これからと、藤代家と(3)


あの大雨の夜から、72時間後。

正式にふたりのための部屋──結局は最初に内見した、駅から15分の2LDK。ユウ曰く、「同じ条件で柏木中央で部屋を借りるなら、倍は掛かる破格の部屋」──を正式に契約して、48時間後。「早急にお互いのマンションの退去日とか、決めなくちゃね」とナナがはにかんでから、24時間後。平日の仕事終わり、電話越しにふたりで過ごす、いつもの時間。ナナは何の気なしに、そうだと声を上げた。


「そうだ。ユウにね、いい報告があるの。」

「いい報告ですか?」

「そ。すっごくいい報告!」


ユウは電話口のナナのあまりに嬉しそうな声に思わず頬を緩めると、「では、心して聞かないといけませんね。」と答える。とはいえ明日もまだまだ平日、やることは山積みだ。ユウは茶碗を洗いながら、「ながらですみません。」と謝った。ナナはそんなことをいちいち謝るユウにケラケラ笑うと、パーティーハットを被ったくまのぬいぐるみを抱き締めながら気にしていないと言った。


「あのね。今日、お昼にお父さんから電話がかかってきたの。」


ひとしきり笑ったあと、ナナは電話口でそう呟いた。ユウは思わず皿を洗う手を止めると、じっと耳を澄ませた。


──それは、謝罪なのか。はたまた怒りなのか。


緊張しなくともあの雨の日の夜の慎二を思い出せば、結果は一目瞭然だった。それでも、ユウは耳を澄まして集中する。

……もし、自分の余計な行動で、この人のことを更に傷つけていたらどうしよう。

そんなことを考えると、嫌でも心臓のあたりが傷んだ。けれどそんなユウとは対照的に、ナナは明るい声──それも、優しさと柔らかさとが滲んだ声でユウの望んでいた、もとい彼がこれはエゴだと知りながらもそうせずにはいられなかった事柄に向き合う言葉を、口にした。


「『悪かった』ってね、言われたよ。──ずっと、いい子の私に甘えてたって。それから、どんな経緯であれ家族になったのに、向き合おうとしてこなかったって。お母さんも、同じこと言ってるって。」

「………そうですか。」


ユウはただ、静かにそう答える。否、そう答えるしかなかった。


──確かに、藤代慎二と藤代美和という夫婦は、ナナに甘えていた。良い子で、物分りが良いナナに甘えていた。無意識とはいえそれに甘え、努力をしてこなかった。良いところだけを切り取って、『家族』というラベルを貼っていた。

けれどその謝罪を以て、それは過去の話になった。急に変わるのは難しいかもしれない。でも、藤代慎二という男はきちんと自分の過去に、過ちに向き合って、子供に謝ることが出来た親なのだ。

──これからは、きっと良い関係になれる。ユウはそんなことを思うと、思わず微笑んだ。時間はかかるかもしれないけれど、自分がそうだったように、ナナも誰かの『子供』になれる。それは綺麗にサンプリングとラベリングされた『理想の子供』ではないかもしれない。時に衝突したり、はたまた手が出たりする、理想とも模範ともかけ離れているかもしれない。でも、きっと、それが『本当の子供』だ。『家族』で、『家庭』だ。


 (………良かった。ナナさんの、大切なものが減らなくて。)


ユウはゆっくりと安堵の吐息を吐くと、水道の蛇口を捻った。ぬるめのお湯で泡まみれの食器たちをひとつひとつ、丁寧に洗い流していく。排水溝に消えていく泡たちに、『本当は余計なお世話だったんじゃないか』『エゴだらけの僕って、嫌な奴だったかも』なんて、彼らしい余計な心配と優しい不安を重ねながら。


「それからね。お父さんとお母さんも、もう反対してないって。」

「………そうですか。」


ユウは変わらず同じ返事を繰り返す。否、それ以外の返事は不要だった。ナナの両親がナナに向かい合ってくれたこと、その上で自分たちの関係を認めてくれたこと──それだけでもう、余計な言葉なんていらないくらいに胸がいっぱいだった。

初めてビールで酔えた夜のような高揚感と、安心感と、充実感と。それだけで、充分だった。


「……ね。ユウ、さっきから『そうですか』ばっかり!嬉しくないの?」

「いえ、嬉しいですよ。…嬉しすぎて、それ以外の言葉が思い浮かばないんです。」

「………本当?」

「本当です。」


ユウはなんとも執拗に疑ってくるナナに苦笑する。苦笑しながらも、可愛い人だなとつい頬が緩んでしまうのを感じると、これがただの通話で良かったと心底思った。

もしビデオ通話だったら、きっと揶揄われていたに違いない。──それはそれできっとしあわせだろうけど、と考えながら、ユウは再度蛇口を捻るとお湯を止めた。ナナの心底嬉しそうな声を聞いているうちに、シンクも食器もすっかり綺麗になっていた。


「……じゃ、ビデオ通話にして?顔見て判断するからさ。」

「………それは、単にナナさんが僕の顔を見たいだけでは…?」

「あはは、…バレた?」


ユウは案の定と言うべきか、予定調和と言うべきか。顔が見たいと言い出したナナに再度苦笑しながら、タオルで濡れた手を拭く。近頃の通話は、決まってそうだった。何かにつけてナナは顔が見たいとせがんで、ユウは呆れて。そのくせら内心嬉しくて堪らないのだからユウは自分で自分を笑ってしまう。

けれど二つ返事で了承するのはなんだか悔しくて、負けた気がして。一体なんの勝負をしているんだとやっぱり自分で自分に呆れつつ、気が付けばビデオ通話の項目をタップしている。そしてそれは今日も同じで、ユウはキッチンからリビングに移動すると、ナナにちゃんと顔を見せられるようにスマホスタンドにスマホを置いてから、通話設定を弄る。ビデオ通話と書かれた箇所をタップすると、画面には自分の顔が映った。


「わ〜い、ユウだ!」

「はいはい、あなたのユウですよ。」

「…ちょっと。『私の』とは言ってなくない!?」

「じゃあ、違うんですか?」


恥ずかしいのか、照れているのか。はたまた図星なのか、やけに細かい言葉ひとつにムキになるナナに、ユウは嫌でも緩んでしまう頬をごく自然に頬杖に見せかけて隠すと、わざと素知らぬ顔と声でそう尋ねる。我ながらずるい男になったなと呆れつつ、いまだに片方は音声通話の画面をじっと見つめる。ナナ側の画面は真っ暗なままなのに、ユウにはその真っ暗な画面の向こう側──ひとりの部屋で照れては頬を赤らめ、パーティーハットのくまのぬいぐるみにしがみついては悶えるナナの姿が手に取るようにわかった。


「ちょっと!勝手に共鳴しないでよ!!」

「だってナナさん、いまだに音声通話じゃないですか。」


想像ではなく、共鳴。それも意識的に共鳴させられたことに対して、ナナは抗議の声を上げる。が、ユウはそれを軽く躱すと、寧ろここぞとばかりに相変わらず照れてるナナをくすりと笑った。

(………可愛い人だな、本当に。)そんなことを強く思って念じて見れば、電話口の向こうでナナが悶える音がして、ユウは思わず声を上げて笑ってしまった。


「ちょっとユウ?!あんた、そんなキャラだっけ?もっとこう…、捨てられた犬みたいな!そういうキャラじゃなかった!?」

「では、捨て犬系男子は卒業ということで。」


ユウは揶揄いと、それから今のしあわせな状況を噛み締めるのを兼ねて、つい先日耳にしたばかりの言葉を使ってみた。すると電話の向こうのナナは黙り込んで、代わりに形容しがたい感情──『猫被ってたな?!』とか、『弟のくせに』だとか、なんともナナらしい騒がしい感情が流れ込んできたものだから、またしても声を出して笑ってしまった。


「…で。いつになったらビデオ通話に切り替えてくれるんですか?姉さん。」

「……そんなこという弟に育てた覚えはありません!」

「当然ですよ。育てられてませんから。ね、姉さん。」

「ああもう、姉さん姉さんうるさい〜!!」


遂には何も言い返せなくなってギャンギャンと騒ぐだけになってしまったナナにユウは目を細めると、この恋人ともきょうだいとも似つかない、けれど確かに『自分たち』にしか出せない音と温度とに笑顔で浸る。


「ビデオ通話してくれないなら、今からそっち、行きますからね。姉さん。」


冗談半分。けれど、半分は確かに本気で。ユウは半分開けた網戸の向こう、暗いもののほんのりと明るい夜の闇に目を向けながら、ユウはそんな言葉を口にした。ナナはきっとまた、電話口で鼓膜に残るくらいの声で喚くのだろうなと想像しながら。


けれど予想に反してそう口にした瞬間、ナナは黙り込んでしまった。思いもよらない反応にユウは何か地雷を踏んだか、もしくは揶揄い過ぎたかと慌てふためく。

あんまりにも反応が可愛いからと、姉さんと呼びすぎた?本当は嫌だった?それとも、今から行くだなんて重すぎて嫌われただろうか──?

不安と、後悔と、罪悪感とが頭の中でぐるぐると回っては、交代交代にユウを責める。無言の時間が、重くのしかかる。けれどその度に罪悪感に押し潰されそうになるユウの耳に、ぽつり、ナナのか細い声が届いた。


「──来てよ。」

「………はい?」


思わず、声が上擦った。掠れてもいた。確実に不格好だった。自分の弱さと醜さとを最高の割合でブレンドした、最低のマリアージュだった。なのに電話口のナナは、そんなことを気にするユウを嘲笑うかのように、今度ははっきりと言った。


「──会いに来てよ。」


ナナの声が震える。恥ずかしさと、照れくささと、それから、愛おしさで。甘えてもいいと知った弱さに酔いしれながら、震える。


「私、いつだって、ユウに会いたい。理由がなくても、ユウと一緒にいたい。……隣に、いて欲しい。」──ナナが言い終わるより先に、ユウは窓を閉めた。それから部屋着のポケットにスマホと家の鍵と財布とだけを捩じ込むと通話はそのまま、家を出ると鍵をかけてから頭の中の時刻表を思い浮かべる。


駅に向かう最中、くしゃみが出たのは。

多分、夜の寒さのせいじゃなくて、あの日の雨の名残だ。

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