幸福マンション812号室 田辺悟(65) 日記

七月某日

 隣の811号室に、若い男が引っ越してきた。

 汗だくでダンボールを運んでいた。一人で。業者が帰った後も一人で。ずっと一人で運んでいた。

 スマホを胸ポケットに入れて、カメラを外に向けながら。

 誰かに見せているのだろうか。

 夕方、大きな雷が落ちた。この辺りでは珍しい。マンション全体のブレーカーが一瞬落ちた。

 隣の部屋も、真っ暗になった。


 三日後、隣の部屋の窓が、突然ピンクに光り始めた。

 深夜だった。廊下に出たら、ドアの隙間からピンクの光が漏れていた。

 雷から三日間、ずっと暗かった部屋が急に光り始めた。


 引っ越し祝いを持って挨拶にきた、白井元というらしい。

 流暢で丁寧な口調で喋っていたが、口の動きと言葉に違和感があった。


 隣から、女の人の声がした。

 壁越しだったが、大きな声ではっきり聞こえた。

「ハッピー?」

 という声だった。

 それから少しして、隣の住人の声が聞こえた。

「……ハッピー」

 という声が。

 なるほど、奥さんがいるのか、と思った。

 でも引っ越しの日から一度も姿を見ていない。

 在宅の人なのだろう。


 白井さんが出かけるのを見かけた。

 スーツだった。仕事に行くらしかった。

 ということは、奥さんが一人で家にいるはずだ。

 廊下を歩いていたら、811号室の前を通った。

 静かだった。

 物音一つしなかった。

 気配すら、なかった。

 在宅、ではないのだろうか。

 でも夜、白井さんが帰ってきたら、また声がした。

「おかえり」

 という声が、すぐに。

 どこから帰ってきたのだろう。


 朝、駐車場で白井さんをみた、車通勤なのか。

 車が横を通り過ぎた時に違和感があった。

 運転席が無人だったように見えた。

 まさかな。


 買い物の帰り、エレベーターを降りたら白井さんが玄関先にしゃがんでいた。

 電子錠がなぜかピンクに光っていた。

 目が合った。

 私は何も言わなかった。自分の部屋に入った。

 壁越しに聞こえた。

「シエンカさーん」

 という声と、しばらくして。

「悪かったです」

 という声が。

 シエンカさん、というのが奥さんの名前らしかった。
 

 外人さんなんだろうか。

 でも、なぜ自分の家の玄関前でしゃがんで謝っているのか。

 よくわからなかった。


年末

 またしゃがんでいた。

 今度は夜中だった。息が白くなっていた。クリスマス電飾が光っていた。肉まんを持ったまま、私はしばらく立ち尽くした。

 目が合った。

 何も言わずに自分の部屋に入った。

 壁越しに聞こえた。

「シエンカさーん、ごめんなさーい」

 しばらくして、ドアが開く音がした。

「おかえり」という声がした。

「ただいま」という声がした。

 良かった。凍死しなくて。

 でも今日も奥さんの姿は見ていない。

 この半年間、一度も見ていない。

 旦那が不在のとき、気配すらない。

 どうなっているんだろう、あの部屋。


 まあ幸せそうだからいいか。

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