【9】舞い込む悲報――ヒールのパガニーニ

 凛がヴァイオリンを弾きはじめると、その影が悪魔となって踊るよう。

 アスファルトを突き刺すゴールドのヒール。街を歩くにはフォーマルに過ぎるタキシードドレスをそれでも身に纏うのは、それが凛の舞台衣装だからだ。ヴァイオリンを持って立つところ、すべてが彼女のステージだから。質の良いヴェルヴェットのスカートが、吹きすさぶ暴風にも似た情熱的な旋律にひるがえる。凛の“十八番”なのだという​パガニーニの「24のカプリース 第24番 イ短調」。「指が重くなるからな」と手を飾らず、マニキュアさえもしない凜は、左足にクリスタルガラスのアンクレットを巻いていた。白く細い、陶器のような足首に巻かれた数珠つなぎの光。

 防音室がある物件なこともあって、マンションの屋上での演奏は住民同士、黙認しあっている。黒髪のヴァイオリニストは、しなやかな旋律を従えて黄昏のなかにいた。燃えるような橙の空の下に長い影を躍らせ、一心に弾く凛の、いっそ傲岸なまでに凛々しい横顔。なのにヴァイオリンがうみだす音は必死そうにはりつめていて、天雫の胸を締めつける。正確なポジションを狙い撃ちする左手と、高みへと上り詰めるようなボウイングを繰り返す右手。

 器楽曲には歌詞はない。言葉に縛られない分、演奏者がそこにこめる思いは千差万別だろう。その方が凛にはふさわしかった。彼女は高慢な言葉で、底意地の悪そうな態度で、目くらましをする悪魔だから。その奥に秘められた本心を知るには、ヴァイオリンに耳を澄ませたほうがいい。声もなく吼えるように、言葉ない歌をうたう凛の横顔。胸の前で拳を握る天雫のことなど意には介さず、凛は微笑んでいた。

 ――ほら天雫、見るがいい、この世界は美しいだろう?

 そんなふうに、全身で語りかけてくれるように。

「何を泣いているんだ?」

「あっ……ううん」

 言われて、天雫は頬を伝う涙をぬぐう。ヴァイオリンを肩から下ろし、凛は眩しそうに、少し皮肉に目を細めた。

「なあ、天雫」

「なあに?」

「なぜそんなにわたしに気を許すんだ?」

「う?」

「わたしが誰だか知っているだろう?」

「うん、武藤凛でしょ」

「おまえはもう一度、武藤聖二について調べてみたほうがいい」

「……でも、わたしと弾いてくれたのは凛だから」

 武藤聖二のことならちゃんと、知っている。だが彼女の出自を知るより先に、天雫は凛に出会ってしまったのだ。たったひとりだった天雫の歌声を、まばゆい金色に縁取ってくれるようなアヴェ・マリア。凛の、ヴァイオリンに。

「——もういい、夕餉にするぞ」

「はい」

 背を向ける凛のあとを、天雫はついていった。凛が仕上げのように音階練習をしているあいだに、夕食のテーブルを整える。演奏の最初と最後に、この音階練習をとても丁寧に行うのが凛の通例だった。

 凛が教えてくれた、カルーアという甘いお酒。天雫はそこに、ミルクを割り入れてのむ。コーヒーの味がするそのリキュールを飲むとき、凛はいつでもヴァイオリンへの熱意を語った。「わたしは“エ・アニム”エリアのパガニーニになるんだ」というのが、凛の口癖だ。凛と天雫、そして千鳥が出会ったこのエリア。

「ヴァイオリンにはいくつかモデルがあってな。ストラド、ああ、ストラディバリウスくらいは聞いたことがないか? わたしのはアマティモデルというんだ。いつか、本物を手に入れる」

「まるくてかわいいよね」

 松脂を拭い、乾拭きを終えた楽器を、凛は天雫に差し出した。

「ほら」

「……いいの?」

 差し出された飴色の楽器を、凛の手から受け取る。なめらかなボディに触れた途端、胸が熱くなった。飴色のボディと深いアーチが美しい。円かで優美なカーブを描く、凛のヴァイオリン。

「…思ってたより軽いね」

「オールドはもっと軽い。水分が飛ぶからな。弦楽器は時間経過とともに水分が飛んで音ができてくるんだ。雑音も少なくなるし、レスポンスがよくなる」

「楽器としてキャリアを積むってことだね」

「そうだな、オールドはベテランだ」

 弓を緩めていた凛は、ソファで震える携帯端末を取り上げる。ディスプレイを確かめた。

「千鳥だな」

「飲みの誘いかな?」

「却下だな。こっちに引き込んでくれるわ」

 あなたと出会えたこの世界は美しい。たとえこの運命がどんなに悲しいかたちをしていても、あなたがとなりにいてくれたら、わたしは決して不幸にはならない。そんな予感とともに、天雫はヴァイオリンをそっと抱きしめる。

「おまえらさあ、明日暇?」

「明日? わたしも天雫も仕事があるが」

 凛の愛器を見つめる天雫を横目にとらえ、凛は口許を緩めた。

「そっか、じゃあアレなんだけど。もし夕方、体あいてたら空人んとこに来てくんね」

「空人さんに? 彼がそう言ったのか?」

「ああ、うん、呼んでんのは俺なんだけど」

 語る声は乾いていて、そうでなければかなり趣味の悪い冗談だと思っていただろう。

「なんかあいつ、いなくなっちまったみたいで。コードタグだけみつかったって、シュティレのやつらが…うん、それ、音響検証。そう言やよかったな、はじめっから」

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