第29話 返して

 王宮で働く料理人なら、パンを焼くのもお手のものだろう。今回の教会訪問に協力してくれる料理人を呼ぶのかと思っていたルシアンは、数分後に現れた人物を見てあっけに取られた。


(まさか、こんなところで会うなんて……)


 考えてみればありえない話ではない。彼女がオメガである以上、王族とつがわされるのが通例であり、レナードに保護された彼女が王宮で暮らしていてもおかしくはない。


「紹介するわね。こちらは、エレナ・セルッティ侯爵令嬢よ。――エレナ、こちらの方が……」

「……ルシアン・クレーフェルトと申します」

「あなたが……ルシアンさんですか……」


 ルシアンの名前を聞いて、エレナはあからさまに顔を顰めた。「ルシアンさま、よ」とシャーロットから注意をされ、おざなりな返事をしているあいだも視線はルシアンに固定したままだ。

 エレナがルシアンに向ける視線はあきらかに好意的ではない。エレナは知っているのだ。ルシアンがレナードの婚約者であることを。シャーロットは彼女を「セルッティ侯爵令嬢」と紹介していたから、すでに彼女はセルッティ侯爵家の養子となっている。小説と同じように。


「エレナ、あなたを呼んだのはルシアンを紹介したかったのはもちろんだけど、あなたに協力してもらいたいことがあるのよ」


 シャーロットはエレナの態度を気にした様子もなく、エレナをルシアンの隣に座らせ、追加の紅茶と菓子を用意させた。シャーロットのことだから、エレナのルシアンに対する敵意に気づいていないはずはない。わかっていてあえて紹介したのだ。もともとエレナがルシアンに対して敵意を持っているのを知っていて、この機会に仲を取り持とうとしているのかもしれない。


「協力? なんでしょうか、シャーロットさま」

「あなたにも教会訪問の手伝いをしてほしいのよ。――ルシアン、彼女はパン作りに詳しいの。先ほどの件、説明してくれるかしら?」

「……はい」


 なるほど、パン屋の娘であるエレナならパン作りに詳しいはずだ。小説では実家の手伝いをしていたという描写があったのを覚えている。しかも、『タルボット』のハンバーガーで使用していたバンズはエレナの実家で作っていたのだ。彼女以上の適任はいない。

 ハンバーガーの絵を描いた紙を、隣に座るエレナに見やすいよう移動させ、口を開いた。


「来月、教会に訪問する際、子どもたちに料理を振舞うのですが、この……ハンバーガー用のパンの作り方をエレナさまにご教示いただきたいのです」

「ハンバーガー? 最近流行ってるの? ……実家の隣の店でもハンバーガーを売ってて……」


 そこまで言いかけて、エレナが紙から顔を上げてルシアンを見る。こちらを見据えるエレナの表情や声音は、変わらず敵意に満ちていた。


「なんか……どっかで見たことあるなって思ってたんですよね。あなた、うちの隣の店……『タルボット』で働いてましたよね?」


 スーヴェンでルシアンはエレナと会ったことがなかったが、一方的に見られることはあったのかもしれない。なにせ、生活範囲があまりに近すぎた。だが、ルシアンのスーヴェンでの生活は表向きには存在しない。レナードに迷惑をかけてしまう可能性を考えると肯定できなかった。


「このメニュー、あなたが考えたんですか?」

「私が考えたメニューではありませんが、提案したのは私です」


 だれにとは、あえて言わなかった。エレナは正しくルシアンの意図を察したらしく、愛らしい顔を次第に歪ませていく。それがなにかの前触れにしか思えず、ひどく恐ろしかった。


「――あなた、もしかして転生者ですか?」


 ルシアンは何も言わず、肯定も否定もしなかった。だが、動揺を隠し切れず、エレナに伝わってしまった。


「……そっか。そうなんだ。ようやくわかった。だからだったんだ。――あなたのせいで、リオは私を好きになってくれないんだ」


 目が正気ではなかった。狂気さえ感じて、背筋にぞわりと寒気が走る。


「返して。あなた知ってるんでしょ、ここが『恋を知らない王子と運命の少女』の世界だって。私が主人公だって知ってるよね? リオは私と結婚するの。リオを返して」


 怖いのに身動きできなくて、伸びてきたエレナの手を避けられなかった。後ろで控えていた護衛のカミラに身体を引き寄せられ、エレナの手が空をつかむ。さすがに様子がおかしいと思ったのか、シャーロットがエレナを止めたが、聞こえていないのか見向きもしない。


「ひどい、こんなのひどいよ……返して、リオを返して」


 リオを返して。そればかりを繰り返し、エレナがぽろぽろと大粒の涙をこぼす。

 エレナの言う通り、物語を変えてしまったのはルシアンだ。咎められてもしかたない。それでも、彼女の言い方は見過ごせなかった。


「リオはものじゃないよ」

「はあ? 勝手に話を変えて、リオを奪ったあなたに言われたくない!」


 ――大丈夫。いずれ、リオはあなたを選ぶよ。


 ルシアンはそう言うべきだった。レナードはエレナを選び、ルシアンから離れていく。そうなると思っていたのに、本人を目の前にしたら言えなかった。言いたくなかった。


「私、知ってるんだから。あなたに発情期が来てないこと。子どもが産めないかもしれないんでしょ」


 ルシアンの身体についての情報は極秘で、知っているのは医師のスティーブやルシアン専属の護衛や使用人、国王、そしてレナードだけだ。彼らがだれかに言うわけがない。そうなると、考えられるのはエレナの養父であるセルッティ侯爵だ。彼は国王の補佐官で、いくら極秘とはいえ、調べるのは可能だっただろう。


「そんなひとがリオの婚約者なんておかしい。私が婚約者になるべきなのに!」


 エレナが言ったのは、ごくまっとうな話だった。ルシアンに発情期が来ていない問題については、治療が可能かもしれないとスティーブに言われているが、まだ治療薬は完成していない。優秀なアルファを産ませるため、王族にオメガをつがわせるのがしきたりであるのに、子どもが産めないオメガでは意味がないのだ。


「……わかってるよ。でも――」


(でも、俺は――)


 続きを口にしようとしたときだった。突然ドアが開き、数人が部屋の中に入ってくる。


「いったい、なんの騒ぎだ。廊下まで叫び声が聞こえていたぞ」


 部屋に入ってきたのは、第一王子で王太子でもあるオーティス・ローゼンダールとその護衛騎士たちだった。オーティスの視線だけで護衛騎士が動き、エレナをルシアンから引き離す。「いまのうちに外へ」とカミラに促され、シャーロットに黙礼してから部屋を出る直前、エレナの叫び声が聞こえてきた。


「私、リオに言うから! あんたがずるしてリオを手に入れたんだってことも、あんたが本当は変態と結婚するはずなんだってことも! 全部言ってやるからっ!」


 茫然と立ち尽くすルシアンの目の前でドアが閉まり、カミラに促されておぼつかない足取りで歩き出す。すると、オーティスも部屋から出てきて、ルシアンに声をかけてきた。


「王太子殿下、先ほどはありがとうございました」

「なんだ、ルシアン。ひさしぶりに顔を合わせたかと思えば、ずいぶんよそよそしいな。オーティスでかまわん」

「オーティスさま……エレナはどうなるのでしょうか?」

「シャーロットにまかせておけば問題ないだろう」

「あの、エレナにはどうか寛大な処置をお願いいたします」


 王太子妃の前であのようなふるまいをしたのだ。シャーロットに限ってエレナをきびしく罰することはないと信じたいが、咎められてもしかたないことをエレナはしてしまった。エレナが罰せられればレナードが傷つく。


「あれはずいぶんと必死だったが、おまえは余裕だな。近頃のレナードの態度を思えば当然か」

「余裕なんてありませんよ」

「……確かにひどい顔色をしているな。こちらへ来なさい。いま休める部屋を用意させよう」


 そう言って、オーティスがそっとルシアンの肩に手を置き、促してくる。つられて歩きはじめたとき、地を這うような声が廊下に響いた。


「――なにをしているのですか?」


 振り向くと、怒りに染まった瞳でレナードがこちらを見ていた。背後にはリックもいる。いつの間にかいなくなっていたと思っていたが、レナードを呼びにいっていたようだ。


「なんだ、いまごろ来たのかレナード。おまえが保護したオメガがルシアンに噛みついてな、ルシアンを遠ざけたところだ」

「聞いています。ご迷惑をおかけして申し訳ありません、兄上」


 大股で近づいてきたレナードがルシアンの腕をつかみ、自分のほうへと引き寄せる。それを見て、オーティスが苦笑を浮かべた。


「だれよりも余裕がないのは、私の弟のようだ」

「なんの話です? ルシアンは私が連れて帰りますので、兄上はお戻りください」

「そうか。ルシアン、また今度ゆっくり茶でも飲もう」

「はい、ぜひ。オーティスさま、ありがとうございました」


 笑みを浮かべて礼を言うと、さらに強い力で腕を引かれる。ろくに頭を下げる間もなく、レナードに引っ張られるまま王宮をあとにした。

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