第29話

 カタリナ率いる正規騎士団の、統制の取れた圧倒的な武力によって、馬車を取り囲んでいた巨大な魔獣たちの唸り声は、やがて絶命の悲鳴へと変わり、夜の静寂の中に溶けて消えていった。

 

 外から聞こえていた激しい剣戟の音や、肉を断つ鈍い音が止み、代わりにパチパチと松明の炎が爆ぜる音と、騎士たちが生存者を確認し合う低い声だけが、暗闇の街道に響いている。

 

 「よし、周辺の掃討、完了! 負傷者を救護班へ!」

 

「はっ! 直ちに!」

 

 騎士たちのキビキビとしたやり取りが聞こえてくる。

 

 私は、割れた窓ガラスの陰に深く身を潜めながら、鞄のストラップを限界まで強く握りしめ、冷たい汗が背中を伝っていくのをただただ耐えていた。

 九死に一生を得たはずの私の心臓は、安堵するどころか、むしろ先ほどの魔獣の襲撃時よりも激しく、不規則なビートを刻み続けている。

 

 (……危なかった。死ぬかと思った。……いや、違う。まだ終わってない。むしろ、ここからが本当の地獄の始まりだ……!)

 

 私は、暗い色の眼鏡の奥で、恐怖に強張った瞳を激しく揺らしていた。

 

 学園で大量の偽物に囲まれて混乱しているであろうリーシャとフィオーレ。その二人から完璧に逃げ切ったと調子に乗っていた私の前に、まさか遠征帰りのカタリナが偶然にも現れるなんて。

 

 彼女は、私の記憶のない「怯えるモブ」のフリなど通用しない、鋭い洞察力を持った女騎士だ。そして何より、規律という名の冷徹な執着を私に向けてくる、あのヤンデレヒロインの一人なのだ。

 

 もし、この白銀に変装した姿を見破られれば、私はその場で捕縛され、今度こそ二度と出られない頑丈な檻の中へと連行されるに違いない。

 

 (落ち着け。落ち着くんだ、俺。髪の色は白銀に変えた。帽子も深く被っているし、眼鏡もしている。いつものアルトとは、見た目の印象が全く違うはずだ。記憶のない、怯えるだけの哀れな旅の少年を演じきるんだ。それしか生き残る道はない……!)

 

 私は、座席の隙間に身を縮こまらせ、必死に自分に言い聞かせた。

 

 だが、その私の細い希望は、馬車の外から近づいてくる、金属鎧の重々しい足音によって、無残にも打ち砕かれそうになった。

 

 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……。


 一歩ごとに、大地の泥を踏みしめるその足音には、確固たる意志と、周囲を威圧するような強烈なオーラが宿っていた。

 

 そして。

 馬車の、大きく傾いた扉が、外から力強く押し開けられた。

 

 「乗客の皆さん、もう安全です。怪我はありませんか?」

 

 車内へと差し込んできた松明の赤い炎の光を背負い、大剣を腰の鞘に収めたカタリナが、その凛々しい姿を車内へと現した。

 

 「ああ、騎士様……! ありがとうございます……!」


 「助かりました! 本当に、ありがとうございます……!」

 

 乗り合わせていた乗客たちが、蜘蛛の子を散らすようにしてカタリナの足元へと縋り付き、涙を流して感謝の言葉を口にする。

 

 カタリナは、その長い髪を夜風に揺らしながら、一人一人の肩を優しく叩き、落ち着かせるように声をかけていく。その姿は、どこからどう見ても、民を守る正義の騎士、そのものだった。

 

 しかし。

 彼女の視線が、車内の奥、座席の隙間でガタガタと震えながら身を縮めている、私の方へと向けられたその瞬間。

 カタリナの、その凛とした琥珀色の瞳の奥に、ぞっとするような、底知れないドロドロとした暗い光が、一瞬だけ宿ったのを、私は見逃さなかった。

 

 カタリナは、縋り付く乗客たちの間を縫うようにして、ゆっくりと、しかし確実に、私の座る最奥の座席へと歩み寄ってきた。

 

 ザッ。

 

 彼女の磨き抜かれた金属のブーツが、私の目の前で止まる。

 

 「……そこの、白銀の髪の少年」

 

 カタリナの、低く、しかしひどく染み渡るような声が、私の頭上から降ってきた。

 

 「ひっ……! あ、あ、あの……。な、何でしょうか……? ぼ、僕、ただの、臆病な旅の者でして……」

 

 私は、記憶のない、ただ怯えているだけの哀れなモブのフリを全力で発動させ、ガタガタと派手に震えながら、ゆっくりと顔を上げた。

 

 ツバの広い帽子を目深に被り、暗い色の眼鏡の奥で、涙目になりながら怯えた演技を続ける。

 

 カタリナは、私のその姿を、彫刻のように美しい無表情のまま、じっと見下ろしていた。

 

 彼女の全身から漂ってくる、魔獣の返り血の生臭い臭いと、彼女自身の持つ、冷徹なまでの「規律」の威圧感が、車内の狭い空間に充満していく。

 

 「……随分と、怯えているようですね。……怪我はありませんか?」

 

 カタリナは、そう言いながら、ゆっくりと、私の前へと身をかがめた。

 

 彼女の美しい顔が、私の目の前、わずか数十センチの距離にまで近づく。

 

 (や、やばい、やばい……。近すぎる……っ!)

 

 私は、心臓が口から飛び出そうになるのを必死で堪えながら、伏し目がちにして視線を泳がせた。

 

 「あ、あの、大丈夫です……。どこも、怪我は、していませんから……」

 

 「……そうですか。それは重畳です」

 

 カタリナは、私の答えを聞いても、その場から動こうとはしなかった。

 それどころか、彼女は、手袋をはめたその細い指を、ゆっくりと、私の被っている帽子のツバへと伸ばしてきた。

 

 「……ですが、顔色がひどく悪い。念のため、その深い帽子と、眼鏡を外して、顔を見せていただけますか? 騎士として、乗客の正確な安全確認を行う義務がありますので」

 

 カタリナのその言葉は、一見すると、親切な騎士の気遣いのように聞こえた。

 だが、その声のトーンは、かつて学園で私を追い詰めた時の、あの逃げ場を許さない、絶対的な「規律」を執行する時のそれと、全く同じだった。

 

 (しまっ……! やっぱり怪しまれてる……っ!?)

 

 私は、全身の血が引いていくのを感じた。

 ここで帽子と眼鏡を外されれば、いくら髪の色を白銀に変えていようとも、至近距離での顔の造形から、本物のアルトであると見破られるのは時間の問題だった。

 

 カタリナの指が、私の帽子のツバに、そっと触れる。

 

 その瞬間、私は、彼女の琥珀色の瞳の奥に、かつてないほどに歪んだ、どろりとした深い執着の炎が、ゆらりと燃え上がるのを見てしまった。

 

 (だ、だめだ……! 捕まる……! ここまで来て、またあの地獄に逆戻りなんて、絶対に嫌だ……っ!)

 

 私は、自由への渇望と、捕まることへの恐怖から、心の中で絶叫しながら、ただただ固まっていることしかできなかった。

 

 はたして、私はこの絶体絶命の包囲網から、今度こそ首の皮一枚で逃れることができるのだろうか。それとも、カタリナの放つ「規律」という名の狂気の檻に、ついに囚われてしまうのだろうか。

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