白銀の夜の中
昼食を終えた後も、銀座散策は続いた。
「次は、舶来の万年筆でも見るか。それとも、帯でも新調するか?」
巳貴が詩乃の顔を覗き込み、愉しげに聞いてくる。
詩乃は、楽しくなかった。別に、贅沢をしたいわけではないからだ。
それよりも気がかりなことがある。
「あの、絵巳里様のお世話は、本日は誰がなさっているのでしょうか」
我慢できず、巳貴の話を遮ってしまった。朝からずっと、離れで眠っている絵巳里のことで頭が一杯なのである。
少し出かけて帰る程度だと思っていたのに、この調子では夜が来てしまう。どうしても気になり、早く帰らなければ、という焦りが詩乃を襲っていた。
「他の女中に任せてある。俺が姉上のことを考えていないわけがないだろう」
不安だった。屋敷の使用人たちは、絵巳里をどこまで世話してくれるのかと。
詩乃は、一部の人々が、絵巳里を陰で「死体」と呼んでいることを知っている。彼らは、絵巳里を死んでいるものとして扱っているのだ。きっと絵巳里がいずれ目覚めるなんて夢にも思っていないし、介護する価値があるとも思っていないだろう。
心配で俯き、思い悩む詩乃に、巳貴がぽつりと呟いた。
「お前、少しも笑わないな」
「……え?」
詩乃はぱっと顔を上げた。そこには、眉間にぎゅっと皺を寄せた巳貴がいた。
「俺と出かけるのが楽しくないのか?」
「い、いえ、そのようなことは」
楽しいわけがないだろう――と思いつつ、咄嗟に否定したが、巳貴の双眸から、瞬時に温度が消え失せる。
その後、巳貴の機嫌は昼間よりも明らかに悪くなり、ついには口をきいてくれなくなった。
夕刻から降り始めた雪は、瞬く間に帝都を白銀の世界へと塗り替えた。
夜を迎え、さらに積もった雪景色を見に行こうと、巳貴は不機嫌そうなまま銀座で車夫を拾った。向かった先は、上野の山である。
公園に足を踏み入れると、そこには息を呑むような美しい景色が広がっていた。
池の向こうまで続く銀世界。噴水も樹々も、全てが分厚い真綿に包まれたかのように白く光っている。竹の枝が雪の重みに耐えかねて時折しなり、さらさらと雪を零す音だけが、夜の静けさを揺らしている。
その凍てつくような美しさをひとしきり眺めた後、ようやく巳貴が帰路へと歩みを向けた。
足元で、降り積もったばかりの雪がぎゅっ、ぎゅっと小気味よい音を立てる。
上野から歩いて三十分ほどかかる川の向こうに、蛇神家に雇われている運転手が車で迎えに来ているらしい。
橋の向こう、闇の中に、車体から突き出したライトが二筋の光となって見えた。
巳貴は数歩先を、無言のまま進んでいた。詩乃は、足をやや引きずりながら、巳貴の背中を追った。一日中無理に歩いたせいで、足の痛みが増してきた気がする。
橋を渡っていた時、ふと、前方から一人の男が歩いてくるのが見えた。
分厚いインバネスコートに身を包み、深く帽子を被ったその人物に、何故か目を奪われる。
詩乃は、巳貴に遅れまいと必死に歩き、その男の傍らを通り過ぎた。
(……背の高い人)
ただ、それだけを思った。
雪が音を吸い込むような静寂の中、すれ違いざま、微かに花のような甘い香りが鼻腔をくすぐったような気がしたが、振り向かず、凍える手で着物の合わせをきつく握りしめた。
数歩、離れた時だった。
「――……しーちゃん?」
背後から聞こえたその声は、降り積もる雪を震わせ、詩乃の意識を一瞬にして現実に引き戻した。
詩乃をそう呼ぶ人物は、この世界に一人しかいない。
十年の歳月を超えて、何度も夢の中で繰り返された、忘れもしないあの声。
詩乃は足を止め、弾かれたように振り返った。
白銀の夜の中に、その人は立っていた。
街灯の光を背に受け、舞い落ちる雪がその肩に、帽子に、降り積もっていく。男がゆっくりと帽子を上げると、影の中から、かつて星の名前を教えてくれたあの頃と変わらない、美しい顔が浮かび上がる。
雪の白さよりもさらに透き通るような白い肌と、すっとした鼻筋と、知的な光を宿した涼やかな目元からは、大人の色香を感じた。かつての少年らしい華奢な肩幅には厚みができていて、仕立ての良い漆黒のコートを凛然と着こなしている。
詩乃の知る花人は、いつも思い浮かべる花人の姿は、少年の頃のままだったが、十年の歳月を経て彼は、美しい大人の男へと変貌していた。
「……花人お兄ちゃん?」
詩乃の口から、震える吐息と共にその名が漏れ出した。
風が吹き抜け、二人の間に雪のカーテンを引く。再会の歓喜よりも先に、信じられないという戸惑いがあった。
異国にいるはずの彼が、何故、今ここに。
「戦争の影響で、帰国を余儀なくされたんだ。本当はあと何年か、向こうにいる予定だったのだけれど」
詩乃の疑問を感じ取ったかのように、花人がゆっくりとした口調で説明を加える。
雪は音もなく降り続け、橋の上で対峙する詩乃と、花人の境界を白く塗り込めていく。
付いてこない詩乃を巳貴が不審げに振り返る音も、足首の痛みも、全てが遠い世界の出来事のように思えた。
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