​雪に消えたI LOVE YOU

八咫 日本

​第1話:奪われた胸と、すれ違う微笑み

十一月の札幌。

 北国の秋は短く、街を彩っていた銀杏の葉が冷たい北風に吹き飛ばされる頃には、すでに冬の足音がすぐそこまで迫っている。吐く息は白く、道行く学生たちは皆、足早に講義棟へと吸い込まれていった。

​ 遠野健司(とおの けんじ)は、キャンパスの隅にある古いベンチに一人腰掛け、文庫本に視線を落としていた。

 大学二年生。目立つグループに属するわけでもなく、サークル活動にも参加していない彼は、常に一人だった。周囲から見れば「大人しくて無口な学生」だが、彼自身の内面は決して空虚ではない。むしろ、彼の脳内には常に壮大でロマンチックな物語が広がっており、現実世界の些末な出来事よりも、自分の思考の世界に浸っている方がずっと心地よかった。

 彼にとって、この無機質な大学生活は「運命の出会い」を待つための、単なる準備期間に過ぎなかったのだ。

​ ――その「運命」は、唐突に訪れた。

​ 三限目の大講義室。数百人が収容できるすり鉢状の教室の、中段の端の席。それが健司の定位置だった。

 教授の単調な声が響く中、健司はふと、斜め前の席に座る女子学生の後ろ姿に目を奪われた。

 艶やかな、少しだけ茶色がかった肩までの髪。華奢な背中。彼女がノートにペンを走らせるたびに、ふわりとシャンプーの甘い香りが健司の鼻腔をくすぐった。

​ 白石理沙(しらいし りさ)。

 同じ学部の同級生だ。彼女は健司とは対極にいるような存在で、常に明るく、友人に囲まれ、弾けるような笑顔を見せている。健司も彼女の名前と顔くらいは知っていたが、これまで接点を持つことは一度もなかった。

​ 講義の終了を告げるチャイムが鳴り、学生たちが出入り口へと向かってどやどやと立ち上がり始めた時のことだ。

 理沙がバッグに荷物を詰める際、彼女の筆箱から一本のピンク色のマーカーペンが転がり落ちた。

 カラン、という軽い音を立てて、ペンは傾斜のある床を転がり、ちょうど健司の足元で止まった。

​ 健司は、ゆっくりと手を伸ばしてそのペンを拾い上げた。

 プラスチックの表面から、彼女の指の微かな温もりが伝わってくるような気がした。

​「あ、すみません。落としちゃって」

 振り返った理沙が、申し訳なさそうに小首を傾げた。

 健司は無言のまま、拾ったペンを彼女へと差し出した。

​「ありがとうございます!」

 ペンを受け取った理沙は、パッと花が咲いたような明るい笑顔を見せた。

 そして、健司の目を真っ直ぐに見て、ほんの数秒だけ視線を交わし、友人の元へと小走りで去っていった。

​ ドクン、と。

 健司の心臓が、今まで経験したことのないほどの大きな音を立てて跳ねた。

​ ――生まれて初めて 恋に奪われたあの胸。

​ 健司の頭の中で、雷に打たれたような衝撃が走った。

 なんだ、今の笑顔は。

 ただの社交辞令の「ありがとう」ではない。彼女の瞳は、確かに俺に向かって何かを語りかけていた。あんなにも優しく、慈しむような瞳で俺を見るなんて。

 彼女は、俺のことを見ていたんだ。ずっと前から、俺のことに気づいていて……今日、わざとペンを落として、きっかけを作ったに違いない。

​ 健司の脳内で、現実の些細なピースが、彼に都合の良い強固な「運命の物語」へと急速に再構築されていく。

​『ありがとう』

 その言葉の裏に隠された、彼女の震えるような想い。

『やっと、話せたね』

 健司には、彼女の瞳がそう言っているように確信できた。

​「……見つけた」

 誰もいなくなった講義室で、健司は自分の胸を強く押さえたまま、恍惚とした表情で呟いた。

 これまでの孤独な日々は、すべて今日、彼女と出会うための試練だったのだ。

​ 一方その頃。

 大講義室を出て、学食へと向かっていた理沙は、友人の美香(みか)と他愛のない会話を交わしていた。

「今日のお昼、何食べる? 私、オムライスにしよっかな」

「私もー。あ、そういえば理沙、さっきペン落とした時、後ろの席の男の人に拾ってもらってたでしょ」

 美香が、思い出したように言った。

​「うん? ああ、そうそう。助かったよ」

「あの人、いつも一人で一番端っこに座ってる遠野って人でしょ? なんか、理沙にペン渡す時、すっごいジロジロ見てて……ちょっと気持ち悪くなかった?」

 美香が眉をひそめて言うと、理沙は「え?」と不思議そうに目を瞬かせた。

​「そうかな? 別に普通だったよ。無口な人だなぁとは思ったけど」

「理沙は人が良すぎるのよ。誰にでも愛想良く笑いかけるから、変な男に勘違いされないように気をつけてよ? 達也(たつや)くんにも怒られちゃうよ」

「もう、美香ったら大げさだなぁ。達也にそんなことで怒られたりしないって。ただペン拾ってもらって、お礼言っただけだもん」

​ 理沙はケラケラと笑い、オムライスの食券を買うために列に並んだ。

 彼女にとって、先ほどの出来事は「日常のほんの一コマ」に過ぎなかった。ペンを落とし、親切な同級生が拾ってくれた。だから笑顔でお礼を言った。それ以上の意味など、一ミリも存在しなかった。

 理沙には、他大学に通う優しい恋人がいる。彼女の心の中には、見知らぬ同級生が入り込む隙など、最初から全くなかったのだ。

​ だが、そんな現実の壁は、健司の強固な妄想の前では、ティッシュペーパーよりも薄く、意味を持たないものだった。

​ その夜。

 健司は、大学近くの古いアパートの自室で、机に向かっていた。

 部屋の明かりは電気スタンドだけが点いており、薄暗い空間の中で、健司のペンの走る音だけがカリカリと響いている。

​ 彼の目の前には、真新しい大学ノートが開かれていた。

 そこには、びっしりと、隙間なく文字が書き込まれている。

​『理沙、理沙、理沙。君の笑顔が頭から離れない。君も僕と同じ気持ちだったんだね』

『ずっと見つめ合っていたかった。君の震える気持ち、ちゃんと僕に届いたよ』

​ ――届かぬ思い伝えられずにいた。

 ――震える気持ち 押えられずにいた。

​ 健司は、理沙もまた、自分と同じように「ずっと前から好意を寄せていたが、恥ずかしくて伝えられずにいた」のだと完全に思い込んでいた。

 あの瞬間の、彼女の「ありがとう」という言葉の裏にある、激しい愛情の波。それを健司は完璧に受信したのだ。

​ 健司は、ノートの新しいページをめくった。

 そして、黒いボールペンを強く握りしめ、書き始めた。

​『好きだ』

『好きだ好きだ』

『好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ』

​ ――好きだ好きだ好きだ好きだと書いた手紙。

​ 余白が真っ黒に埋め尽くされるほど、異常な筆圧で『好きだ』という文字が何百回、何千回とノートに刻み込まれていく。

 ペン先が紙を破ってもお構いなしに、健司は狂ったように文字を書き連ねた。

​ これは、僕から君への愛の証明だ。

 君が勇気を出して想いを伝えてくれたのだから、今度は僕が、この溢れんばかりの愛を君に届けなければならない。

 この手紙(ノート)を渡せば、彼女はきっと、照れくさそうに微笑みながら僕の胸に飛び込んでくるはずだ。

​ 想像するだけで、健司の頬が緩む。

 孤独だった自室が、突如として薔薇色に輝く愛の空間へと変貌したのだ。

 彼はノートを胸に抱きしめ、天井を見上げて深く息を吸い込んだ。シャンプーの香りが、まだ鼻の奥に残っているような気がした。

​ 翌日。

 講義が終わった後の夕暮れ時。

 健司は、キャンパスの駐輪場から、自分の古い自転車を引き出した。

 これから、彼女と同じ空気を吸いながら、彼女の住む街の景色を見て帰ろう。

​ 健司は自転車に跨り、ペダルを力強く漕ぎ出した。

 札幌の十一月の夜道は、肌を刺すように冷たい。だが、健司の体は内側から燃え上がるような熱を帯びていた。

​ ――帰る夜道に自転車走らせて。

 ――熱い吐息に思いをよぎらせた。

​ ハァ、ハァと白く濁る吐息。

 冷たい風を切って走るたびに、健司の脳内では、昨日の理沙の笑顔がスローモーションで何度も何度もリフレインしていた。

​『ありがとうございます!』

 彼女の笑顔。彼女の声。

 あれは、「愛しています」という言葉の裏返しだ。

 僕たちはもう、お互いの気持ちを確認し合った、かけがえのない恋人同士なのだ。

​ 健司は、自転車を漕ぎながら、夜空に向かって声に出して笑った。

「あはは……理沙、僕もだよ。僕も君を愛してる」

​ 誰もいない夜道に、健司の異様な笑い声が響く。

 彼が向かっているのは、自分のアパートの方向ではなかった。

 今日、講義の後に彼が密かに行ったこと。それは、学部の学生名簿をこっそりと盗み見し、白石理沙の『住所』を特定することだった。

​ 健司の自転車は、彼自身のアパートとは全く逆の方向にある、閑静な住宅街へと向かってスピードを上げていく。

 愛する「彼女」の家を、その目で確かめるために。そして、彼女の帰りを、恋人として見守るために。

​ 冷たい初冬の風が、健司のコートの裾をバサバサと揺らす。

 純粋で、そして狂気に満ちた「妄想の恋」は、誰にも気づかれることなく、静かに、だが確実に、現実の白石理沙の平穏な日常を侵食し始めていた。

​ まだ雪の降らない、暗く凍てつく札幌の夜。

 届くはずのない、いや、届いてはならない歪んだ『I LOVE YOU』が、夜空に黒い染みのように広がっていくのだった。

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