第4話:彼女と再び
昨日の公園から徒歩数分。自宅から早歩きで一時間と少し。
住宅街の角を曲がった先に、小さな保育園があった。
——ひまわり保育園。
色褪せた動物のイラストが描かれた外壁。施設の入り口の横には手書きの行事予定表。
時間は六時半。朝の時間帯らしく、送りに来た親たちが次々と子どもの手を引いて中へ入っていく。
俺は少し離れた電柱の陰に立ち、通りを行き交う親子の様子を何気ない顔で眺めていた。端から見れば、スマホを見ながら立ち止まっている不審な男。
自分でも、怪しいことをしている自覚はある。
「……何やってんだ、俺」
小さく呟きながら、視線だけは門の前から外さない。
送り迎えの時間帯なら可能性は高いと思ったが、外れれば次の園を当たるつもりだった。この近辺だけでもいくつか候補はある。
とはいえ、あまりにも無策が過ぎる。普通に考えて、しらみ潰しに近辺の保育園を探すなど非効率だ。
ほぼ手掛かりがない状態で夏希を探すのは、不可能に近い。それでも、ジッとしていられなかった。
自分でも、ここまでしている理由をうまく説明できない。四年前に置き去りにされた答えを、今さら拾いに来ているだけなのか。
それとも——。
考えかけたところで、ふと視界の端に見覚えのある小さな影が映った。
思わず息を止める。
子ども用の肩掛け鞄をかけて、短い足で歩く幼女。その隣で手を引いているのは、長い髪をポニーテールで結んだ女性。
「っ………いた」
無意識に漏れた声は、思った以上に低かった。
間違いない。昨日会った、一夏という幼女。そして、その隣にいるのは夏希。
パーカー付きのラフな服をきて、俯きがちに一夏を見ながら歩いている。その横顔が朝の光の中でやけに白く見えた。
——拍子抜けするほど、あっさり見つかった。
一か所目にたまたま選んだ保育園。手がかりも殆ど無い状態で、彼女たちに遭遇できた。
あまりにも、運が良すぎる。まるで何かに導かれているのではと、らしくもない考えが頭を過った。
けれど、見つけた瞬間に胸の奥が強く脈打つ。
足が一瞬、前へ出かける。だがグッとこらえて、足を止める。
ここで不用意に近づけば、昨日と同じように逃げられるかもしれない。門の前では保育士が子どもたちを迎えていて、周囲には他の保護者もいる。
さすがに、この場で問い詰めるわけにはいかない。
そう考えている間にも、一夏は門の前で立ち止まり、夏希がしゃがみ込んで何かを話している。
小さな頭を撫で、頬に軽く触れてから手を離した。その何気ない仕草が、妙に目を引く。
慈愛に満ちた、優しい眼差し。まさしく、母親の顔だった。
やがて一夏は保育士に手を引かれ、中へ入っていく。夏希はその背中を見送ったまま、しばらくその場から動かなかった。
まるで何かを考えるように、門の先を見つめている。
そして、ゆっくり振り返ったその瞬間。視線が、ぶつかりそうになる。
「っ!」
咄嗟に、電柱の影に顔を隠す。今はまだ、見つかるわけにはいかない。
焦る必要はない。この保育園に通っていることが分かれば、やりようはいくらでもある。俺は夏希に見つからないよう、逃げるように保育園を後にした。
~※~
午前中のうちに、一夏が通っている保育園は特定できた。
授業の間もノートを取る手は動いていたが、頭の中では別のことばかり考えていた。教師の声も、教室のざわめきも、ほとんど耳に入っていない。
結局、最後までまともに集中できずに放課後になる。終礼のチャイムが鳴ると同時に、鞄を肩に掛け足早に校舎を出た。
時刻は五時を少し回ったところ。
夕方特有の冷えた風が吹く。
保育園に着いた頃には、迎えに来た保護者たちがちらほら門の前に集まり始めていた。午前中と同じように少し離れた位置に立ち、視線だけを向ける。
十五分ほど経った頃。
向かい側の通りから——保育園へ入っていく、夏希の姿が見える。
「!」
咄嗟に電柱の影に身体を隠して、顔だけを覗かせる。
しばらくして、門の奥から幼女の手を引く女性が出てくる。
夏希と一夏だ。
夏希は朝の私服の上から、淡い薄手のジャケットを羽織っていた。
やがて二人は並んで歩き出す。距離を保ったまま、その後を追う。
夕方の住宅街は、昼間よりも少しだけ音が多い。遠くで自転車のベルが鳴り、どこかの家から夕飯の支度らしい匂いが流れてくる。
そんなありふれた生活音の中に、夏希と一夏の背中だけから、目が離せなかった。
一夏は小さな歩幅で懸命に歩きながら、ときおり夏希を見上げて何かを話している。夏希は短く相槌を打ち、時折小さく笑った。
昨日、公園で見せた強張った顔とは違う。
柔らかい。少なくとも、一夏に向ける表情だけは。
その横顔を見た瞬間、胸の奥に言いようのない違和感が広がっていく。
知らない顔だった。いや、知らないわけじゃない。
昔の夏希も、よく笑っていた。お姉さん風邪を吹かせて、偉そうなことを言いながらも、くだらないことで肩を揺らして。
けれど今見ているそれは、もっと静かで、どこか守るものを持った母親の顔だった。
「……本当に何やってんだ、俺」
思わず小さく漏れる。完全に不審者だという、自覚はある。この状況を見た第三者に通報されれば、弁解の余地もない。
それでも、足は止まらなかった。
四年前、何も言わずに消えた理由。昨日、自分を拒絶した理由。そして——あの子のこと。
そのどれもが、今目の前を歩く背中に繋がっている気がした。
二人は住宅街を抜け、小さな交差点をひとつ曲がる。一夏が途中で立ち止まり、道端の花壇を指差した。
何か言っている。
夏希がしゃがみ込み、一緒にその先を覗き込む。たぶん、小さな花か虫でも見つけたのだろう。
一夏が笑う。夏希も、ほんの少し口元を緩めた。
その光景に、無意識に視線を逸らす。見てはいけないものを見ている気がした。自分の知らない四年が、そこにあった。
やがて二人は再び歩き出し、十分ほど進んだ先で足を止める。
三階建てのマンション。
白に近い灰色の外壁。エントランス脇に小さな宅配ボックスが並び、植木鉢がいくつか無造作に置かれている。
夏希は慣れた手つきでオートロックを開け、一夏とともに中へ入っていった。
俺は少し離れた場所で立ち止まり、その建物を見上げる。
「……ここか」
思ったより、普通の場所。もっと大きな家かもしれない、と勝手に想像していた自分に気づく。
だが、それもすぐにどうでもよくなった。
問題はここからだ。
部屋番号を確認するか、それとも今日は引くか。迷った末、一輝は周囲を見回してから、ゆっくりエントランスへ足を向けた。
その時だった。
「——そこのあなた」
背後から、不意に女の声が落ちたと思ったら。
振り返る間もなく、腕を後ろへ捻り上げられる。
「っ!?」
そのまま体重をかけられ、うつ伏せに地面に組み伏せられる。
「が、はっ——!!」
強い衝撃が身体に走る。肺から空気が押し出され、呼吸ができない。
「そのまま動かないでください」
耳元で冷静な声。やや甲高い、女性の声だった。
「先ほどマンションに入っていった親子を、ずっと尾行しておりましたね」
冷たいアスファルトに頬が押しつけられる。
腕を極められたまま、一輝は息を整えようとしたが、うまくいかない。背中に乗せられた膝の位置が絶妙で、無理に動けば余計に痛みが走った。
「……何が目的ですか? 事と次第によっては警察に通報します」
「っ……」
まずい。言い訳が浮かばない。
客観的に見て、自分がやっていることはストーカー行為だ。正直に事情を話して信じてもらうか?
いや、無理だ。それだと夏希に知られることになり、余計に話がこじれてしまう。だがここで何かを言わないと、間違いなく通報される。
万事休す。
そう思った時だった。マンションのエントランス側から、小さな足音がぱたぱたと近づいてくる。
「あれ?」
幼い声だった。次の瞬間、聞き覚えのある声が弾む。
「おにいちゃん!」
拘束していた女性の動きがぴたりと止まる。
俺は顔だけを上げる。視界の端に、小さなワンピースの裾が見えた。
現れたのは一夏。彼女が不思議そうにこちらを覗き込んでいる。
「……一夏様、この人を知っているのですか?」
背中の上から、低い声が落ちる。俺が答えるより早く、一夏が元気よく頷いた。
「うん! きのう、こうえんであそんでくれたの!」
「……いや、遊んではいない」
苦しい体勢のまま一応訂正すると、一夏は首を傾げた。
「でも、べっこうあめくれた」
それを聞いて、女性はわずかに眉を寄せる。
明らかに警戒と戸惑いが混じった沈黙。その時、さらに奥から落ち着いた女の声が届いた。
「一夏、勝手に出たら——」
そこで言葉が止まる。
足音が近づき、視界の先に現れた人物を見た瞬間、一輝の胸の奥がまた強く鳴った。
昨日と同じ、落ち着いた色の服。肩口で揺れる、風に靡く艶やかな黒髪。
神宮寺夏希だった。
彼女は一瞬、状況を理解できないように目を見開き、それから拘束された一輝を見て明らかに表情を固める。
「……何をしているの?」
問いかけた声は低かった。拘束していた女性が、説明する。
「夏希様。この男が、先ほどからお二人を尾行していたので」
「尾行……?」
夏希の視線が、こちらへ向く。
痛いほど冷静な目だった。だがその奥に、ごくわずかに揺れるものがあった。
「……否定はしません」
「否定、しないのね」
呆れたような声音だった。
一夏は事情を理解していないのか、二人を交互に見上げている。
「ママ、このおにいちゃん、わるいひと?」
その無邪気な問いに、夏希は少しだけ視線を和らげた。
「悪い人………ではないと思う」
その一言に、一輝の胸がわずかにざわつく。
思わず顔を上げると、夏希は一瞬だけ目を逸らした。
昨日と同じ、知っているのに距離を取る態度。だが、昨日ほどの拒絶の意志は感じられない。
「燐。とりあえず、彼を解放してあげて」
「ですが……」
「大丈夫。彼は、私の知り合いだから」
「……わかりました」
夏希がそう言うと、燐と呼ばれた女性は拘束を解く。ようやく解放された俺は、腕を押さえながら身体を起こした。
「色々と訊きたいことはあるけど…… 私に、何か用でもあるの?」
「……話がしたかっただけです」
「だったら、普通に声をかければいいでしょう」
「昨日、人違いだって言われました」
「………」
その瞬間、空気が少し張った。
夏希の表情がわずかに止まる。横にいた女性も、無言で二人を見比べていた。
「……ここで立ち話も何だから」
数秒の沈黙のあと、夏希が静かに言う。
「少しだけなら、二人で話す時間を作るわ」
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