マグノリアの咲く街へ -Magnolia:The Blooming
白いのりとり
プロローグ
買ったばかりのローファーを酷使し、少女は息を切らしながらただひたすらに走り続けていた。夕暮れ時、薄暗い街を、北の方向へ。
理由などわかるはずがなかった。何でこんなことが起きているのか、全く理解できない。今、少女を追いかけている男に聞けば答えてくれるかもしれないが、それは死を自ら迎えに行くのと同義だ。
ふと背後を一瞥すれば、男が目を血走らせた鬼のような表情で追いかけてきている。オレンジ色の作業着に黒いジャケットを羽織った男は、まさに不審者そのものだ。
止まれば死が待ち受け、止まらねば永遠に逃げまとうことになる。流れゆく人々は、何事かと逃げる少女とそれを追いかける男を見つめている。警察が目撃してくれれば幸運だが、こういう時に限って警察の姿は見当たらない。少女は路地裏や住宅街のような入り組んだ場所に入りながら逃げ続けていた。
四月の穏やかな風を感じる余裕などなく、今この男から逃げることが精いっぱいな少女はさらに走り続け、気が付けばこの街の二つの地区を分ける境界、柳川に架かる橋までやって来た。
少女の通う高校からこの柳川大橋までは相当距離がある。直線距離でも四キロはあるのだから、随分と長い間逃げ回ってきたということになる。少女は息を切らし、橋の中央でひざまずいた。後ろを見れば、男もまた息を切らして一歩、また一歩と歩いてきていた。どこまでもしつこい男である。
「何なの、あんた……!」少女が言った。
逃げる体力がなくなった少女は男を睨み付ける。
「体力があるな、お前は……」男は半開きのジャケットの内側に手を入れた。「昔から、変わってない」
「学校終わりのうちを待ち伏せてここまで追い回して……、ストーカーもびっくりだよ」
「偉そうな口を利ける体力は……、あるんだな」
男も相当体力を消費したようで、未だに呼吸が乱れている。
少女は、じりじりと近づいてくる男に見覚えがあった。
昨日の夜、少女が宿題を終えてベッドに寝そべってスマートフォンを眺めていた時だった。メール機能も備えた世界的に有名なソーシャルネットワーキングサービス、「
“少年院から男が逃走”
と書かれた記事が投稿されていた。投稿からものの数秒で瞬く間に拡散され、大きな反響を呼んでいた。
囚人は未成年であるため、実名では報道されなかったものの、インターネット上の住人が顔と名前を割り出し、その個人情報という名の玩具が全世界に拡散された。
少年は刑務官をなぎ倒し、塀を飛び越えて逃走したと記事には書かれていた。大の大人が少年に力負けするとは考えにくく、何か裏があるのではないかと考えた少女はその特定された逃走犯の顔写真と名前を睨み付けていた。
その逃走犯が、今日少女に突如として襲い掛かってきたのである。
オレンジ色の作業着は少年院の服なのだ。
「ここまで来るのに、よくも警察に捕まらなかったよね……!」
少女は男を精いっぱい睨み付ける。
「少年院から出てこれたんだ。簡単に警察に捕まったりなんかしない」
男は内側のポケットから一本の注射器を取り出した。
「ちょっと! 何それ!」少女は声を荒げて言った。
状況理解が追い付くとともに、恐怖感が込み上げてくる。この男が持っている注射器は、予防接種で使うものよりはるかに大きい。
危険な薬物なのか、はたまた毒物なのか。今目の前に迫ってくる怪物から逃げることはほぼ不可能に近い。
「ちょっとした代物だ。れい、俺は昔、お前にいじめられたんだったよね?」
「はあ? 何言ってんの? いじめてたのはあんたでしょ! うちの教科書に落書きした挙句、上靴に毛虫を仕込んだでしょ!」
「お前がうざいからだよ。まあ、俺は今ここでその恨みを晴らそうってんじゃない。もっと大事なことがあるんだ」
「なに……!」
少女は勢いよく立ち上がり、再度走り出そうとした。しかし、踏み出した足は体を支えることができず、コンクリートに滑って転んでしまった。
「痛い……」
「さ、警察が来る前にチャッチャとやってしまうぞ」
男は少女の前に立つと、注射器の針を向けて腕を一度空へ上げた。
「やめて……! お願い……!」
男の悪魔のような笑みが見えた瞬間、少女の視界が一瞬で暗転した。
おもむろに目を開けると、少女の視界に黒色の学生服が飛び込んできた。あの男が着ていたものではない、他の誰かである。
「堕ちるとこまで堕ちたな、田島」
その声の主は、制服を着た少年であった。
「え……」
少女は自分の身体が無事であることを確認し立ち上がった。すると、見慣れた少年の左腕にあの太い注射器が深々と突き刺さっているのが見えた。
「にんちゃん!」少女は制服の少年を呼ぶ。
制服の少年こと
「てめえ……! 何でこんなところに!」
田島と呼ばれた囚人は深々と刺さる注射器を勢いよく引き抜いた。にんの腕から僅かに深紅の雫が滴る。
「脱獄した挙句、れいを殺そうとするなんてな。そんなの、俺が許すわけがないだろう」
にんは腕を押さえながら田島を睨み付けた。痛みは強く、にんの表情が僅かに険しくなる。
「殺そうとなんかしてない!」田島は血相を変えて叫んだ。
「じゃあそれはなんだ!」にんも同じ勢いで声を荒げる。
「秘密だ、バーカ!」
田島が道路に唾を吐くと、その背後にパトカーが数台停車した。
「ちっ、ポリ公が!」
田島は腕時計を一瞥した。少年院を脱走してすぐに身に着けたとは思えない立派な腕時計には、「CET」の文字があった。
田島はそのまま橋の柵を飛び越え、夜を流れる川を見下ろした。
「田島! 逃げる気か!」にんが取り押さえようと駆け出した瞬間、田島は柵を掴む手を開いた。
呆気にとられるほかなかった。田島は巨大な川に身を投じ、そのまま姿を消したのである。この川は深く、流れが速いため川の中心部で転落すれば命の保証はない。それでも飛び込んだということは、それなりの勝算があったからなのだろうか、とにんは考えた。
「にんちゃん……」
「大丈夫さ、このくらい。何か注射されたけど、この通りピンピンしてる」
にんはれいに微笑みかけるが、れいは笑顔で返事をすることはできなかった。
「……」
罪の意識を感じているれいを見たにんは夕日が沈んだ、星が美しい夜空を見上げた。
「俺が学校帰りに惣菜を買いに行ってた時さ。れいがすごい勢いで走っていくもんだから、何事かって思ったんだ。んで、後ろから田島が追いかけてたから、これは何かあると思って追いかけてきたんだ」
「そうなんだ……」
「さ、警察に事情を説明しよう」
れいはただ黙って頷いただけであった。
しかし、にんが無事で終わるはずがなかった。警察に事情を話している途中、にんは突如猛烈な攻撃衝動とれいに対する性衝動に駆られたのである。
「くそ、なんだ、これは……!」
「にんちゃん……? 大丈夫なの?」
「れい、俺は……れいを……」
そう言いながらにんは自分の腕を押さえた。
「大丈夫ですか、君」警察官の心ない声が聞こえてきた。
「大丈夫、ですよ……、でも……」
そう言ってまたれいを見つめる。これ以上視界に入れば、大事な友人を傷つけかねない。
自分が自分を制御できなくなることに恐怖を感じたが、なんとか抑えることができ、事なきを得た。
「まあ、じっくりお話を聞かせてもらいますよ」
警察官はにんの体調よりも事件の方が大事な様子だった。ため息をついたにんは腕を押さえながら事情を話し始めた。
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