第16話 泥に塗れた祈り

 数日後。

 宮内省の会議室には、再び東伏水宮慈照王、香耶宮恒文王、宮内大臣、侍従長、女官長、宗秩寮総裁が顔を揃えていた。

 机上には、分厚い調査報告書が積み重なっていた。九条家の過去数年間の移動履歴、学習院時代の素行記録、そして澄子が個人的に中等科の頃から師事していた白川教授への聞き取り記録──宮内省が数日をかけて密かに集めた、すべての資料である。


「では、報告を」


 侍従長の声に女官長が深く頷いた。


「九条澄子様の、過去五年間における凡その行動が判明いたしました」


 侍従長が、並べられた地名を読み上げる。


「……三年前、千曲川流域の――。一年前、紀伊半島の山間部の――。そして、数ヶ月前は……阿武隈川の旧河道にある――……」

「ん? そこは……。待て! もう一度読み上げよ!」


 冷静沈着な香耶宮がいつに無く鋭く声を上げた。


「如何されたというのだ、恒文王」 


 東伏水宮が不審げに問いかける。


「まさかとは思うが……」


 香耶宮の言葉に、侍従長がいぶかしげな表情を見せつつ再び地名を読み上げる。


「されば……三年前、千曲川流域の――。一年前、紀伊半島の山間部の――。そして、数ヶ月前は……阿武隈川の旧河道にある――……」

「……その地名、間違いないのだな!?」

「間違いございませぬ」

「そうか」


 信じられぬことを聞いたとばかりに首を振る香耶宮。


「先ほどから如何されたというのだ、恒文王」


 東伏水宮の問いかけに香耶宮が答えた。


「その地名は……その地名は、すべて過去に、防災法制定前に大規模な水害や土砂崩れの起きた地域ばかりではないか」

「何? 真か?」


 東伏水宮が驚きの声を上げた。


「間違いない。信じられぬことではあるが……」

「調べさせましょう。おい、ここに記載されている地名で過去に何か災害が起きていないか至急照合せよ」


 侍従長が頷き、控えていた書記官に指示を出す。

 書記官が退出し、会議室は再び静寂に包まれた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 しばらくして、書記官が戻ってきた。


「報告いたします。香耶宮殿下が仰られた通り、いずれも過去に大規模災害が発生した地域でございました」

「やはりか」


 座り込む香耶宮。

 会議室が凍りつく。


「他にも九条様が訪れた奥多摩は土砂災害跡地、丹沢は崩落地帯、房総も地すべりの跡地……。いずれも、過去に起きた災害の発生場所ばかりです」


 室内に、凍りつくような衝撃が再び走った。


「それは、単なる物好きな山遊びなどでは断じてない。九条様は自らの足で、かつての災害の傷跡を巡り、その理を究明しておられたというのか」


 宗秩寮総裁の信じられぬとの内心が隠しきれない声を受け、女官長が震える声で言った。


「こちらが九条様の学習院での素行記録にございます」

「……これは?」


 そこには、「協調性に欠ける」「身だしなみに無頓着」「華道や茶道など、妃としての教養よりも野山を歩き回ることを好む特異な性質」といった、教師たちの辛辣な言葉が並んでいた。


「なんだ、これは? これでは素行不良と呼ばれても仕方がないではないか。だが、この評価は先ほどの件を考えるに、何かの間違いとしか思えぬ」

「そう思いまして再確認させましたところ、九条様は当時から地理や地学において教師を凌ぐほどの見識をお持ちだったとか。将来は地質学を修めたいとの志を漏らしておいでだったそうです」

「それは……?」

「はい。その為、九条様が中等科の頃より自ら師事されていた白川教授のもとを訪れ詳細を伺ってまいりました。その報告書がこちらです」


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 分厚い報告書を読み終えた室内には、ただ圧倒的な沈黙が支配していた。


「……これは、たまらぬ。九条の姫は齢二十四ぞ。中等科に入り直ぐということは、十(とお)の頃から、この姫はたった一人で、花の盛りを捨ててまで、国土の安全を学んでいたというのか。周囲にその真意を伝えることなく、泥に塗れ……」


 いつもは豪放な東伏水宮が、目頭を赤くし、天を仰いで深く息を吐き出した。

 

「報いてやらねばならぬ。此度の件とは別に、国として何がしか報いてやらねば」

「寛子の犠牲を、悲劇という言葉だけで終わらせまいとする、その凄まじいまでの執念……。九条公爵は、これを知っておられたからこそ、姫を好きにさせておいでだったのだな。父として、娘の背負った業を共に背負う覚悟であったか」


 香耶宮もまた、震える手で報告書を撫でた。


「姫も公爵もよくぞ今まで隠し通せられたな……。相当の御苦労があったであろうに」


 宗秩寮総裁が頭を振った。 


「あ! で、では、接見の場での手が荒れているとの言葉は……。手を隠す為の……」

「そう言う事だったのであろうな……」

「九条家の姫君が泥にまみれ、岩を叩き、地質図を……?」


 居合わせた書記官らが戸惑いの声を上げた。

 その声を聴きながら宗秩寮総裁が、ゆっくりと椅子に背を預けた。


「……九条様は……殿下に寄り添うために泥にまみれたのではない。寛子様の死を無駄にしないために……災害で泣く者を減らすために……自ら泥に飛び込んでいたのだ」

「……殿下が心を動かされたのも、無理はない」


 侍従長が宗秩寮総裁の後を継ぎ声を上げた。。


「それにしても……誰も、教師ですら気が付かなかったのでしょうか……? ……これは……災害研究者の仕事ではありませんか……」


 女官長が青ざめた表情でつぶやいた。


「確かにな。単なる物好きな山遊びと災害調査とではまるで話が異なる。特異な性質と評した教師は何を見ていたのか」


 侍従長が首を振る。


「だからこそだ、侍従長」 

 

 香耶宮が、吐き捨てるように言った。

 

「協調性に欠けるだの、身だしなみに無頓着だのと評した教師どもは、姫が自らの足で地層を調べ水害の痕跡を追う姿を、ただの物好きな山遊びとしか認識できなかったのだ」

「あっ……!」

 

 女官長が短く声を上げ、手元の学習院からの報告書を見つめた。

 

「それでは……この素行不良とも取られかねない評価はすべて、その教師たちの無理解と偏見によるもの……!? 何という見当違いな……!」

 

 みるみるうちに表情を青ざめさせる女官長。

 

「馬鹿者どもが! 何を見ておったのだ。子女を教え導くべき教師がこのありさまでは早急に手を打たねば、次の世代で皇室の藩屏たる華族がみな腐り果ててしまう」


 侍従長が顔を朱に染め言葉を発する。


「この件が終わり次第、徹底した外科手術が必要でありましょうな」


 吐き捨てる宗秩寮総裁。


「それにしても……」

 

 と、香耶宮が深く息を吐いた。


「慶仁が、水害を防ぐための治水工事や、災害に強い都市計画に並々ならぬ執念を燃やしていることは、我々も知っての通り。その慶仁の傍らに立ち、真の意味で同じ視座を持ち、同じ『痛み』を共有できる女性が……まさか、これほど近くにおられたとは」


 先日の最初の接見で、澄子は完璧な「公爵家の令嬢」を演じ、「お傍に立つ資格がない」と美しく身を引いてみせた。しかしその裏で、彼女は誰よりも慶仁の孤独な戦い──治水と国土の安寧を願う公務──を理解し、同じ地平に立とうと、着物の裾を泥に濡らし続けていたのだ。

 侍従長が、じっと手元の書類を見つめたまま、厳かに呟いた。


「家格、教養、立ち居振る舞い。どれをとっても申し分ない九条澄子様が、まさか、殿下の泥臭い歩みに最も深く寄り添える御方だったとは……」


 宮内大臣が、鋭く、しかしどこか晴れやかな声で呼んだ。

 

「女官長。この新たな報告書、見事である。最後の君の所見もな」

 

 報告書の結びには、女官長の筆でこう記されていた。

 

『泥に塗れたその手は、決して奇行の証ではなく、この国の国土と民を憂う、何よりも尊き祈りの姿に他なりません。殿下の御心に空いた穴を埋めるのは「代わりの花」ではなく、殿下と共に「国土という土を耕す者」であると確信いたします』


「しかし……」


 宗秩寮総裁が、苦渋をにじませた声で一同を見渡す。


「殿下の御心は、まだそれを完全に理解しておられるとは言い難いのではないだろうか?」 


 慶仁は、澄子の泥の手に心を動かされた。

 だが──。

 その泥の奥にある十六年の執念と、少女が背負ってきた孤独な戦いまでは、まだ知らない。

 東伏水宮が、深く息を吐いた。


「……慶仁が本当に選ぶのは、花ではなく、土を耕す者なのかもしれぬ。だが、その判断を下すには、まだ材料が足りぬ」


 香耶宮が静かに続ける。


「九条の姫の真価を、慶仁が自らの目で確かめる時が来るやもしれぬな」


 侍従長が深く頷いた。


「……いずれにせよ、九条澄子様の身上書は、もはや妃候補の枠を超えたものとなりました。これは、殿下の未来と、この国の国土の未来に関わる重大事にございます」


 女官長は、胸に抱えた報告書をそっと押し抱いた。


「泥に塗れたその手を、誰よりも尊いと理解できるのは……殿下お一人でございます」


 その言葉に、会議室の誰もが静かに目を伏せた。


 会議は散会した。

 だが、宮内省の面々と皇族の重鎮たちは、一人の姫君の背負ってきた十四年の泥の重さに、深く打たれた。

 そして同時に、慶仁の決断が、もはや避けられぬ地点へ向かっていることを、誰もが悟り始めていた。

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