第23話 「ありがとうの、その先へ」

「楓君、どこか行きたいところはない?」

 

日向君が僕の手を軽く引きながら、柔らかく微笑んだ。

 

対抗リレーで天音君に勝った日向君の公言通り、

二人きりで一日を過ごす約束の日――その日が、ついにやってきたのだ。


「う、うーん……日向君はどこかある?」

 

視線を少しだけ逸らしながら、僕は問い返す。


「そうだね。街をブラブラして、のんびりカフェでご飯を食べて……映画を見て、夜は夜景が見える観覧車に乗るってのはどう?」

 

嬉しそうに目尻を下げるその表情に、胸がわずかに痛んだ。


「うん……いいと思う」


頷きながらも、どこか落ち着かない自分がいた。


天音君と歩いていたときのことを、つい思い出してしまう。


周囲に一瞥もくれない天音君と、にこやかに受け流す日向君。


二人の違いを、こんなところでも思い知らされる。


あの時と同じように、周囲の視線に戸惑ってしまう自分。


けれど――日向君と並ぶ今の落ち着かなさは、それだけじゃない。


どうしても、頭の片隅で天音君のことを考えてしまうのだ。


すれ違う女の子たちの視線が日向君に向けられているのは分かっていても、

僕は俯きがちに歩くことしかできなかった。


 

最初はぎこちなかった空気も、洋服屋や雑貨屋を巡りながら、互いの好みを話していくうちに、少しずつ和らいでいった。

 

日向君は、いつだって優しい。

 

僕の歩幅に合わせてくれて、さりげなく荷物を持ってくれて、困った時にはすぐに気づいてくれる。

 

――でも。

 

胸の奥にあるもやもやは、消えなかった。


ふと、鋭い視線を感じる。

 

ハッとして周りを見渡すが、それらしい人物はいない。

 

気のせい……かな……?


「楓君、どうしたの?」

 

心配そうに覗き込まれて、慌てて首を振る。


「い、いや……なんか誰かに見られてる気がして……でも、気のせいみたい」


「えっ?」

 

日向君はすぐに周囲を見回した。


「んー、怪しいヤツはいなそうだけどね……。大丈夫、オレが楓君のことは守ってあげるから」

 

そう言って、僕の肩を引き寄せる。

 

近づいた距離に、思わず息が詰まった。

 

――違う。

 

この温もりに、甘えてはいけない。

 

せっかく日向君が考えてくれた一日だ。

 

無駄にしたくない。

 

それは――この時間が楽しいからじゃない。

 

日向君の気持ちを、なかったことにしたくないだけだ。

 

だから僕は、胸の奥にある想いにそっと蓋をして、目の前の時間に向き合うことにした。

 

その後も、何度か視線の気配を感じたけれど――考えすぎだと自分に言い聞かせた。

 

日向君の想いを、これ以上踏みにじらないように。

 

ただ、それだけを考えて。


お昼になり、日向君が予約してくれていたカフェへと向かった。


店の前には長い行列。

 

その横を通り抜けて案内されることに、少しだけ申し訳なさを覚えた。

 

通されたのは、窓際の奥の席だ。


「楓君、このお店に来たことある?」


「う、ううん。この辺りに引っ越してきたばかりだから、あんまり詳しくなくて。でも、さっきの行列見て、すごく人気なんだって分かったよ」


「ここ、ピザが有名なんだ。楓君、好き?」


「うん、好きだよ」


「よかった。今日はいっぱい食べてね」

 

日向君が楽しそうにメニューを広げた、その時だった。

 

何気なく窓の外に視線を向けた僕は――思わず目を疑った。

 

通りを挟んだ向かい側。

 

そこに立っていたのは


――全身迷彩柄に身を包んだ、天音君だった。

 

しかも、双眼鏡でこちらを覗いている。

 

時々、何かをメモしている姿まで見える。

 

……いや、なんで?

 

ここ、戦場じゃないよね?

 

思わず二度見する。

 

けれど何度見ても、やっぱり天音君だ。

 

迷彩の意味、完全に間違えてる。


むしろ、すごく目立っている。

 

それなのに、通行人たちは不思議と自然に避けて通っている。


 ……もしかして、もう“そういう人”として受け入れられてる?


「楓君、どれにする?」

 

日向君の声に、慌てて視線をメニューへと落とした。


「ど、どうしよう……あ、これにしようかな。チーズがたっぷりで……うん、これにする」


「それ、当たりだよ。ここのチーズ、すごく伸びるから」

 

日向君は嬉しそうに頷いた。

 

外の異様な光景に気づいていないのか、気づいていても触れないのか。

 

その笑顔は、いつも通り穏やかだった。

 

……でも。

 

なんだろう。

 

もう一度だけ、窓の外を見る。

 

天音君が、そこにいる。

 

胸の奥が、ほんの少しだけくすぐったくなる。

 

双眼鏡が、ぴたりと止まる。

 

……目が、合った気がした。

 


やがて運ばれてきたピザを一口食べて、僕は思わず目を見開いた。


「……美味しい」


「でしょ?」


「うん、すっごく美味しい!」

 

弾んだ声で答えると、日向君がくすっと笑った。


「楓君、口元」


「え?」


「チーズついてる」

 

そう言って、日向君は紙ナプキンでそっと僕の口元を拭った。


「あ、ありがとう……」

 

距離の近さに、心臓がどくんと跳ねる。

 

思わず視線を逸らした。


そのあとも、視界の端で何度も天音君の姿を捉え

ながら、食事を終えた。


「楓君、ジュースのおかわりはコーラでいい?」

 

僕が頷くと、日向君は席を立った。

 

――その背中を見送りながら、僕はそっと窓の外を見た。

 

……まだいる。

 

双眼鏡、まだ構えてる。

 

むしろさっきより真剣な顔をしてる気がする。

 

……何を調査してるの、本当に。

 

思わず小さく笑ってしまった。

 

やがて戻ってきた日向君は、コーラを僕の前に置くと、自分のアイスコーヒーに口をつけた。


「楓君……対抗リレーの時さ」

 

ぽつりと、呟く。


「えっ?」

 

ストローを指でくるくると回しながら、日向君は少しだけ言葉を切った。


「天音さ……ああいう勝負で手抜くタイプじゃないのに」

 

軽く笑った。

 

けれど、その笑顔はどこかぎこちない。


「……なのにさ」


視線が、テーブルへと落ちる。


「なんか、変だったんだよ」

 

短い沈黙。

 

言葉を探しているみたいだった。


「最後の直線で、一瞬だけバランス崩してさ」

 

胸がざわつく。


「そのあと、無理やり踏み込んでた。あれ……足、やってる時の動きだと思う」

 

心臓が、大きく跳ねた。

 

――やっぱり。

 

あの時の、手の傷も……。

 

胸の奥が、じわじわと締めつけられる。


「……なにも言わずに走るとかさ」

 

日向君は小さく息を吐いた。


「あいつらしいよ。そういうとこ、昔から変わらない」

 

静かな声だった。


「……万全だったら、オレ、たぶん勝てなかったと思う」

 

肩をすくめて、笑う。


「それでも――勝ちは勝ちだけどさ」

 

胸が、ぎゅっと縮んだ。

 

視界がにじむ。


「……楓君」

 

そっと、指先が頬に触れる。


「泣かないで」

 

優しく拭われた涙に、余計に涙が溢れた。


「今日は、それを伝えたくて」

 

日向君は、静かに言った。


「でも――楽しかったよ。楓君と過ごせて」


「……ごめん……」

 

「ありがとう」


その言葉に、胸が痛んだ。


「……ほら」

 

日向君が、ふっと笑う。


「早く行かないと」

 

肩を軽く叩かれる。


「――あの迷彩の人、通報される前に」


「……気づいてたの?」


「気づくでしょ、あれ」

 

苦笑いを浮かべる。

 

窓の外を見ると、天音君が慌てて背を向けていた。


「日向君……ありがとう。僕を好きになってくれて」


「もういいって」

 

軽く手を振る。

その奥で少しだけ影が揺れた気がした。


「……天音にさ」

 

足を止める。


「オレ、まだ親友だと思ってるって伝えて」

 

その言葉が、強く焼きつく。

 

僕は大きく頷いた。


もう、迷わない。

 

次の瞬間、身体が動いていた。

 

――会いに行かなきゃ。

 

天音君に。

 


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