公序良俗。それらはいったい何を示しているのであろうか。
この物語の登場人物たちは、すべからく、それから外れている。
それはなぜか。
彼らが邪悪であるから。不快な存在であるから。
ポリティカル・コレクトネスが自明のものとなった現代、そう表立って口にする人はいなくなった。
だが、それが制度化され、口にすることが悪、とされたからこそ、それらは無視され、無かったものとして世界から放逐される。
制度として「普通の学校」「普通の会社」からはじき出され、「病人」「障碍者」としての枠組みでの生活を与えられ、そこからはみ出すことを許されない。
親から、親類から殺され、そして世界からも殺される。
彼らの魂は二重の意味で許されない。それが現代社会である。
そんな彼らが自らの生を自分のものとするために編み出した所作が、リストカットであり、自傷行為であり、そしてこの物語のテーマとなるOD・オーバードーズである。
この作品では規定量に囚われない薬物摂取を、生存に不可欠、かつ、代替え不可能な手段として扱っている。
単に愚か者の逃避、反社会的な遊戯として薬物は描かれていない。
これは一般的な小説作法の視座から大いに飛躍している。
この点がこの作品の白眉である。
作者はこの作品を読むことによって、薬物摂取の必要性、当事者の切実さを描くことに成功している。明らかに反社会的行為である、という自認を含んでいるにもかかわらず。
しかし、その方法が管理され、いかに経験則に根差した安全性をもって運用されたとしても後日、深刻な健康被害をもたらすことは想像に難くない。
事実、それによって身体を棄損し、生命を失う、もしくは危険にさらした類例は事欠かない。
それをもって、当事者たちを非難、軽蔑することはたやすい。
だがしかし、はたしてそれは本当に正当な行為だろうか。
彼らにはそれしか残されていないのである。
いや、他に色々な方法がある、簡単な方法に流されているだけだ。そんな批判がすぐに聞こえてくる。
だがしかし、待って欲しい。
ではそう批判するあなたは、他の方法、簡単でない方法を彼らに提示したのか? 身をもって、目の前で、手渡しで、相手の目を見て、誠心誠意、あなたの真心を持って、伝えたのか?
甘えるな。
そういわれるかもしれない。
だが、そのセリフはそれを吐くもの自身を刺す。二重の殺人を自身の胸に突き立てられ、傷つき、それでも尚、生を抱いて手放さなかった人々のどこに甘えがあるのか。傷つけられた幼子が、命を育み、その自らの身体で立とうとする意志のどこが甘えなのか。
彼らの手にはそれしかなかった。それ以外を見通す視野を与える社会が存在しなかった。それは彼らの責任ではない。社会の責任である。我々の責任である。私たち一人一人の責任である。今、言葉を弄するすべての人々は当事者である。被告なのだ。
この、救いのない四面楚歌のただ中で、主人公は懸命に自らの生を掴み、そして同じ境遇の者たちとの連帯を信じている。
この作品のラストはその意味での信仰の結実であり、彼らへの祝福、祈りとして機能している。
心の空虚に囚われた事のある者ならば、誰もが読むべき物語である。