第39話 禁忌契約と不倫関係の考察

 バルツァー辺境伯爵邸の「軍議の間」には、晩秋の沈みゆく夕日が血のような残光を投げ入れていた。

 部屋の設えは、実用一点張りで飾り気がない。中央に鎮座するのは、長年の酷使で角が丸くなった巨大な樫のテーブル。

 その上に広げられた領地地図には、六箇所のダンジョンマークが記され、そのうちの三つに「×」印が重ねられていた。

 

 俺達、勇者パーティ一行は、三つ目の魔王のサブダンジョン攻略報告に来ていた。

 

「――それでは、この後はこの部屋を自由にお使いください」

 

 騎士団参謀パーシバル殿が、事務的な一礼を残して退出する。


 扉が閉まり、静寂が降りる。

 俺はテーブルを囲む五人の仲間に視線を巡らせた。誰もが、俺の口から語られる「力」の正体を待っている。

 

「それじゃあ、約束通り――俺の力の秘密を説明させてもらうよ」


 俺は心の中で、思考の海に沈んでいる相棒を呼び出す。

 

(アビス。視覚化できるか?)

《了解、アルト。屈折率を調整し、視覚認識を可能にします》


 俺の顔の横、空間がわずかに歪んだ。

 微かな魔力の脈動と共に、半透明の青紫色の結晶体が静かに顕現した。

 正十二面体の整ったフォルムは無駄に美しく、夕光を透かしながら緩やかに回転し、冷たい光を放っている。

 

《初めまして、皆さん。私は深淵叡智端末アビス=レイザル。禁忌の悪魔と呼ばれています。お気軽に“アビス”とお呼びください》

「こいつが、俺の力の正体だ。……皆」


 俺の言葉が、部屋の空気を一気に凍りつかせた。

 アビスは、感情のない平坦な声で続ける。

 

《アルトの説明を補足します。現在は契約者アルトの補助として、深淵に蓄積された情報を基に魔法術式の構築・最適化を行っています。他にも多数の機能を有しています》

 

 目の前では、五者五様の反応が渦巻いていた。

 

「うおっ、超クールだな、アルト! マジ、かっけぇわ」


 グラムが口笛を吹いて、能天気に笑った。

 悪魔という単語の重みを理解していないのか、あるいは「強ければ良し」という短絡思考なのか。相変わらずの脳天気ぶりに、少しだけ殺意に近い疲労を覚える。

 

「うわぁ……っ」


 一方でミリアは、恐怖よりも好奇心が勝ったらしい。

 テーブルに手をつき、身を乗り出してアビスを凝視している。その目は、新種の精霊を見つけた子供のように輝いていた。


 バロックは、細い目を見開き、無言で俺とアビスを交互に見ている。

 流石、年長者、悪魔如きでは驚かないんだろう。

 

 そして、リーネ。

 彼女は言葉を失ったまま、ただ心配そうに俺を見つめている。その瞳には、悲痛な自責の念が透けて見えた。

 

 だが、最も深刻なのはやはりこの人だった。

 

「……悪魔、契約、なんて……」


 フィオナが、愕然とした表情で絶句していた。

 国家公認の聖女、神の敬虔な信徒である彼女にとって、悪魔との契約は容認し難い行為だろう。


 そんな重苦しい空気を切り裂いたのは、ミリアの無邪気な質問だった。

 

「ハイ質問! あの複雑な精霊魔法や合体魔法も、アビスさんが作ったんですか?」

「そうだ。アビスが何千万通りのコードから、その場で最適解を生成した」

《補足します。私が生成したコードを、アルトが確認し、術式に問題がないと判断した場合にのみ魔法は実行されています。

 アルトは私が提示する論理を完全に理解し、制御しています》


 アビスの淡々とした解説に、俺は小さく息を吐いた。

 俺が天才なのではない。俺はただ、アビスという超高性能の計算機が吐き出す結果を、正しく「利用」しているだけだ。


 俺は、真っ青な顔のまま固まっている聖女へと視線を向けた。

 

「フィオナ。今まで黙っていてすまない。……どうして俺がこうなったか、経緯を説明させてもらってもいいか?」


 顔面蒼白の彼女は、震える手で自身の聖印を握りしめながらも、かろうじて頷いた。

 俺は一度、リーネを見た。

 

「リーネ。済まないが、嫌な話をすることになる」

「……ううん。アルト、気にしないで」


 彼女は悲しげで、それでいて気遣わしげな瞳を向けてくる。

 

「知っての通り、俺はリーネと離婚した。……あの時、俺の精神は色々と不安定になってな」


 リーネが唇を噛み、辛そうに俯く。彼女の自責の念が、部屋の温度をさらに下げた気がした。

 

「それで、師匠のアルカードの勧めで、アビスと契約した。代償は、俺の『感情』だ」

 

 フィオナが息を呑み、痛ましい表情で俺を直視する。

 沈黙を破ったのは、バロックさんの低く落ち着いた声だった。

 

「待ってくれ、アルト。それでは、時々お前が無表情になるのは……」

「流石だな、バロック。そうだ。耐えがたい感情が溢れそうになった時、アビスにそれを『削って』もらっている」

 

 バロックさんは静かに目を閉じ、重いため息を吐いた。

 

「……そうか。言いにくいことを聞いた。許してくれ、アルト」

 

 俺はフィオナに向け、さらに事務的な「保証」を提示する。

 

「アビスとの契約については、賢者の学院の『魔導倫理委員会』で審査承認を受けている。定期的な魔法のログ提出とモニタリングを、義務付けられている」

「……良かった。学院の管理下なのですね」

 

 彼女の顔に、ようやく少しだけ血色が戻る。


「賢者の学院の倫理委員会は、教会の異端審問会に比べればだいぶ緩いけどな」

 

 俺は乾いた笑いを浮かべる。


「なんかよくわかんねえけど、便利ならいいじゃん!」

 

 そこで、勇者様がキラキラした笑顔でサムズアップした。

 

「誰も困ってないんだろ? アルトだって強くなってよかったじゃん。万々歳だぜ!」

「グラムさん。そんな単純な話ではありません」

 

 頭痛をこらえるように額に手を当て、フィオナが声を絞り出した。

 いつもの柔和な聖女の顔ではない。教会の守護者として、そして一人の人間として、目の前の軽薄な男へ警鐘を鳴らす厳しい表情だ。

 

「悪魔は、人の理の外にある存在です。そのような存在と契約するということは、私たちが想像もしていない……世界そのものを変質させるようなリスクを孕んでいるんです」

 

 その言葉の重みは、部屋の空気を物理的に圧迫するほどだった。

 少なくとも、俺やバロックさんはその重圧を肌で感じている。

 

 だが、この男は違った。

 

「へーそーなのか。難しいな」


 グラムは、まるで明日の献立何がいい?と言われた程度の顔で、後頭部を掻いた。

 

「まあ、フィオナとアルトが良いなら、それでいいや」

 

 その屈託のない、しかし空虚な笑顔。

 

 俺はこの時、グラム・ハルバードという男の本質を、これまで以上に深く理解してしまった気がした。

 

(……なるほど。そういうことか)


 こいつは、他人を拒絶しないし、物事を否定もしない。

 だが、それは慈愛や理解の結果じゃない。少なくとも、そうは見えない。


 何かが欠けているのか。

 それとも、単に何も考えていないだけか。

 ……どちらにせよ、健全ではないだろう。

 

 だから、異質なものや禁忌を目の当たりにしても、恐怖や忌避を感じない。ただ「へーそーなんだ」で済ませてしまえる。

 

(人が弱っている時に縋るには、これ以上ない男だろうな。悪徳宗教の勧誘とかやらせたら、相手を否定せずに地獄までエスコートしてくれそうだ)

 

 視界の片隅にリーネが映る。

 ははっ、と内心で乾いた笑いが漏れる。

 判ったところで、俺のこの空虚が埋まるわけでも、グラムを許せるようになるわけでもないのだけれど。

 

《アルト。SAN(精神耐久)値の低下を確認。精神防壁を展開しますか?》

(……今はいいよ、アビス。ただの独り言だ)

 

 フィオナが一通りグラムをたしなめた後、俺に向き直った。


「……わかりました、アルトさん。悪魔アビス=レイザルが賢者の学院の管理下にあるということは、理解しました」


 フィオナが、ようやくいくらか血色の戻った顔で深く息を吐いた。

 だが、その茶色の瞳には、聖職者としての譲れない一線が、鋭い光となって残っている。

 

「ただ、大変恐縮なのですが……あなたがその『悪魔』と契約に至るまでの経緯を、もう少し詳しく教えていただけますか? 私も聖女という立場上、この件は教会に報告しなければなりません。今、教えていただいた情報だけでは、異端審問会を納得させることはできないでしょうから」

 

 ごもっともな意見だ。

 

 教会の連中がどれだけ教条主義的で、一度「黒」と決めた対象に執拗かは、俺も知っている。

 ここで曖昧な返答をすれば、魔王を倒す前に俺が火炙りにされる未来が確定する。

 

「……判ったよ、フィオナ。必要な事は全部話そう」

 

 俺は頷き、それから視線を少しだけ横にずらした。

 

 そこには、俺とフィオナのやり取りを一言も漏らすまいと、祈るような、ひどく真剣な目で見つめているリーネがいた。

 

 銀色の髪が、軍議の間に差し込む斜陽に透けている。

 

 これから俺が話すのは、俺が壊れていた時の話だ。

 ドロドロに腐り果てた、復讐と憎悪の記憶。

 俺はそれを、元嫁に聞いて欲しくなかった。

 

「……済まない、リーネ」


 ほんの一瞬、言葉を探す。

 

「これから話すことは……お前にだけは、聞かせたくないんだ。責めてる訳じゃない。だから…」


 それでも、言わずにはいられなかった。

 

「席を外してくれないか」

 

 その言葉は、物理的な衝撃となって彼女を撃ったようだった。

 リーネの瞳が、一瞬だけ剥き出しの痛みに見開かれる。

 彼女は何かを言いたげに、薄い唇を小さく震わせた。

「アルト、私は……」という言葉になりかけの呼気が漏れるが、それ以上は続かない。

 俺の乾いた視線に射抜かれ、彼女は力なく視線を伏せ、俯いた。

 

「…………わかりました」

 

 消え入りそうな声だった。

 彼女の背中が、今は驚くほど小さく、脆く見える。

 拒絶された、という事実。

 俺の「秘密」の共有から、明確に除外されたという境界線。

 

 それを、今の彼女がどう受け止めたのか。

 そんな事を考えていたら、俺はまた理解した。


(……ああ、そうか。俺はリーネに嫌われたくないんだ)


 唐突に、ルッカ村の夜の記憶が頭に浮かぶ。

 あの晩、リーネが俺に語った言葉。


『アルトに、そんな弱いところを見せたくなかった。常に強くて、気高くて、あなたの隣に立つに相応しい『剣士リーネ』でいたかった……あの時は、貴方につまらない女って、思われたくなかったの』


 ……リーネも、俺に嫌われたくなかったのかもしれない。

 あの時の言葉は、そういう響きだった。


 好きな相手に、弱さや醜さは見せたくない。

 ……少なくとも、俺はそうだ。

 ごめんな、リーネ。

 

 俺には、正確に測ることはできない。

 ただ、彼女が握りしめた拳が微かに震えていることだけが、静かな部屋の中でひどく饒舌に「痛み」を物語っていた。


「……話せるようになったら、必ず話すよ。ごめん、リーネ。今はまだ、俺に勇気がないだけなんだ」

 

 俯いたままの彼女に、俺はそれだけを告げた。嘘ではない。ただ、「いつ」話せるようになるか、今はまだわからない。

 我ながら、情け無い。

 

「あと、すまん。グラムとミリアも、席を外してくれ」

 

 その言葉に、ミリアは小さく肩を揺らした。

 だが、場の空気の「重さ」を敏感に察したのだろう。いつもの無邪気な笑顔を消し、神妙な顔つきで「……判りました」と短く答えた。

 

「よし、わかったぜ!」

 

 一方で、グラムは相変わらずのレスポンスの速さで立ち上がった。

 一寸の迷いも、一抹の懸念もない、すがすがしいまでの快諾。

 こいつを見ていると、時々、深い断崖を覗き込んでいるような気分になる。

 

 三人が部屋の扉へと向かう。

 

 扉が閉まる直前、静まり返った廊下からグラムの明るい声が聞こえてきた。

 

「よーし、お前ら、晩飯食いに行こうぜ! 腹が減って、寝れなかったからな!」

 

 ……あいつ、本当に無敵だな。

 今の今まで悪魔が出てきて「感情を削っている」なんて話をしていた直後に、どうしてあんなに「普通」でいられるのか。

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