魔導監査官セイジの不整合な記録 ―王立魔法保険協会は奇跡の粉飾を許さない―

しゅら犬

勇者の過剰火力と燃えた倉庫

 魔導馬車の厚い鉄輪が、王都近郊の不揃いな石畳を打つたびに、規則的で無機質な金属音が車内に響く。それは、かつて王都ルクシオンの繁栄を支えた「秩序」が、外縁部では既にそのリズムを失いつつあることを示す不快な残響だった。

 セイジ・オダは膝の上に広げた黒革の手帳――王立魔法保険協会RMIA特製の公用監査簿から一度も目を上げることなく、銀色の懐中時計の竜頭を三回、正確な間隔で弾いた。


「ルクシオン中央市場区のCゲートから、現在の地点まで820 Arith(アリス)。地脈の歪みによる走行抵抗の増加を差し引いても、予定より三十二秒の遅延だ」

「……そんなことまで、いちいち測っているんですか?」


 向かいの座席で、落ち着かない様子で車窓の霧を眺めていたリリア・レインが、灰色の瞳を丸くして問いかけた。彼女の膝の上では、かつて魔導学院での優秀な成績を象徴していたはずの精緻な杖が、主人の不安を映し出すように微かに震えている。


「測定できないものは管理できない。管理できないものは、救済の対象にはならない。……それがRMIAの第一原則だ。リリア、理解しておけ。我々が扱うのは悲劇ではない。不整合なデータの集まりだ」


 セイジの声音は、冬の朝の冷気に晒された剃刀のように鋭く、一切の情動を含んでいなかった。


   ◆


 鼻腔を蹂躙したのは、乾燥した薪が爆ぜる程度の清廉な燃焼の類いではなかった。

 越冬用に貯蔵されていた数トンの穀物が、逃げ場のない熱量に焼かれ、雨上がりの湿潤な大気に溶け出した粘膜に纏わりつくような死の堆積物の臭いだ。その甘苦い悪臭は、官僚的な剥き出しの厳格さを保つセイジの旅装の重厚な繊維にさえ、容赦なく染み込んでいく。

 セイジが焼け落ちた倉の跡へと一歩を踏み出すたびに、炭化の果てに脆化した残骸が、乾燥した骨が砕けるような鋭い不協和音を足元で奏でた。眼前には、村人たちの切実な祈りが物理的な不浄となり、重力に負けて沈殿したかのような巨大な灰の山が横たわっている。


「……凄惨な」


 背後でリリアが、絞り出すような戦慄を唇から漏らした。彼女は祈るように胸の前で手を組んでいたが、その震える指先は冬の残滓によって血の気を失い、まるで死者の彫像のように白く強張っている。


「リリア。君の情動は、被害査定書の付随項目には一文字も記述されない。感傷を市場に並べても、引き換えになるのは無益な時間と、不正確な鑑定結果だけだ」


 セイジは懐から、真鍮と強化ガラスの冷たい硬質さを備えた魔導計測器《トレース・アキュムレータを取り出した。

 その時、村の入り口から、地鳴りのような歓声が響いてきた。絶望に沈んでいた村人たちが、まるで蜘蛛の糸を見つけた罪人のように、一斉に顔を上げる。


「レオン様だ!  我らの救い主が戻られたぞ!」


 逆光の中に、眩いばかりの魔道鎧の姿を現した。――レオン・フォン・ブレイズが、熱狂する民衆を従えて現れる。


「皆、安心せよ!  災いの元凶、ドラゴンはこの私が打倒した! こ の倉庫は尊い犠牲となったが、案じるな。救世の火に焼かれたものは、神と協会が必ずや補填してくれる!」


 その張りのあるテノールは、死に体だった村に強引なまでの活力を注ぎ込む。だが、セイジにはそれが、不自然なほど高出力な『演出』——すなわち欺瞞にしかみえなかった。


   ◆


 村の酒場の喧騒は、レオンにとって心地よいBGMというよりは、胃の奥で疼く負債の痛みを紛らわすための麻酔だった。

 彼は村人から提供された最高級の蜂蜜酒を呷りながら、テーブルの下で震える拳を握りしめていた。


 ――あと三万ゴールド。今月の利息分だけで、それが必要だ。ドラゴンを一匹、その程度の報酬じゃ、俺の看板代にもなりゃしない


 聖剣『ブリリアント』――王都の骨董屋で多額の借金をして手に入れたそのレプリカの維持費、王都の貴族街での社交、そして輝ける英雄という虚像を市場に流通させ続けるための過剰な宣伝広告費。彼の資産曲線は、既に回復不可能な角度で右肩下がりに沈んでいた。

 今回のドラゴン計画は、彼が地元の豪商ガロンと仕組んだ最後の大博劇だった。

 

――あの倉庫さえ、綺麗に燃えてくれれば……。中身のない穀物庫をドラゴンが焼いたことにして、多額の保険金を受け取る。それで俺も、ガロンも、すべての数字をリセットできる

 

 計画は順調であった。少なくとも場所は都市から離れた場所であり、それほど中央の力が届いていない。そこでは少なくとも自身の評価は高い。民衆を騙すことはたやすい。

 酒場の窓から、焼け跡を歩く黒いコートの男――RMIAの監査官が見えた。


「ふん。ただの事務屋が。俺の聖剣が放った光の跡を、ただの火消しが解析できるはずがない」

 レオンは鏡に映る自分の「完璧な笑顔」を三度確認し、ジョッキを力強くテーブルに叩きつけた。


   ◆


 夜の帳が下り、村が祝祭の疲れと蜂蜜酒の匂いに沈む中、セイジは一人、倉庫跡の最奥に立ち尽くしていた。

 廃墟の深部は、外の世界から切り離された巨大な墓所のようだった。空気に舞い続ける微細な灰が、魔導ライトの冷たい光の中で無機質に踊り、セイジの呼気さえも灰色に染めていく。


「……ここか」


 彼は厚手の革手袋をはめ、崩落しかけた梁を正確な角度で移動させた。そこにあったのは、周囲の焦土とは対照的な、不自然なほどに清潔な石床の裂け目だった。

それをみてセイジはやはりこれはドラゴンではないと確信を得た。

 ――もしドラゴンのブレスが数千度の熱量で全てを焼き尽くしたというのなら、この裂け目の断面さえも高熱で融解し、ガラス化していなければならない。

 だが、そこにあるのは、急激な温度変化に耐えかねて爆ぜた、極めて物理的で、暴力的な破壊の痕跡だけだった。


「トレース解析、開始」


 セイジは測定器を裂け目にかざした。ガラス管の中で水銀に似た感応液が、周囲の魔力残響を感知し、まるで生き物のように不気味に脈動を開始する。


「残留エーテルの波長、0.87 Arithの不一致。……延焼のベクトルが、風上から始まっている。不自然なほどに効率的な『全焼』だ」


 さらに、セイジは半ば炭化した木樽の底をナイフの先で叩いた。重厚な穀物の響きではなく、空虚で、あまりに軽い反響音。中を見れば本来なら中身もあるはずだが、それはなかった。


「中身がない。リリア、記録しろ。この倉庫は燃えて消失したのではない。燃える『前』に、既に中身を何者かによって清算されていた。……これは死体の焼却処分だ」


   ◆


 レオンは庭の片隅で、腹心の従者に低く鋭い隠密命令を飛ばしていた。


「あの監査官、場所を特定しやがった。倉庫の床下だ。……あそこには、まだ遅延発火魔法の触媒が染み込んでいるはずだ。今すぐ、灰ごと埋めろ。目撃者は……必要なら、この『聖剣』で黙らせろ」

「しかし、レオン様。RMIAの監査官には、王宮直属の不可侵権限が……」

「事故に見せかけろと言っているんだ! 森の魔物が戻ってきたとでも叫べば、奴らは震えて逃げ出すだろ!」


 英雄の端整な顔つきが、焦燥と保身によって醜く歪む。

 彼にとって、真実とは守るべき正義ではなく、自らのを評価を下げるものでしかなかった。


   ◆


 翌朝、村の中央広場。熱狂と安堵が入り混じる奇妙な高揚感の中、壇上に立ったレオンは、朝日に鎧を輝かせ、民衆の熱烈な喝采を全身に浴びていた。


「さあ、協会の上席調査官殿。鑑定書は仕上がったかな? この善良なる村人たちの冬を救う、魔法の署名を頂けるんだろう?」


 セイジは騒めく群衆を割り、泥に汚れた革靴を鳴らして、処刑人のような迷いのない足取りで壇上へと進み出た。


「RMIA上席調査員、セイジ・オダです。……本件、ハルバ村倉庫火災損害報告について、最終的な『鑑定結果』を公式に宣言いたします」


 広場を支配していたざわめきが、波が引くように収まり、不気味なほどの静寂が訪れる。


「――却下です。RMIAは、今回の損害補償請求を却下します。支払われる金額は、一ペリカたりとも存在しません」


 一瞬の空白。その直後、民衆の怒号が物理的な圧力となって広場を埋め尽くした。レオンは、信じられないものを見るような目で目を見開き、腰の聖剣レプリカの柄を握りしめた。


「貴様……英雄を辱めるか! 私が命を懸けてドラゴンを退治した事実は、この村の全員が見ているのだぞ!」

「事実と数値は、しばしば異なる物語を語ります。……レオンさん。証拠なら、既に本部の魔導裁判所へ暗号通信で送信済みです。私の心拍と同期し、私の死と共に公開される設定でな」


 セイジは手帳を広げ、空中へ巨大な青白いホログラム——『エーテル残響記録(102セグメント波長)』を投影した。


「魔導士の魔法には、指紋と同じく術者の『シグネチャー』が刻まれます。……ドラゴンが襲来する実時間で十分前。この倉庫の床下を焼き抜いた種火の魔力波形は、先ほど採取したあなたの魔力と、0.003%の誤差もなく一致しました。ドラゴンが来るより先に、あなたは火を点けていた。……これを自作自演と言わずに、何と言うのですか?」


 その言葉にレオンは「……クソ!」と毒づいた。

 レオンの聖剣が、石畳の上に、乾いた大きな音を立てて転がった。英雄の鎧が、沈みゆく欺瞞の影を吸い込み、完全に輝きを失った。


「数字と波形に、エラーは存在しません。存在するのは、あなたの『計算ミス』だけだ」


   ◆


 魔導馬車が高地の坂道を下り始めた頃、セイジは窓の外を一度だけ眺めた。

 英雄という名の甘い麻薬が切れ、人々が自らの手で灰を片付け始めたエスト村。その煙突から、白い煙が細く立ち上っている。


「セイジさん。……村の人たちは、これからどうなるんですか? 倉庫も小麦も、英雄も失って」

「彼らには、保険金よりも重要なものが戻ってきた。……英雄という不確実な資産に縋って眠るのではなく、自らの足で立つための、厳しい現実という名の生還だ」


 セイジは少しだけ、万年筆のキャップを親指で弾いた。


「……リリア。君の鞄に入れておいた、復興支援特約ローンのリーフレットは渡したか?」

「あ……はい。村長さんに。年利2.0%の固定金利、返済期間二十五年。……本当に、これで彼らは救われるんですか?」

「少なくとも、英雄の博打に全財産を賭けるよりは、数学的に確実な救済だ」

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