを一つして、その特徴的な困り顔を私に向ける。短い尻尾を、控えめに2、3回パタパタと振る。


開店準備の前に、皿にドッグフードを盛ってやる。けれど、こまるはそれをすぐには食べようとしない。

皿にちょっとだけ鼻を近づけてふんふんと匂いを嗅ぐと、またすぐにクッションへと顎を乗せて、眠そうに目を細めてしまう。

もともと食が細く、あまり食べ物に執着のないのだ。こうして出しておけば、日中の気が向いたときに、いつの間にかお皿が空になっている。


こまるは、決して客にベタベタと媚びることはない。ただ、誰かが静かに座っているとき、そっとその足元に寄り添い、あたかも自分も木彫りの熊の1体であるかのように、気配を消して佇むのだ。

私は、こまるの頭を軽く撫てから、土間の掃き掃除を始める。


10時を過ぎた頃、カラカラと戸が開いた。


「こんにちは……」


入ってきたのは、20代前半とおぼしき若い女性だった。

白のオーバーサイズのスウェットに、少し絵の具のシミがついたデニム。脇には、使い込まれて四隅が擦り切れた、元は鮮やか黄色であったろうスケッチブックを抱えている。


彼女は入り口にある料金箱の前で少し立ち止まると、財布から500円玉を取り出し、カランと音を立てて投入した。


「いらっしゃい」


私が奥の6畳間から声をかけると、彼女は小さくお辞儀をして、土間の壁際に並ぶ100体の木彫りの熊たちへ視線を向けた。


彼女は、長い時間をかけて熊たちを見つめていた。

鮭を咥えた勇猛なもの、丸々と太って寝そべっているもの。その中で彼女が選んだのは、棚の最下段の隅にいた、体長15センチほどの小さな熊だった。


その熊は、右の耳が欠けていた。

いつ、どこで欠けたのかはわからない。全体的に黒ずんでいて、綺麗とは言えないし、不格好だけど、味のある顔をした熊だ。


彼女はその片耳の熊をそっと両手で包み込むように持ち上げ、ローソファーの席へと運んだ。

サイドテーブルの上に置き、スケッチブックを開いた。


しかし、そこから彼女の時間は止まってしまった。


鉛筆を握り、真っ白なページをじじっと見つめている。けれど、その先が動かない。10分、20分と、時間だけが静かに流れていく。彼女の肩は、目に見えて強張っていた。


その時、クッションの上で丸くなっていたこまるが、のそりと立ち上がった。

あまり散歩が好きじゃないこまるの爪は少し伸びている。そのせいか、歩くたびに爪がコンクリートにあたりカチ、カチ、と爪を鳴らしながら土間を渡り、彼女の座るソファーの足元へ近づいていく。


「あ……」


彼女が気づいて視線を落とした。

こまるは、彼女を見上げるわけでもなく、ただそのスニーカーのすぐ横に、くるりと丸くなって腰を下ろした。いつものの困り顔で、じっと窓の外を見つめている。


彼女の顔が、少しだけ和らいだ。


「かわいい……お名前、なんていうの?」


彼女が細い声で尋ねる。

私は6畳間から、少しだけ身を乗り出して答えた。


「『こまる』っていいます。少々お年寄りですが、大人しいやつです」


「こまるちゃん、か。本当に、ちょっと困った顔をしてるね」


彼女はそっと手を伸ばし、こまるの背中を撫でた。

こまるは、嬉そうにするわけでもなく、ただ「ふぅ」と深いため息をつき、身を委ねている。その温もりと、規則正しい呼吸の振動が、彼女の張り詰めていた肩の力をゆっくりと抜いていくのが、遠目にもわかった。


昼下がり。

私は飾り気のない湯呑みに温かいほうじ茶を淹れ、彼女のテーブルへ運んだ。


いつもは客に話しかけたりしないのが私のルールだが、その時は、なんとなくルールを破って、ほんの少しだけお節介を焼きたくなった。


無言のまま湯呑みをテーブルの端に置き、彼女の目の前にある鮮やかな黄色の表紙に、そっと視線を落とす。


「綺麗な、黄色のスケッチブックですね」


私のささやきのような一言に、彼女は「あ、ありがとうございます」と慌てて受け取り、湯呑みを両手で包み込んだ。私はそれ以上何も言わず、静かに引き下がった。


その場にはまた静寂が戻り、湯呑みから立ち上る湯気だけが、白紙のページを優しく包んでいた。


18時。

昼の「キボクマ」が終わり、夜の「ヨルクマ」へと移り変わる時間だ。

外すっかり薄暗くなり、潮風が少し冷たくなってきた。

そろそろ、ヨルクマ開店の準備をする時間だが、実は、これといって何もすることはない。ただ店を開けているだけ。それが「ヨルクマ」だから。

彼女の足元にいるこまるも、気持ちよさそうに丸くなったままだ。


だが、彼女はまだ席を立てずにいた。

じっと、片耳の欠けた木彫りの熊と、黄色いスケッチブックの真っ白なページを見つめている。


私は6畳間から土間へ降り、彼女のテーブルの傍らへ歩み寄った。


「あの、18時からは『ヨルクマ』の営業になりまして、席料が1000円になるんですが……」


彼女はハッとしたように顔を上げ、テーブルの隅に置かれた「ヨルクマ」の簡素な木製メニューに目を留めた。

そこには、『席料1000円(持ち込み可)』、そしてその下に小さく、『店長との会話 0円』と書かれている。


彼女はしばらくその文字を見つめた後、財布から1000円札を取り出し、少し緊張した面持ちで料金箱に滑り込ませた。


「あの……これ、本当ですか?」


彼女は細い指で、メニューの『店長との会話 0円』を指差した。


「ええ。気の利いたお喋りはできませんが、聞くことくらいなら、いくらでも」


私は彼女の対面にあるローソファーへ、少しだけ距離を取って腰を下ろした。

彼女は空になった湯呑みを指先でいじりながら、ぽつり、ぽつりと、静かな水面に小石を落とするように話し始めた。


「美大に通っているんです。でも、最近、何も描けなくなっちゃって」


「そうですか」


「周りのみんなが、すごく上手に見えるんです。正確で、光の捉え方が綺麗で、メッセージ性があって。それに比べて、私の描く線は、なんだかどれも歪んでいて、不完全で。一度そう思い始めたら、線が一本も引けなくなっちゃいました。今日も、何かリハビリになればと思って三崎まで来たんですけど……」


彼女は、テーブルの上の「片耳のない熊」に視線を移した。


「このお店の熊たち、形もいびつで。でも、なんだか見ていて、すごく安心するんです。だから、描いてみようと思ったんですけど……やっぱり、私の手じゃ、この子の良さを綺麗に再現できなくて」


私も片耳の熊へ視線を移しながら、語るでもなく語り出した。


「この熊はね、たぶん元からこんな不格好だったわけじゃないんです。いつか誰かが落としたり、ぶつけたりして、耳が欠けてしまった。でも、私はそれを直そうとは思いませんでした」


「どうしてですか?」


「完璧な耳の熊なら、世の中にいくらでもありますから。でも、この『片耳のない熊』は、世界にこれ1体だけです。いびつだからこそ、気に入っている。そう思う人間が、ここにいる。それでいいんじゃないでしょうか」


彼女は目を見開いた。それから、足元で眠るこまるの困り顔を見た。


「いびつだからこそ、気に入っている……」


彼女は小さく呟くと、鉛筆をしっかりと握り直した。


「店主さん、もう少し、ここにいてもいいですか?」

「ええ。お好きなだけどうぞ。こまるも、そこが気に入ったみたいですから」


私はそう言って立ち上がり、再び6畳間へ引っ込んだ。


それから、土間にはサラサラと心地よい鉛筆の走る音だけが響き始めた。

こまるは彼女の足元で、完全に眠りに落ちていた。


20時を回る頃、彼女はゆっくりと鉛筆を置き、スケッチブックを閉じた。

だが、立ち上がろうとはせず、名残惜しそうにその黄色の表紙を手のひらでそっと撫でていた。

それから、テーブルの上の片耳のない熊と、自分の足元で静かに寝息を立てているこまるを、交互に愛おしそうに見つめる。

彼女は、まるでこの静かな時間と空間を少しでも長く記憶に留めるように、こまるの背中をもう一度だけ優しく撫でた。


それからローソファーからゆっくりと立ち上がると、私のいる6畳間の方を向き、深く丁寧に頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました。少し、自分の線が好きになれた気がします」


その声は小さかったが、そこには確かな温もりと、少しすっきりとした明るさが混じっていた。


「それは良かった。何よりです」


私がそう言って微笑むと、彼女はもう一度だけ格子戸の手前で立ち止まり、棚に並ぶ100体の熊たちに、お礼を告げるように静かに目を伏せた。そして、格子戸をそっと引き、三崎の静かな夜の闇へと消えていった。


彼女が去った後、私はそのテーブルの上に向かった。


そこには、スケッチブックから丁寧に切り取られた1枚の紙が残されていた。


私は、そっとその紙を手にとると、そこには、淡い鉛筆のタッチで、片耳のない木彫りの熊と、その足元で困り顔をして丸くなっているこまるの姿が描かれていた。

形は確かに、少し歪んでいる。けれど、そこには間違いなく、温かい光と、優しい空気が流れていた。


その時、不思議なことが起きた。


絵の中の、こまるの短い尻尾が、ほんの一瞬だけ、パタパタと左右に揺れた気がした。

気のせいかと思い、眼鏡を外して目を擦り、もう一度見た。

絵はもちろん、静止した鉛筆画のままだ。


だが、私の足元にいる本物のこまるが、夢でも見ているのか、トントンと後ろ足を小さく動かしていた。


「お前、いい仕事したな」


こまるは目を閉じたまま、小さく鼻を鳴らした。


私はそのスケッチを、土間の古びた本棚の横、片耳のない熊がいつも置かれている棚の奥に、そっと飾ることにした。

「ヨルクマ」の黒漆喰の壁に宿る星空のような光が、鉛筆の線を優しく照らし出した。


不完全なものが、不完全なまま愛される、この静かな場所で。

三崎の夜は、今夜もゆっくりと更けていく。


……。



美大生の彼女が描いた、少し歪んだ木彫りの熊と、こまるの絵。

それは、完璧さを求められる毎日に少しだけ立ち止まり、「歪んでいても、自分らしくていいのだ」と気づけた、ささやかな心の記録でした。


完璧なものなど一つもない、この静かな場所で。

もしあなたの心にも、少しだけ欠けた部分があるのなら。

どうぞいつでも、キボクマの熊たちと、こまるの困り顔に会いに来てください。


またのお越しをお待ちしております。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る