夢喰い東京
月夜 宴
第1話 席がない
山手線の終電が止まった。
高橋悠は目を覚ました。車内に他の乗客はいなかった。窓の外は駅名だった。どの駅か、一秒考えてわからなかった。
立ち上がろうとした。空気が重かった。肩から腕にかけて、見えない何かが乗っているような重さだった。前後左右から均等に押さえつけてくる。密度が高かった。
座っていた席を見た。クッションが凹んでいなかった。形が整っていた。手で押した。弾力があった。体温がなかった。
窓ガラスに顔を向けた。反射像があった。悠が右手を上げた。反射像が遅れて右手を上げた。コンマ数秒ではなかった。一秒以上の遅れだった。
ドアが開いた。
降りた。ホームに出た瞬間、足音が遅れた。足裏がコンクリートに着く。音が来ない。二拍待つと、音が届いた。床が一歩ごとに沈んだ。コンクリートが体重を吸い込むように、数ミリ下がった。
改札に向かった。改札機の列が見えた。ICカードを取り出した。タッチした。
タッチした瞬間だけ、改札が消えた。
手の中にカードがあった。前に何もなかった。床だけがあった。一秒後、機械が戻っていた。指先にプラスチックの感触が残っていた。エラー音が鳴った。
『この経路での入場記録がありません。』
駅員に声をかけた。駅員は振り向いた。悠の右側を見た。頷いた。前を向いた。
悠は改札を押した。センサーが反応しなかった。通り抜けた。
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夜の中野を歩いた。アスファルトが熱を放っていた。八月の深夜で、空気がべったりと肌に貼りついた。
マンション四階の廊下を歩いていると、427号室の扉が閉まる音がした。悠はまだ廊下の入口にいた。鍵は手の中にあった。扉の下の隙間から、部屋の電気が漏れていた。オレンジ色の光だった。悠の部屋の電球は白色だった。
鍵を差し込んだ。開いた。電気がついていた。白色だった。
誰もいなかった。
机の上に紙があった。明日の打ち合わせのリスト、買い忘れた牛乳、クライアントへの電話の件。内容は悠が書くべきことだった。字が悠の筆跡より少し丁寧だった。
紙を手に取った。温かかった。置かれてから時間が経っていないような温かさだった。
壁に耳を当てた。コンクリートが収縮していた。規則的に、呼吸のように。手のひらを当てると、体温があった。
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翌朝、会社に着いた。
午前中、コピーの草稿を書いた。キーボードの感触があった。画面に文字が並んだ。昼に確認しようとした。ファイルが存在しなかった。隣の同僚に聞いた。「今日、高橋さんずっとミーティングに出てましたよね」と言った。
帰り、同じ路線の電車に乗った。窓側に座った。外が暗くなると、窓ガラスに車内が映った。悠が窓側に座っているのに、反射像は通路側に映っていた。
悠は手を窓につけた。冷たかった。反射像が同じように手を窓につけた。冷たさが反対側から来るような感触があった。
終点で降りた。ホームに車両の窓が並んでいた。歩きながら順番に確認した。自分が座っていた席を探した。どの窓にも、その席が映っていなかった。
最後の窓の前で止まった。ガラスの表面が、こちらを見ていた。
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