第47話 届かない腕
奥の廊下は、明かりが落としてあった。
壁の燭台はどれも消えている。窓もない。差し込むのは、突き当たりの隙間から漏れる薄い光だけ。
俺は左手で壁に触れながら進んだ。右手には短剣。後ろの男の足音は、ほとんど耳に入ってこない。
四つ目の扉の前で、止まった。
扉の向こうから、椅子が床を擦る音。
誰かが立ち上がった。歩いてくる気配。
扉の前の見張りじゃない。中にいる誰かだ。
……間が悪い。
扉が、内側から押された。
半歩横にずれて、開く扉の陰に身を寄せる。後ろの男も同じ動きをした。打ち合わせはしてないが、合わせてくれた。
扉から顔を出したのは、革鎧の若い男だった。剣帯に手をかけている。見張りの交代に出てきたのか、用事があったのか。どっちでもいい。
俺は短剣の柄頭で、男の側頭部を打った。
短い呻き声。膝が抜ける。倒れる前に、後ろの男が肩で受け止めて、廊下の端へ静かに引いていった。
……まずは一人、片付いた。
扉は半開きのまま、中の様子は、まだ見えない。
息を整える。
奥の部屋の、その先の扉。あれが研究者の部屋だ。ロウの情報通りなら。
廊下の最後の数歩を、足音を殺して進む。
扉の前。木目が浅く、新しい。最近付け替えたのだろうか。
中から、人の声がする。
二人。いや、三人だ。
短剣を握り直し、後ろの男に目で合図する。
男の頷きを確認し、扉を蹴り開けた。
部屋の中、三人。
手前の卓に向かっていた一人が、こっちを見て両手を上げ、そのまま床に伏せる。
こいつは、このままでいい。
壁際にもう一人。書類の束を抱えて、別の扉に向かって走り出した。
こいつは、要注意。
卓の中央に立っていたのは、白衣の中年男だった。ぎょろりとした目で俺を睨む。
こいつが最優先だ。
空気が、重くなった。
真名解放だ。肌感で分かる。
俺が動くより先に、男の右腕が膨れ上がった。
肉が肌の下で盛り上がる。袖が裂けて、ぼたん留めが弾け飛んだ。
前腕は俺の太腿ほどもある。指一本が、俺の手首より太い。
何なんだこれは。
ぞくっとした。背筋に這うような感覚。
真名解放はしている。それは間違いない。だが、こんな見た目になるやつは、見たことがない。
今まで会ってきた連中は、解放しても見た目は変わらなかった。フィーナだって、強くなるけど身体の形は変わらない。
……身体の外側に、こんな風に出てくるのか。特性なのか?
「投降した奴の縛り、頼む。それと、扉――」
言いかけて、視界の端に逃げる男が映った。別の扉に手をかけている。あれを開けたら、廊下の先に何があるか分からない。援軍を呼ばれたら終わる。
左手で投擲ナイフを抜いて、振り向きざまに投げた。
刃は男の太腿の裏に刺さった。男は叫びのような声を上げて崩れる。扉に手は届かなかった。
視線を白衣の男に戻す。
いつの間にか、距離は近くなっていた。
膨れた右腕を、まっすぐに振り下ろしてくる。
寸手のところで、床に転がって避けた。
拳が、俺がさっきまで立っていた場所に落ちる。
壁が砕け、煉瓦の破片と漆喰の粉が、視界の端で散る。
……一発でこれか。
立ち上がりながら、もう一本、ナイフを投げた。膨れた腕の上膊部を狙って。
刃は当たったが、弾かれる。
肌に跳ね返って、床に転がる。傷一つ入っていない。
……なるほど。
真名を通して効かせてくるんじゃない。外に……物理で出てる。
イリスに最初に教わったやつだ。真名を通すものは届かないが、こうやって外に出てるやつは普通に届く。
俺の刃の方は、向こうに届かないが。
もう一度、男が踏み込んでくる。
俺は手近の卓を持ち上げて、盾にする。
拳が卓を打った瞬間、粉々になり、無意味と化した。
木片が顔に飛んでくる。
……腕だけだ。脚は、普通の
煙玉を一つ、男の足元に投げた。即効型。灰色の煙が一気に広がる。
男は目を細めて、それでも止まらず。雑に腕を振り回す。その風圧だけで、棚の上の瓶が床に落ちて割れる。
俺は煙の中で動く。
部屋の様子を、瞬時に頭に入れる。
卓、棚、書類の山、樽、ランタン――壁際にランタンが二つ、灯っている。倒した棚は男の進路を塞ぐ。油壺は腰に。
一手で決めるしかない。
俺は奥の棚に肩から突っ込んだ。
棚が倒れ、書類と硝子瓶が散らばり、男の進む先に積み上がる。
男は腕で棚を叩き割った。木片が宙を舞う。
その間に、油壺の蓋を外す。倒した棚に、油を浴びせる。木材に染み込ませるように、半分以上を一気に。
残りの油は、棚の手前の床に。
ランタンを掴んで、壁の鉤から外し、棚に投げる。
硝子が割れる音。油に火が走る。
棚が、燃える。
炎は木材を伝って、低く広く立ち上がる。男の進路の正面に、火の壁ができた。
男は止まらない。回り込もうとして、棚の手前に踏み出した。
脚が、滑った。
床の油に上手いこと、滑ってくれたようだ。
男は前のめりに崩れ、膨れた腕が前に出る。受け身を取ろうとした、ように見えた。
俺は男の側頭部に、短剣の柄頭を叩き込んだ。
一撃。
男の身体が、止まった。
倒れる。
膨れていた腕が、ゆっくりと萎んでいく。元の太さに戻っていく。
息が上がる。
火が、棚から床に広がろうとしている。書類の山に届きかけている。
……時間がない。
「火、頼む――」
言うより先に、街の男が動いていた。投降者の縛りを終えて、毛布を抱えて駆けてくる。火の縁に毛布を叩きつける。煙が立ち上る。
もう一人――いや、地下班から戻った男が、
火は、収まり始めた。
俺はその間に、倒れた白衣の男にロープをかけた。両手を後ろに。
逃げ損ねた男は、太腿のナイフを抜いて、街の男が縛り上げているところだった。
投降した男は、最初から床で動いていない。
白衣の男の、手首をロープで結ぶ。
その時、男の口が動いた。気を失う直前の、最後の意識。
「……お前は……真名が……」
目が、俺に向いていた。
言葉は、続かなかった。
頭が、力なく落ちる。
俺は手を止めた。
……今、何て言いかけた。
◇ ◆ ◇
部屋の中は、煙と焦げの匂いで満ちていた。
窓を開けると風が入って、煙が薄くなっていく。
倒した棚の残骸が、まだ熱を持っている。床の半分が黒く焦げていた。
縛り終えた三人を、部屋の隅に並べた。白衣の男、逃げ損ねた男、最初から床に伏せていた男。
街の男たちが、それぞれの確認に動いている。地下班の片方は、地下の様子を見に戻った。表のフィーナとイリスのことは、まだ何も伝わってきていない。
部屋に向き直る。卓の上に、書類が散っていた。さっき逃げ損ねた男が抱えていた束が、床に落ちている。それとは別に、卓の中央には分厚い紙束が、革紐で結ばれて置かれていた。
その表紙に、文字が書いてある。
手で焦げた紙片を払って、近づいた。
革紐に手をかける。
紐をほどく。
一枚目。
見覚えのある字だった。
いつか、廃屋で見た、あの紙の続きだった。
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