第3話 気づいていた名前
午後三時過ぎ。
営業一課のフロアに戻ると、いつものように声が飛んできた。
「山岸、今日も決めたんだってな」
「さすがエース」
軽く手を上げて流しながら、自分のデスクに向かう。
特別なことをしているつもりはない。ただ、やるべきことをやっているだけだ。
——そう思わないと、やっていられなかった。
数字は結果として残る。
でもその裏で、何件断られて、どれだけ頭を下げているかなんて、誰も見ていない。
(まあ、それでいいけどな)
ネクタイを少し緩めた時、ふと頭をよぎったのは、午前中の電話だった。
「経理課の齋藤です」
その一言で、思考が止まった。
(……まさか、な)
最初は、同じ名前だと思った。
でも、声を聞いた瞬間に分かってしまった。
忘れられるわけがない。
大学の頃、たった三ヶ月だけ付き合った相手。
短かったはずなのに、やけに濃く残っている記憶。
齋藤菜緒。
(なんで、ここにいるんだよ)
心の中でそう呟きながらも、声は妙に落ち着いていた。
「……久しぶり、だな」
本当は、もっと違う言葉が出そうだったのに。
驚いたとか、元気だったかとか。
聞きたいことはいくらでもあったのに、口から出たのはそれだけ。
電話を切ったあと、しばらく何も手につかなかった。
(同じ会社って、どういう確率だよ)
ありえない偶然に、変に現実感がなかった。
そして今——
営業フロアに戻った瞬間、視界の端にその姿が入った。
一瞬で分かる。
黒髪をひとつにまとめて、落ち着いた服装。
大学の頃よりも、大人びた雰囲気。
でも——
(変わってねえな)
細かいところに目がいく感じ。
周りをちゃんと見ている視線。
全部、あの頃のままだった。
気づいた瞬間、足が止まる。
向こうも、こっちを見ていた。
逃げる理由なんてないのに、なぜか一歩が出ない。
「……齋藤?」
気づけば、名前を呼んでいた。
あの頃みたいに、自然に。
「……お疲れ様です」
返ってきたのは、仕事用の声。
その距離感に、一瞬だけ胸の奥がざわつく。
(そりゃ、そうか)
もう、昔とは違う。
ここは職場で、俺たちはただの社員同士だ。
「経理課、だったんだな」
どうでもいいような言葉しか出てこない。
本当は、「なんでここにいる」とか、「会いたかった」とか、
そんなことを聞きたいくせに。
「うん。最近、異動になって」
淡々とした返事。
壁を感じる。
でもそれは、たぶん自分が作ったものだ。
——別れた時のことが、頭をよぎる。
忙しいを理由に、連絡を後回しにして。
大丈夫だろって、勝手に思って。
気づいた時には、もう遅かった。
ちゃんと向き合わなかったのは、自分の方だった。
「……久しぶり」
今さらすぎる言葉を、もう一度口にする。
それしか言えなかった。
「そうだね」
短い返事。
でも、その声が少しだけ揺れた気がした。
(……まだ、残ってるのか?)
そんな都合のいいことを考えて、すぐに打ち消す。
「あの、これ」
差し出されたファイルで、現実に引き戻される。
「ああ、これ俺の案件だ」
中身を確認しながら、意識を仕事に戻す。
でも、隣に立っている気配が、やけに近い。
(こんな距離だったっけ)
あの頃は、もっと当たり前に隣にいたのに。
「ここ、領収書の日付がずれててさ」
説明しながら、ちらっと横を見る。
真剣な顔で話を聞いている。
その表情が、変わっていなくて——
「……相変わらず、細かいとこ気づくな」
気づけば、昔と同じことを言っていた。
しまった、と思った時には遅い。
少しだけ、空気が変わる。
「……仕事だから」
目を逸らして答える菜緒。
その反応が、逆に懐かしくて。
(ああ、やっぱり)
変わってない。
でも、変わってしまった距離だけは、どうしようもない。
書類を返す時、指が触れそうになって止まる。
ほんの数センチの距離。
それが、今の二人の全部みたいだった。
「じゃあ、これで」
一歩下がる菜緒。
そのまま、戻っていく背中。
引き止めようと思えば、できたはずなのに。
「……ああ。ありがと」
それ以上の言葉が、出てこなかった。
去っていく背中を、ただ見ているだけ。
(何やってんだ、俺)
再会なんて、いくらでもやり直せるチャンスがあったはずなのに。
また同じことを繰り返している気がした。
ちゃんと踏み込めない。
本音を言えない。
あの頃と、何も変わっていない。
でも——
デスクに戻りながら、小さく息を吐く。
(次は、逃がさねえ)
今度こそ。
仕事でも、あいつとの距離でも。
曖昧なまま終わらせるつもりはなかった。
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