第40話
「ん? 鈴木。英語をやっていたのか? てっきり数学をやっていたのかと思ったぞ」
「あ、はい。英語です」
「そうか」
数学の教師はいつの間にか僕の席の前に立っていた。
なぜ数学だと思ったんだろう。
「お前、こないだの数学の小テスト100だったぞ」
「あ、そうなんですか」
疑問が解けた。僕は2年になってから、数学の小テストでは再テストをたびたび受けるようになっていた。それが急に満点など取ったから、数学の勉強をしていると思ったんだろう。
「なんだなんだ。嬉しくないのか?」
「え? あ……」
一瞬、なんのことかわからなかった。テストが100点で嬉しくないのかと言われたのだろう。
「あ、いや、嬉しいです。少しは」
「あはははは。今度は期末テストで良い点を目指しているってわけだな。偉いぞ」
教師は誤解している。
僕は、もうテストで良い点を取るために勉強しているわけではないのだ。
それなら、どうして勉強しているんだろう。ただ、不思議なことに理由はよくわからないけれど、はっきりとそれは誤解だと思えた。
「別に良い点数を取るために勉強しているわけじゃ」
「ほう。ならひょっとして進路が決まったのか? どこの大学だ?」
そうだ。確かに教師の言うように良い点を取れれば、結果的に人生の進路の選択の幅が広がる。
それは大きなメリットだと思う。
けれども僕はその言葉を否定するしかなかった。少なくとも今は進路のために勉強していたわけでもなかったからだ。
「進路はまだ考えていません」
「良い点数を取るためでもなく、大学受験のためでもないのか?」
その時、ふと意外な言葉が口をついた。
「楽しいからかな」
ゲームをしたり、アニメを見るよりも楽しいのだろうか? でも今は勉強のほうが楽しかったのだ。
「そうか。楽しいのか」
ふと千葉先生の顔を見ると、その表情は急に真面目になっていた。
「え? はい」
「そうだよな。数学は楽しいんだ。だから俺は数学の教師になったのに」
「数学が好きなんですね」
「ああ。でも楽しさを生徒に教えられないんだ。どうも、つい逆に嫌いになるようなことばかりしてしまう」
千葉先生は数学の授業でわからない生徒を指名して板書させることが多かった。
僕や高橋もその餌食になるわけだが、それはあまり良くない教え方だと自覚していたのかもしれない。
どうやら千葉先生は根っから数学が好きなのだろう。それが空回りしていたのかもしれない。
また教室は、僕と先生の書き物の音だけが響く静かな空間になった。
こんなふうな状況を味わったことがある気がする。
日が傾き始めた頃、千葉先生は言った。
「すまんが、そろそろ俺も帰らないといけないんだ」
気がつくと、もう夕方になっていた。
「頑張っているところ悪いが、お前もそろそろ」
「あ、いえ。教室を使わせてくれて、ありがとうございます」
「ああ。今度、どうして勉強を楽しめるようになったのか教えてくれ」
千葉先生は笑いながら教室を出ていった。
僕はひとりだけになった教室に立ち尽くした。
「なんでだろう。どうして僕は……」
この教室で誰かと勉強していた気がしてならなかった。
千葉先生? いや違う。
なにを言っているんだろう。平日はいつもここで勉強しているじゃないか。
きっと気のせいだ。
「帰ろう」
廊下に出て階段を降りる。誰もいない大きな建物のなかを歩くと、どこか物寂しい気分に襲われる。人が作ったもののなかにいるのに、人の気配がないということが感傷的にさせるのだろうか。
ふと誰かが脳裏に浮かぶ。
――……がいたらな。
え? 僕は今、誰のことを考えたんだろうか。
誰もいない夕陽に赤く染まった校舎が、切ない気持ちにさせる。
高橋のことだろうか? そりゃ、高橋がいてくれたら嬉しい。
僕は彼女の告白の返事を待っているのだ。
けれども違う気がした。最近は待たされすぎたからか、それもあまり意識しないようになってしまった。
なら本当に誰なんだろう。女の子のような気がしてならない。
思春期の妄想かも。そんなことを考えながら玄関で靴を履き替えていると、外から男女の言い争う声が聞こえた気がした。
「高橋の声?」
いよいよ僕の妄想もひどくなってきたかと疑ったが、諍いは現実のようだ。
玄関を出ると、自転車置き場で男女が揉めていた。
しかも、その男女は本当に高橋とサッカー部のアイツだった。
サッカー部の練習はとっくに終わっているようだが、二人は残ってなにか話しているようだ。
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