【7】凜の決意、そして音楽の秘密――追憶のノート
止まない世間のバッシングから武藤家を守ったのは、祖父母だった。まず祖母・彩葉の自死が、「武藤聖二という悪魔を生みだした責任」を求める声に歯止めをかけた。舞台衣装のデザイナーであり、聖二や征臣の衣装を仕立てたのが自慢だったという祖母。母の冥からは、その際に彩葉が「どうか私の命で贖わせてほしい」と、世間に向けて遺書を残したと聞いている。そして征臣は武藤家の地位の保護と引き換えに、権力者のお抱えのヴァイオリニストになった。孤高のヴァイオリニストである反面、どんな人にも隔てなく音楽を与えることを喜びとしていた征臣。自分の演奏を檻に入れる傍ら、凜にヴァイオリンを教えることだけは許可をもらい、死に物狂いで仕込んでくれた。レッスンの中で、風景は音楽に宿るということを教えてくれたのもまた、祖父だった。
「技巧と音圧だけでねじ伏せようとするのはおまえの悪い癖だな。ノートを開くなど夢のまた夢だ」
凛の後ろに回り、背中から抱くようにして姿勢をたしかめる。親族たちの態度は相変わらずだった。けれどもう鏡を見て気絶することはなくなっていた。
「誰にも夢を見ることが許されているように、誰もが心象風景を持っている。声が一人一人違うように、人々が持つ風景もそれぞれ違う。音楽はその風景を開く鍵だ。音楽はその響きで、空間をまるごと書き換えてしまうのだよ」
「またそのお話ですか? 理論派の先生らしくない」
「嘘ではないぞ? 私が一度だけ見た風景の話をしただろう。……見せてくれたプレーヤーは、それを“ノート”と呼んでいた」
「ええ、その際はさすがに耄碌を疑いましたが」
「可愛げのない弟子だ」
「それよりも先生、私、決めたことがあります」
「おお、ろくなことではなさそうだな」
凛はアマティモデルのヴァイオリンを肩から下ろし、まっすぐに師と向き合う。
「先生、私は悪魔になります」
そして形の良い眉を吊り上げ、いかにも性悪そうに気丈に微笑んだ。
「武藤聖二は温厚な笑顔の下に底知れぬ悪意を秘めていた。こうすれば誰も私から彼を想起せずにすむでしょう? 一族を恐怖のどん底に追いやった男を」
確かにその表情は、武藤聖二の対極にある“悪魔のような”笑顔だった。そうしてその表情に似つかわしくない恭しさで、深く頭を下げる。
「こうしていることで、私は初めて笑っていられる気がします。武藤凜であれる気がします。先生、愚かでわがままな弟子を、どうかお許しください」
「……お前がお前であることを、どうして私が拒むと思うんだ」
腕組みをして凛のボウイングを見守っていた師は、やがて目をほどいて息をついた。
「だから凛、いつかそのヴァイオリンでお前だけがたどりついた風景を、私に見せてくれ」
祖父は国によって異なるさまざまな奏法や楽団の特色を教えてくれた。祖父との練習漬けの日々は今でも凛の糧だ。
「凛?」
優しく囁くソプラノが、凛をナイトフォールズの喧騒へ引き戻す。
「うん?」
「疲れちゃった? それとももう一杯飲む?」
「そうだな……ブラックルシアンがいいな」
ガーリックシュリンプのアヒージョをふたりで分けていた。熱々のオリーブオイルを吸ったバゲットが後を引いて、つい皿を重ねてしまう。千鳥の仲介を受けて、天雫は見事面接を決めてきた。凛のマンションでも家事に精を出しているから、重宝されることだろう。虹色のビーズを無節操にまき散らすような千鳥の演奏が終わり、流れているのは「正しく安全に調合された」という謳い文句のデジタル音楽だ。ハーメルン事件でアナログの演奏が危険視されたのと時を同じくして、覇権を握ったデジタル音楽。確かに音楽の体は成している。だがそれは、凛にとっては音符の抜け殻にしか聞こえなかった。
いまだに「音楽がどのように人を消す」のかについては公表されていない。しかし実際に「音楽要因による行方不明者」は報道されており、演奏で人を消す
「ね、凛はいつからヴァイオリニストになるって決めてたの?」
興味津々の天雫から、ブラックルシアンを受け取った。香り高いコーヒーリキュールが、意識をクリアにする。
「どうだろうな。いつ、とはわからない頃から、ずっと弾いていたからな。生活習慣のようなもので……わたしとは切り離せないよ」
例えピアノや他の楽器を、あるいは音楽とは別の技能を身につけられるチャンスがあったとしても、この手が掴むのはヴァイオリンだっただろう、という確信があった。
「これから『なる』のではなくて、これまですでに『だった』んだ。わたしは物心ついた時からずっとヴァイオリニストなんだ、天雫。世間が認めようと認めなかろうと、それで食っていけようといけなかろうと、な。弾きたい、聴きたいと思ってしまったら、自分ではもうその衝動を止めることができない。因果なものだぞ。自分の理性や願望とは無関係に、ただそうせずにはいられない。そうするしかないんだ。その道を選んだ一寸先が破滅でも、そうしなければその瞬間に破滅する。そういうものだ。まるきり不毛な恋だな」
天雫は応えない。語る凛の横顔をじっと見ていた。
「自分のなりたいものを探すのも一苦労だと思うが……やりたいことがある方が苦しい時もある。自分の道はこれだと知ってしまったら、別の道を進むことなどできない。その道にいられない限り、苦しむことになる」
試験に合格し、ライセンスを取得できる保証はどこにもない。弾いているときは無意味に強気になれても、ひとたび音が止んでしまえば、今の自分は進退窮まっている。ヴァイオリンを弾かずにはいられないのに、それでは生きていけないのだ。それならそれでなくなってくれればいいのに、自分のものであるはずなのに、腹の底まで根を張っている演奏欲求を枯らすことができない。
「ある意味では、好きで弾いているわけじゃないんだ。わかるか? 選ぶとか選ばないとか以前に、わたしにははじめからこれしかないんだ。だからしがみついてる。……諦めることなどできない」
「わたしは……諦めないでほしい。あなたのヴァイオリンが好きだから。弾いている凛が、好きだから」
天雫の顔を正面から見つめてしまう。そんなことを言われるのは初めてだった。モヒート片手に千鳥が割り込んでくる。
「まーた難しい顔してんな? ちゃんと“音楽”しろや、ぜんぜん楽しそうじゃねえぞおまえらは」
さきほど「タンパク質タイムだ!」と騒ぎながら豪快にかぶりついていたバケットチキンは、あらかたなくなっていた。チリや黒胡椒のオリジナルスパイスのたっぷりかかったナイトフォールズの人気メニューらしい。「おまえら」の流れ弾に被弾した風雅が苦笑する。
「もともとこういう感じなんだよ、俺は」
「俺の演奏聴いてんのにそんな顔してんじゃねえぞ? 空人、ちょっと手貸せや。もう一曲サービスっつってくっから」
心得顔の空人がグラスを置き、ジャケットを脱いで立ち上がる。
「火ついちまったな。悪いけど付き合ってくれや、凜ちゃん」
やがてピアニストの親子は肩を並べ、ピアノの前に座った。
「特別ゲストのガールズもいることだし、景気よくやりますか」
「じゃ、まずはガーシュウィン『ラプソディ・イン・ブルー』で」
四つの掌が、追いかけ合いながら鍵盤を跳ねる。空人に背中を預けた千鳥のシンフォニック・ジャズは、遥かな大空を踊るように飛び回る若鳥そのものだ。親子のピアノ・リサイタルの恩恵に、三人は浴した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます