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二項対立で語るわけではないが。への応援コメント
純とはなにか、ですか。非常に面白い着眼点です。羽田圭介は、純文学とは型(起承転結や三幕八場)にハマらず逸脱する自由がある作品だといっていました。エンタメ小説は、型にはめて書かれています。
型にはまらず自由に表現されているならば、SFやファンタジーでも純文学といえます。
型への隷属か、型からの逸脱か。そんな見方をすれば、他ジャンルを不順と見下す傲慢さも消えると思います。
興味深い論だと思いました。ただ、一点気になったのは、「型」という言葉の使い方です。
羽田氏がいう「型」は、起承転結や三幕構成のような創作上の形式を指していたと理解しています。一方で、あなたの論では途中から「純文学」「SF」「ライトノベル」といった市場や読者によるラベリングの話へと移っているように読めました
この二つは別の概念ではないでしょうか。創作上の型を破ることと、出版・流通の都合で純文学というカテゴリーに分類されることは両立します。たとえ実験的な作品であっても、書店では純文学の棚に並ぶことはあります。
その意味で、「純文学としてカテゴライズされた時点で型にはまってしまう」という結論は、羽田氏のいう「型」の定義からは直接導けないように思いました。
ちなみに、私自身も作品を分類するときには毎回悩みます。カクヨム甲子園の感想を書く際も、「これは純文学」「これはエンタメ」と明確に割り切れる作品は決して多くありません。純文学とされる作品にもSFやファンタジー、恋愛などの要素は普通に含まれています。
そのため、ジャンル要素の有無ではなく、作品全体としてどちらの性格が強いかという割合や、羽田氏のいう創作上の型にどの程度影響されているかを見ながら、便宜的に分類しています。あくまで作品を整理するための目安であり、それ自体が作品の可能性や価値を決めるものではないと考えています。
今後のご執筆も楽しみにしています。
作者からの返信
文学という営み自体に焦点を当てた定義ですね。おそらくかねてより存在していたのは型からの逸脱を旨とした文学であるゆえに、そう考えられるのでしょう。明治維新のち、ひっそりと社会批判をしたかの文豪たちなどが私の脳裡に浮かびます。
そのような原始の文学に追従する、エンタメ性・型性の強いものが純の称号の有無で当初の文学と区別されるのは、なるほど納得がいきます。
さて、ここで、あなたのコメントを踏まえたうえで、私の論を深めてみましょう。
私たち読者は本を読むとき、作者の書いた文そのものをはたしてすっかり受容できているでしょうか。あるいは型からの逸脱と順守をいかにして見分けられているでしょうか。答えはどちらも「できていない」です。どれだけ聡明な読者にせよ、それら読者全体の集合知にせよ、完全な解釈を行うのは不可能です。だからこそ大学の文学部はあれこれ議論を交わして研究しています。ここからわかる通り、文章の価値観(あるいはジャンル)を外野がラベリングすることは極めて難しいのです。
だというのに現実では商業化のため、検索網に引っ掛けるため、ありとあらゆる外圧がためにラベリングばかりされています。仮にいちどSFのレッテルを貼られたものはきっとバイアスなしには見られないでしょう。いちど電撃文庫で発売されたら、それは所詮がライトノベルとして見られるでしょう。文学とはジャンルの別を問わず型破りをする可能性を秘めているのに、その破戒可能性の有無が当初のラベリングでおおむね仮置されてしまうのは、いささか勿体なく思われます。これはまさしく時代がもたらした弊害でしょう。
純文学の頭にくっつく「純」の意味の強さは、その破戒可能性の有無を事前に示し、ましてやそれ以外のジャンルの破戒可能性を事前に払底してしまうリスクを表した好例ともいえるかもしれません。
ラベリングがもたらす弊害、私の論でアバウトにしか語られていなかったものが、あなたのコメントを得て、より明瞭になったのではないでしょうか。
余談
他ジャンルを不純として見下す傲慢さは、きっと読者諸氏(中でも純文学を好んで貪る奴らの一部分)が「純文学読む俺かっけー!」という自己陶酔を内面化したのに由来しましょう。それを助長しているのが純=ピュアのなんか凄そう感だったりしますが、そう思うのは私の私怨ですね(笑)。
あと以下は私の感想ですが、純文学としてカテゴライズされた時点で型にはまっちゃってないですかね。二番煎じの感を拭えないのであれば純文学の称号は漱石や鴎外に上げておいて、もう現代人はエンタメ的に追従だけしてろよなんて思っちゃったり〜。
二項対立で語るわけではないが。への応援コメント
竹楊枝節堪能いたしました。お会いした後なので竹楊枝さんの声で再生されてめちゃくちゃ面白いです笑 ありがとうございました!
作者からの返信
私のイケボで再生されたのなら何よりです。
二項対立で語るわけではないが。への応援コメント
最近似たようなことを考えていました。
「商業出版とそれに追従するwebノベル文化(つまり、おそらく、消費物として)のジャンル・カテゴリ・ラベル」という意味ではないところの形式や思想性・テクストの豊かさ・問題提起といったものが、作品内で実際には行われている、つまりいわゆる「純文学っぽい」コンテンツを含むけれども、実際には純文学とは言われない、上述の意味の方でラベリングされている作品は沢山あると思っています。
また、「純文学」という言葉が誰にとってのものなのかという問題もあるような気がしています。
色々考えると、現状の「純文学」とは、エンタメ的にラベリングしやすい(売り手および消費者に都合が良い?)要素がないものをまとめあげるための、いわゆるバスケット・カテゴリーの様相を呈している側面があると思います。
他の方のコメントにもあるように、型や形式に着目した論点も、勿論有力な説だと考えます。この場合、型やテンプレにハマっていないけれどま、エンタメを目指している、単に稚拙な作品群を「純文学」から排除する条件が必要になるとは思いますが……
そもそもの「純文学」という言葉の発明当時の位置づけは、学問性や実用性から逃れて、芸術的意味を重視しているみたいなニュアンスで始まったものだった気がします。結局、人間は全てを学問にしちゃうので、そんなことを言っていた先人たちも不本意なことに学問されてしまっていますけれども。皮肉ですね。消費物として有用なのは、売り手にとっても消費者にとっても「実用的」なんでしょうか。「実用性」という言葉の射程を考えねばなりませんが、いっちょかみではまとまり切りそうにありません。
面白かったです。
まとまらない思考を垂れ流してすみません。
特別ご返信には及びません。