第30話 四〇七号室は、鍵より先に名前を持っていた

 部屋番号は、たいていただの数字だ。


 三〇二。四一五。五〇七。廊下に並んだ扉を区別するための記号でしかない。そこに意味があると思う人間は、たぶんあまりいない。


 けれど、意味のない数字ほど、意味を隠すには都合がいい。


 午前二時十分。


 ミナトマート早川店の事務所には、昨夜の湿り気がまだ少し残っていた。


 机の上には、いつもの並びがある。木札。吸い殻。黒い布切れ。古い地図。丸札付きの鍵。レシート。細く裂かれたレジ袋の帯。そこに今夜は、ホテルの名前を書き足したメモが加わっていた。


 早川ステイイン  四〇七?


 疑問符付きなのは、まだ断定していないからだ。だが、疑問符にしては濃すぎる線で書かれている。


「ホテルの部屋番号って、四〇七あるものですか」


 透真が言うと、店長はメモから目を上げた。


「あるだろ。四階があればな」


「でも、あそこそんなに大きくなかったですよね」


「三階建てに見えたか」


「……見えました」


 透真は思い出す。古びたビジネスホテル。看板の電飾。表から見た時、建物は高く見えなかった。三階までなら自然だ。四階があるようには見えない。


 紬がレジ横から振り向く。


「じゃあ、四〇七って部屋番号じゃない可能性ある?」


「ある」


 答えたのは残月だった。


 壁際に寄ったまま、机の上の鍵を見ている。


「だが、部屋と関わらぬとも限らぬ」


「その言い方、すごい嫌なんですけど」


 透真が言うと、残月は少しだけ目を上げた。


「今さらだな」


 それはそうだった。


 今さら、わかりやすい話になるはずもない。だが、わかりにくいことに慣れて嬉しい人間もいない。


「とにかく、ホテルは見る」


 店長が言った。


「ただし、正面から張るな。近すぎる。客の出入りもある。見られれば一発で不自然だ」


「じゃあ、どこから」


「向かいのコインランドリーが二十四時間だ」


 透真は少し驚いた。


「ありましたっけ」


「お前、見てないな」


「最近ずっと見てるんですけど」


「店ばかりな」


 その通りだった。


 ホテルばかり見ていた。看板、入口、自動ドア。けれど、その向かいに何があるかはちゃんと見ていない。視界に入っていることと、見ていることは違う。


 残月が低く言う。


「今夜は、表の顔をもう一枚剥がす」


「その言い方、いちいち嫌な感じしますよね」


「嫌な話をしておる」


 返しが正しすぎて、腹が立つ。


 午前二時三十六分。


 透真は、コインランドリーの奥の丸椅子に座っていた。


 乾燥機が低く唸っている。洗剤の匂いと、温まった金属の匂い。壁に貼られた利用案内は少し黄ばみ、両替機の前には誰もいない。深夜のコインランドリーには、清潔さとは別の無人感がある。明るいのに、人の気配が薄い。


 そのガラス越しに、早川ステイインの入口が見える。


 思ったより近い。  しかも、こちらが洗濯を待つ客に見えるぶん、覗いていても不自然になりにくい。


 透真は膝の上に畳んだタオルを置いていた。本当に洗濯物を持ち込んでいるように見せるための、小さな偽装だ。紬に「そういうとこだけ変に真面目」と笑われたのを思い出す。


 残月はランドリーの外、街路樹の影に立っている。見ようと思えば見えるが、意識しなければ見落としそうな位置だ。


 ホテルの自動ドアは、ときどき開く。


 酔った男が一人。

 終電を逃したらしい若いカップル。

 出張帰りのサラリーマン。

 どれも、ホテルを使う理由の立つ顔ばかりだ。


 だから厄介だった。


 普通の場所には、普通の理由を持った人間が集まる。そこへ紛れるほうが、よほど見つかりにくい。


 二時四十一分。


 若い女が現れた。


 昨夜、バス停で受け取った女だった。コートもスーツケースも同じだ。動きに迷いがない。ホテルの入口で一度も立ち止まらず、そのまま中へ入る。


 透真は息を詰めた。


 フロントの様子までは見えない。だが、数分後にも出てこないということは、ただトイレを借りただけではない。


 二時四十四分。


 フロント横の小窓に、人影が動いた。


 受付の男だ。夜勤のフロント係らしい。白いシャツに紺のベスト。ごく普通のホテル従業員に見える。だが、次の瞬間、透真は違和感を覚えた。


 男は帳簿を見るのではなく、フロント脇の古い木製のメールボックスのほうを見たのだ。


 メールボックス。


 今どきほとんど使われない、小さな仕切りの並んだ棚。鍵付きではなく、部屋番号札だけが差さっている簡素なものだ。観光案内やチラシを一時的に入れるために残してあるような、古い宿にはありがちな設備。


 そこに、407 があった。


 透真は背中がじわりと冷えるのを感じた。


「……部屋じゃない」


 思わず小さく声が漏れた。


 四階がないのに、四〇七はある。


 それは部屋番号ではなく、別の札だ。古い仕切りについた番号。今では機能だけが残った、昔の分類。


 メールボックスの一番端、少しだけ色の違う仕切り。四〇七の札だけ、他より新しい。


 若い女はフロントでは止まらない。だがフロント係が一瞬そちらを見た直後、女はそのメールボックスの前を通り、何でもないふうに指先を一度だけ下げた。


 ほんの一瞬。

 何かを入れたのか、抜いたのかまでは見えない。

 だが、その動きは“通りすがり”には見えなかった。


 透真は立ち上がりかけて、止まった。


 残月が外からこちらへ目だけを向けている。動くな、という目だった。


 女はそのままエレベーターではなく、階段のほうへ向かう。

 泊まる客にも見える。

 だが、泊まるだけではなさそうにも見える。


 そこが嫌だった。


 二時四十六分。


 ホテルの自動ドアがまた開いた。


 今度は、作業着の男だった。


 袖口の黒い汚れ。歩く速さ。ポケットに手を入れたまま、何でもない顔で入っていく。若い女と目を合わせない。フロント係とも言葉を交わさない。けれど、入って三秒もしないうちに、視線だけがメールボックスの方向へ流れた。


 それだけで十分だった。


 四〇七は部屋番号ではない。

 少なくとも今夜、このホテルの中で、人が立ち寄るべき“場所”として使われている。


 コインランドリーの乾燥機が、がたん、と少し大きく鳴った。透真はその音に肩を揺らし、自分の鼓動が思った以上に速くなっているのに気づく。


 普通のホテルだ。

 普通のメールボックスだ。

 普通のフロント係だ。


 なのに、そこに意味があるとわかった瞬間、全部が妙に古びて見える。現役の設備ではなく、昔のやり方を隠すために残された箱みたいだった。


「……最悪だ」


 小さく呟いた声は、自分でも驚くほど乾いていた。


 ホテルの自動ドアの向こうで、若い女の姿はもう見えない。作業着の男も、すぐには動かない。フロント係は帳簿に目を落としているふりで、やはりメールボックスのほうを意識している。


 透真は膝の上のタオルを握りしめた。


 店から出た物が、道で印になり、人の手を渡り、ホテルの古い仕切りへ収まる。


 それは祠よりずっと現代的で、ずっと気持ち悪かった。


 二時五十分。


 若い女が階段から降りてきた。手ぶらだ。スーツケースも持っていない。ポケットの膨らみも変わっていない。だから逆に、何かを置いてきたのだとわかる。


 そのままフロントを通り過ぎる。メールボックスには触れない。自動ドアの前でスマホを取り出し、二、三度画面を叩いてから外へ出る。


 残月が街路樹の影から一歩動いた。


 女を追うのかと思ったが、違った。ホテルの入口ではなく、脇の細い非常口通路のほうを見る。


 透真もそちらへ視線を流す。


 ホテルの建物脇に、細い通路がある。ゴミ置き場と室外機の並ぶ、ごくつまらない裏通路だ。だがその奥に、低いフェンスの切れ目があり、祠のある側ではなく、さらに別の住宅地へ抜けられそうに見える。


「……そこも繋がってるのか」


 思わず漏れた。


 ホテルは終点ではない。

 途中だ。


 それがわかった瞬間、話がまた一段嫌になった。


 自動ドアが開き、作業着の男が出てくる。今度は何も持っていない。だが、コートの裾が少しだけ不自然に膨らんでいた。すぐに元へ戻る程度の、ほんのわずかな膨らみだ。


 残月が店へ戻る合図を、目だけでよこした。


 透真はそれに従った。


 今夜はここまでだ。

 そう思ったのは、悔しいからではない。見えたものが、もう十分に多かったからだ。


 店へ戻る途中、透真は一度だけ振り返った。


 早川ステイインの看板は、相変わらず古びた電飾で光っていた。終電を逃した客が泊まるだけの、どこにでもある安宿に見える。なのに今は、町の裏の流れを一時的に受け止める、中継地点にしか見えない。


 普通の顔をした場所ほど、厄介だ。


 搬入口へ戻ると、店長と紬が待っていた。


「どうだった」


 店長の声に、透真は少しだけ息を整えた。


「四〇七、部屋じゃなかったです」


 それだけで、二人の顔が変わる。


「何だ」


「フロント脇のメールボックスです。古いやつ。札だけ残ってる」


 紬が眉をひそめた。


「メールボックス?」


「今どきあんまり使わないやつです。でも四〇七だけ札が新しかった」


 店長は黙って聞いている。透真は続けた。


「若い女がそこに一度だけ触って、そのあと作業着の男も視線を流した。フロントの夜勤も、帳簿よりそっち見てました」


「……ホテルの中にも手順があるわけか」


「はい」


 残月が低く言う。


「箱が変わっただけだ」


 その言葉が、妙に重かった。


 祠。

 店。

 道。

 ホテル。

 形は違っても、全部“中継する箱”なのだろう。


 紬がぽつりと言う。


「やだなあ。何か、急に昔の秘密じゃなくなった」


「最初から今の話だ」


 残月の返答は短かった。


 だが、透真も今は同じ気分だった。


 昔の因縁とか、町の古い傷とか、そういう言葉で少し距離を取っていられる段階ではない。ホテルのメールボックスを使うやり方は、あまりにも今のやり方だった。


 店長がメモ帳を開く。


「次はホテルの裏通路だな」


「やっぱりそこですか」


 透真が言うと、店長はうなずく。


「中継点が見えたなら、その次を見る」


 紬が透真の顔を見て、小さく言う。


「今の真壁くん、ほんとに止まらない顔してる」


「自分でもちょっとそう思います」


 半分冗談のつもりだった。だが、半分は本当だった。


 見えてしまった以上、そこまでで止まる理由がもうない。


 レジの電子音が鳴る。

 また客が一人、夜食を買いに来る。


 透真は持ち場へ戻りながら思う。


 四〇七号室はなかった。

 その代わり、四〇七の箱があった。

 次は、その箱からどこへ流れるのかだ。


 店から出た物が、町の手順へ変わる。

 その形がここまで見えてきた以上、もう戻れないところまで来ているのだと思った。


――――――――――

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


 今回は、四〇七の意味を“部屋番号”ではなく、ホテル内の古いメールボックスの番号として捉え直す回にしました。

 これで祠、店、道、ホテルが、同じ「中継する箱」として繋がり始めています。


 また、ホテルが終点ではなく、その脇の通路からさらに別の住宅地へ抜けられることも見えてきました。

 つまり、流れはまだ先へ続いています。


 次は、そのホテルの裏通路の先に何があるのかを見る段階です。

 続きを気にしていただけましたら、応援やコメントで教えていただけると嬉しいです。

――――――――――

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