爆裂改変オールドテイル — 狸の章 —
爆裂懐古厨
第一話 背骨はやがて、灰となり —— 壱
気持ちのいい春の日だ。透き通る緑の森の陽の下を、私は決して振り返らずに歩き続ける。
私が担ぐ
私は前を向いたまま、音の外れた鼻歌などを口ずさんでみる。意味もなく空を仰いでみたり、無駄に歩調を弾ませてやれば、傍目の私はマヌケな
「
まっすぐ前を向いて尋ねると、背後から「向こうの山に着いたらね」と透き通った彼女の声が答える。私は「早く食べたいな」と返すが、正直、栗などどうでもいい。
「君は大層うまそうに食べていたね」
「本当に美味しかったよ。中身がぎっしり詰まってて、とても甘くて」
「春なのに、あんなものをどこで見つけんだ?」
彼女はふふっと笑って「秘密」と答える。私は「なんだい」と悔しがってみせるが、彼女があの栗をジジイにもらったことを知っている。
「向こうの山は随分遠いな」
私は決して後ろを振り向かず、せっせと森を歩いていく。今の私は、『栗が欲しくて向こうの山へ着くのを急いでいる』という設定だ。
カチカチ、カチカチ——
すぐ後ろで、火打ち石を合わせる乾いた音。私はやはり振り返らず、
「兎、このカチカチいうのは、一体なんの音だろうか」
「あなた、知らないの? この山はカチカチ山って言うんだよ」
「へえ。知らなかった。君は物知りだな」
カチカチ、カチカチ——
私はその音を聞き流す。何度も音が鳴り続けるのは、兎が火打ち石の扱いに慣れていないからだろう。彼女の小さく可愛らしい手には、無骨な石より花が似合う。
カチカチ、カチカチ——
音が徐々に近づいてきた。火の粉を背負い子の芝に移すのに、距離があってはダメだと、ようやく気づいたのか。
私は考える。
彼女は今日この時のために、火打ち石の扱いを練習しなかったのだろうか。
私の分の背負い子に湿った芝ばかり括りつけようとした彼女は、人間が薪を乾かす理由を知らないのだろう。
木の実より肉を好む私が栗を欲しがらなかったら、一体どうするつもりだったのか。
(……甘いな)
カチカチ、カチカチ——
背後でパチパチと芝の先が燃える音。それから彼女のホッとした様子のため息が聞こえて、代わりに火打ち石の音が消えた。
「兎」
呼ぶと、背後の少し離れたところから「なに?」と彼女の応える声。きちんと距離を取ったらしい。
「今日はとても天気がいいな」
「そうだね」
「ごらん。向こうでタカが飛んでいる。帰りは気をつけなければならないよ」
「あなたが食べられちゃうから?」
「いいや。君が連れ去られてしまうからだ」
パチパチ、パチパチ——
今、ひとつ確かなことは、兎が火をつけるのを早まったということ。それは火打ち石を初めて使うからか、私が彼女の思惑に気づくことを恐れたためか、理由はわからない。
私はこの山が『カチカチ山』などという馬鹿げた名前でないことを知っている。何せここは、私が住まう山だから。
そして、彼女が暮らした山でもある。
私が燃える芝に驚いて背負い子を放り投げたなら。あるいは、背中が焼ける苦痛に地べたを転げ回ったなら。炎はそこかしこに燃え広がり、この山は灰と化すだろう。
私が死んだなら、ここは私が住まう山ではなくなる。しかし、彼女が暮らした山ではあり続ける。ゆえに彼女は、川を隔てた向こうの山で火をつけるべきだった。
ボウボウ、ボウボウ——
「兎、このボウボウという音はなんだろうか」
「向こうの山の音だよ。あの山はボウボウ山って言うの」
「へえ。君はたくさんのことを知っているな」
こんなことを考える私は、礼儀正しい悪役だ。
向こうの山も、こちらの山も、等しく誰かの住まいであり、故郷であり、帰る場所だ。それを差し置き、自分の大切なものの有無で燃えてもいい場所を断じるなど、非情と言ってしかるべき。
ゆえに私は、燃えるべきは向こうの山と結論する。
ボウボウ、ボウボウ——
背後から一陣の山風が吹き、背負い子の芝を焼く炎が背中に達した。
私は立ち止まり、後ろの足音も止まったことを確認してから振り返る。
「君の分の芝も、私が持って行こう」
言って手を差し伸べると、兎の赤い瞳が困惑に揺れた。「どうして?」と尋ねる彼女の瞳の表面に、揺れる炎が反射する。
「なんだか暑くなってきた。その白い毛はまだ冬用だろう? 向こうの山まで歩くのは大変だ」
「あなただって、もこもこしてるじゃない」
「私は元々こういう体型なんだ」
私が「ほら、早く」と言って指先を曲げると、兎は「嘘つき」と顔を歪めた。
「いつから気づいてたの? いつから、騙されたフリをしてたの?」
「私は何も知らないさ。向こうの山に芝を置いて戻ったら、ちゃんと栗の実を分けてくれな」
「嘘。あなたは戻らないくせに」
「さて、どうだろう」
私がおどけて見せると、兎はまた一層顔を歪めた。それでも彼女の風貌が美しいのは、彼女が正義の側にあるからだろう。
ボウボウ、ボウボウ——
私の背中で炎は鳴り続ける。
兎が自分の背負い子を投げ捨て、悔しそうに両手を握りしめた。私はそれを拾い上げ、「気をつけて帰るのだよ」と言って斜めの空を仰ぐ。
踵を返し、しばらく。兎が駆け出し、軽い足音が遠ざかっていく。
「たいへん! 家事だ! 家事だよ!」
彼女の澄んだ声を聞きながら、私は向こうの山を目指して歩き出す。
そうして、結局のところ兎の予想は外れた。私の背中を焼き続けた炎は、川を渡る最中に背負い子が崩れて落ちたから。
こちらの山も、向こうの山も、灰になることはなかった。
私は焼けた背中の痛みを伴い、住み慣れた森の帰路についた。兎の棲家には寄らず、まっすぐ巣穴に帰って丸まり、眠りについた。
なぜなら、私は栗よりスズメの肉が好きだから。
* * *
当たり前に呼吸ができる時は、誰も、空気の有り難さなど理解しない。
例えば、風邪で鼻が詰まった時。あるいは、水底へ沈みゆく過程。呼吸ができない状況にあって初めて、これまで呼吸ができていたことに気づく。
夜があるから朝日を眩く感じる。
いずれ死ぬから今を尊く思う。
悲しみがあるから喜びがあり、悪があるから正義は輝かしい。
この物語は、そういう話だ。
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