第12話 独立防衛(オート・ディフェンス)
ファフニール社が極秘裏に開発したF-1-Xという戦闘義体は、搭乗者の死すらも計算に組み込んでいた。
シグルドの脳が沈黙したその瞬間、彼の意志とは無関係に、右腕の義体だけに組み込まれた独自の脊髄反射プロトコル――独立防衛プロトコルが自動起動したのだ。
それは場末の立ち飲み屋で見せた、脳の指令を介さない純粋な破壊本能の、真の解放だった。
主の脳は焼き切れている。
意識はない。悲しみも、怒りも、赦しも、そこには残っていない。
だが、右腕だけが、視界がないまま脅威を認識し、別の生き物のように身構えていた。
整備ポッドの脇で硬直したままのグットルムは、ただそれを見ていた。
右手にはまだフェンリル・ファングの感触が残っている。
首裏ポートを裂いた嫌な手応えと、熱い飛沫のぬめり。
その目の前で、シグルドの右前腕装甲が凄まじい速度で展開した。
ロックが段階的に外れ、内部で高回転機構が唸る。
前腕の隙間から漏れた赤い光が、死んだシグルドの横顔を不気味に照らし出した。
そして、現れた。
超振動モノ・ブレードG-R-M。
かつて何人もの敵を装甲ごと断ち切ってきた、シグルドの魔剣。
起動と同時に、刀身は分子レベルの摩擦熱で瞬時に赤熱し、周囲の空気が陽炎のように激しく歪んだ。
グットルムには、まるでその刃が持ち主の死を知って怒っているように見えた。
次の瞬間、野獣の右腕が、背後の獲物を排除するために、水平に振り抜かれた。
速すぎて、最初は何が起きたか分からない。
赤い一閃だった。
冷酷で圧倒的な、物理的破壊力を伴う一撃。
ヴンッ――という、空気を裂く低い唸りは、遅れて耳に届いた。
超高周波で振動する熱線は、抵抗を感じさせることなく、少年の細い胴体を真横に両断した。
だが、グットルムが、自分の胴が両断されたのだと理解したのは、もう少しあとだった。
腰の上を、熱が通り抜ける。
それは痛みではなく、熱だった。
皮膚、内臓、脊椎が瞬時に焼き切られていく。
一拍おいて、切断面からすべてが噴き出した。
血。臓物。胃液。
まだ消化しきれていない安い飯の残り。
薬で泡立った体液。
少年の細い身体に詰まっていた生命の中身が、左右へまとめて撒き散らされる。
床、壁、工具棚、整備ポッドの縁。
部屋中に赤黒い飛沫が貼りついた。
上半身と下半身が、まるで最初から別々のものだったかのように遅れてずれた。
グットルムの上半身が宙でわずかに回転し、整備ポッドの脇へ叩き落ちた。
下半身は二歩ほど進んでから、膝を折って潰れた。
床へぶつかった衝撃で、切断面からさらに大量の血が溢れた。
臓物の一部が滑り出し、油膜の上でぬらりと形を変える。
そこから湯気にも似た
血とオイルと焼けた肉の匂いが、いっぺんに鼻を刺す。
メンテナンス・ルームは、工房ではなく、凄惨な解体場と化していた。
グットルムの意識は、わずかな間だけ残った。
上半身だけになった視界の先に、シグルドの右腕が見える。
G-R-Mを振り抜いた姿勢のまま、なお赤熱した刀身が唸っている。
主は死んでいる。
それなのに右腕だけが、最後の命令を完遂したことに満足した様子もなく、ただ飢えた獣のごとく次の脅威を探していた。
(ああ)
グットルムはそのとき、妙に静かだった。
(これで、よかったのかもしれない)
そう思ったわけではない。そんなきれいな諦めじゃない。
ただ、もう謝る時間も、許しを乞う時間もないことが分かっただけだ。
シグルドは最後まで怒らなかった。
泣くな、と言った。
だったらせめて、自分も泣き喚いて終わるのはやめようと思った。
実際には血が口から溢れて、格好のいいことは何一つできなかったが。
視界の端で、裸電球が赤く滲んだ。
シグルドの肩越しに見える天井の染みは、いつもと同じだった。
懐かしい、いつかの夜を思い出した。
油で汚れた手で、シグルドの首裏ポートへ差し込むケーブル。
上へ行こうぜ、と笑ったこと。
瓶詰めの空気を土産にしよう、とふざけたこと。
どれも結局、叶わなかった。
空の向こうのヴァルハラには、自分たちのようなドブネズミは最初から行く資格などなかったのだ。
グットルムの唇がかすかに動く。
声は出ない。
それでも形だけは、こう言った。
――ごめん。
その直後、上半身がびくりと痙攣し、少年の意識は血溜まりの中へ完全に沈んだ。
シグルドが守りたかったものを、彼自身の腕が破壊した。
だが、主の意志を失った鋼鉄の腕は、止まらない。
G-R-Mの刀身がさらに赤く染まる。
前腕内部で冷却機構が悲鳴を上げ、装甲の継ぎ目から火花が散った。
脅威と認識した一体の敵を排除した。
それなのにプロトコルは終了しようとしない。
首裏のポートを通して送り込まれたウイルスの痕跡を、義体側の独立回路がまだ追っているのだ。
侵入元。発信源。遠隔操作の大本。
殺すべき本当の敵は、まだ別にいる。
メンテナンス・ルームには、血と臓物の匂いだけが残った。
ポッドの脇に落ちたグットルムの上半身。
二つに分かれた下半身。
床を流れる黒赤い血。
その部屋の真ん中で、シグルドの死体はなお半身だけで生きているかのように、右腕をゆっくり持ち上げた。
まるで、本体が死んだあとでようやく本性を剥き出しにした第二の野獣だった。
グットルムの両断という、最も残酷に完遂された防衛を終えてもなお、シグルドの右前腕G-R-Mは静止することを拒んでいた。
センサーにより死亡判定を下された主の意志に代わり、独立起動した脊髄反射プロトコルは、野獣の電脳を内側から侵食し続ける真の敵を捕捉していたのである。
それは執念ではなく、冷徹な処理だった。
首裏ポートへ突き立てられたフェンリル・ファングの残滓、そこから流し込まれた致死性ウイルス、破壊された認証層の奥に残る外部制御信号の癖。
電脳の奥底、ノイズの嵐を掻き分けて、義体の独立回路はウイルスの発信源である微弱なシグナルを逆探知した。
その座標は、数千メートルの上空、厚い雲の彼方にある天上層ヴァルハラ。
ファフニール・コア中継点。
認証シャドウ「グンナル」。
目標座標が確定した瞬間、F-1-Xの右腕が
設計上の安全リミッターは完全に焼き切れ、人工筋肉のバンドが千切れんばかりに膨張する。
艶消しのガンメタル装甲は内部からの圧力に耐えきれず、接合部から火花とともにガキンッ、バキィッ、と重々しい破断音を立てて弾け飛んだ。
剥き出しになった内部フレームが、限界を超えた負荷によって真っ赤に焼けていく。
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