第9話 凪の指先、嵐の残響③
学園の宿舎、理事長専用の私室――夜。
暖炉の火が爆ぜる音だけが響く静寂の中で、ナナキは今日一日で片付いた書類の量を思い返し、満足げに目を閉じていた。
すでに食事も、湯浴みも終えてパジャマの上からナイトガウンを羽織っただけの軽装だ。
セラは朝の雪だるま状態からは脱し、メイドスタイルで給仕に励んでいる。
(……悪くない。いや、最高に効率的だ)
隣で静かにハーブティーを淹れ直すセラの気配。
その「凪」のような存在が、これほどまでに自分の生活に馴染むとは、タラッサの海の上で彼女を拾った時には思いもしなかった。
「ナナキ様。少し、根を詰めすぎましたね。……眼鏡を貸してください、レンズが曇っています」
「ああ……本当だね」
メガネを外し、セラへと手渡す。
幼い頃より魔術の研究に傾倒していたナナキは、在学中には視力を悪くし、今では本をメガネなしで読むのがやっとだ。
外したら、ぼやけた視界でよく見えないし仕事も不可能。
あの嵐の中でメガネを預けた経験がそうさせるのか、ナナキは完全に気を緩めていた。
「ナナキ様、目が赤いですね。見せていただけますか――」
ぼんやりとした視界の中、ぼやけた手がナナキの顔に伸びてくる。
ナナキはびくりと体を仰け反らせて、伸びてきた手を半ば反射的に勢いよく叩いた。
「ッ!?」
――パシン。という乾いた音と、そこにある小さな人影。
どんな表情か、ナナキには見えない。
「っ……顔に触れるなと初日に言っただろう。死にたいのかい?」
反射的に放った拒絶は、自分でも驚くほど冷たく、鋭い刃のようだった。
セラは即座に頭を下げた。
彼女の両手は下にあるのに、誰からも触れられていないはずの頬に、遅れて何かが這うような錯覚が走りナナキは確認するように自分の頬に手をやった。熱い。
(触るな……触るな……っ)
「申し訳ありません。目が充血されていたので確認させていただこうと」
顔に伸ばされた、ぼんやりとした手の残像。
それが、あの部屋で自分を弄んだあの太い手首と重なる。
「……いや……」
ぞわっと触れていないはずの感触が、全身を這い回る。
一瞬、世界の位置がズレる。
今は……。
ここは――あの部屋?
……違う、違う。ここは――ここ、どこ?
「――……ま」
呼吸のリズムがわからない。
自分の呼吸の音がうるさすぎて何も聞こえない。
――と、急に落ち着く凪のエーテルがナナキのエーテル導管に流れて一気に引き戻された。
「……ナキ様――ナナキ様」
ぼんやりした視界の中で、何の感情も感じられない、落ち着いた紫の瞳が見える。
ああ、これはタラッサから拾ってきた――そうだ、ここは、学校の宿舎だ。
「あ……セラか……すまない。僕……ぼーっとしてたみたいだ」
曖昧に微笑んで見せる。うまく笑えているかは、わからない。
肩に置かれた指が、するりと引いて冷たいセラのエーテルも同時に引いた。
彼女に引き戻された――。
「だいぶお疲れのご様子、もうご就寝なさってはいかがでしょうか」
「……そう、するよ。悪いね、治療が受けれなくて」
「いえ。ご体調の良い時に行いますので、気になさらないでください」
ナナキは小さく頷いた。
椅子の肘掛けに手をかけてなんとか立ち上がり、ナナキは重たい体を引きずるようにして寝室に逃げ込み厳重に防御陣を貼る。
今のナナキには、誰にも入ってこれない空間が必要だった。
ナイトランプをつけて、ベッドの上に倒れ込みクッションを抱え込む。
「……ほんっと、やだな」
力も、地位も手に入れた。
金もある。もう誰にも縛られない。近づける人間も自分で選んでる。
もう指先一つで武装した集団を無力化することも、殺すこともできる。
それなのに、あの地獄を共有した彼女が傍からいなくなると途端にダメだ。
心がポキンと折れて、あの部屋へと戻ってしまう。
「あれから何年経ってると思ってるんだい……ナナキ・エルドン……」
しばらくそうして天井を見つめていたナナキだが、ため息と共に起き上がりナイトテーブル上の藤色の手紙を手に取った。
姉から来ている定期連絡兼――おそらく縁談の話だ。
残酷に断ってやりたい。
トラウマの反動で何かをひどく傷つけてやりたい気持ちが胸から湧き上がって仕方がなかった。
「……はあー、どれどれ?今度はどんな
――愛するナナキへ。
貴方の「黒衣の理事長」としての振る舞いは、今やエルドン家の重要なブランドの一部よ。
先日の夜会を欠席した件、社交界では「神秘的」と好意的に捉えられているけれど、次はそうはいかないわ。
ところで、いつまで「家が途絶えた娘」との、身分不相応な恋愛ごっこを続けているの?
掃き溜めの泥をどれだけ磨いても、宝石にはならないわ。
貴方のリソースをそのような無価値なものに割くのは、家への背信行為よ。
貴方の価値を最大化するために、来月、王立魔導院の令嬢との会食をセッティングしたわよ。
彼女の家系はエーテル伝導率の安定性に定評があるの。貴方の「先祖返り」の資質を次代に繋ぐためにも、これ以上の適任はいないわね。
……もちろん、私の顔を潰すようなことはしないわよね? 期待しているわ、私の可愛い傑作。
姉セレナ・フォン・アイゼンハイムより――。
「……フッ、相変わらずだね姉さん。僕は姉さんに造られたわけじゃないのに。……僕の姉のくせに、これほど記憶力が悪いとは驚きだ」
ナナキは真紅の瞳に、底冷えするような軽蔑と嘲笑を浮かべて微笑む。
王立魔導院の令嬢。
そこと深く繋がることで、エルドン家と、嫁ぎ先のアイゼンハイム家の地位をより向上させたい……。
という意図が、もはや透けているどころか、剥き出しの臓物のように浅ましく横たわっている。
「僕の援助が切れたら、その高貴な生活も立ち行かなくなるだろうに。……さて、地獄の底まで響くような返事を書こうか」
空中に羊皮紙を浮かべ、魔術で動かす羽根ペンが、怒りを乗せて走り始める。
――親愛なる姉上。
アイゼンハイム家における「資産管理」のご苦労、お察しいたします。
さて、ご提案いただいた会食の件ですが、謹んで辞退させていただきます。
「エーテル伝導率の安定性」――なるほど、凡庸な魔導師を量産するには最適なサンプルですね。
しかし、僕という規格外の変異種に、そのような「計算可能な退屈」を掛け合わせるのは、エルドン家のブランド価値を著しく損なう行為だとは思いませんか?
それから、僕の私生活について。
十六歳の時に、僕という人間に「価格」をつけて売り飛ばした家が、今更どの口で僕の価値を語るのですか?
貴方たちが僕を「傑作」と呼ぶたびに、その浅ましさに吐き気がします。
傑作とは、貴方たちの所有物ではなく、貴方たちの理解の及ばぬ場所で完成するものなのです。
これ以上、僕の領域に踏み込まないでください。
貴方たちに売られたあの日、僕と家との糸は、物理的にも精神的にも完全に断ち切られています。
ご自身の審美眼が、これ以上「欲」という名の煤で曇らぬよう、一考されることを切に願っております。
敬具 ナナキ。
さらさらと、流れるような筆致で綴られた、絶縁状に近い明確な拒絶。
ナナキは満足げに唇の端を吊り上げると、羊皮紙に手を滑らせてインクを乾燥させ、丸める。
「これを受け取った時の姉さんの顔が見ものだね。……憤死して2度と見られなくなる前に、カラスを配置しておかなくちゃ」
カラスを呼びつけて窓を開け、窓枠に留まったカラスの足に魔術で圧縮した手紙をつけてやる。
「これ、姉さんに届けておくれ。溜まったエーテル煤も、あちらの立派な庭園にでも落としてくるといい」
カラスはナナキの命令にカーと鳴いて了承の意を示し、夜の闇へと溶けていった。
飛び立っていくカラスを見つめながら、ナナキは苦笑し、椅子に深く身を沈める。
「……ったく。あんな古い亡霊を振り払うために、姉さんのような低俗な相手を叩かなきゃならないなんて。僕もだいぶ焼きが回ったかな」
ふと、入れ替わるように一羽の使い魔が窓を叩いた。受け取ったのは、簡素な、けれど温かみのある小さな手紙。
「おや、リリかな。どれどれ……」
――ナナキへ。今期春のヴァルクレイン卿からの受注を終えて、帰りの馬車に乗りました。貴方が戻っているなら、私ももっと早く戻ればよかった。閣下からお土産もいただきました。貴方が使用人を雇うなんて驚き。どんな方か楽しみ。リリより。
「……ふふ。おかえり、リリ」
姉の書き殴った「商品目録」のような手紙とは対照的な、ただの生存報告。
ナナキはその手紙を、壊れ物を扱うように丁寧に折り畳み、デスクの最も深い引き出し――「自分」を保つための場所に、静かにしまった。
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