第6話 バーチャルシンガー
翌朝、パンの焼ける匂いとコーヒーの香りに誘われてリビングに出ると、小さなテーブルにはシーフードサラダと様々な種類のパンが所狭しと並べられていた。見栄え良く栄養もあって理想的な朝食だ。
メアちゃんは朝ごはんには目もくれず、ひとりテレビにかじりついている。時刻は九時前、泊まらせてもらってこんな時間に起きたのはちょっと気まずい。
「おはよう。寝れた?」
「あ、はい。おはようございます」
昨夜は興奮してなかなか寝つけなかったはずなのに、気づけばぐっすり眠っていたようだ。琴子さんが細い腕でコーヒーサーバーを軽く掲げてみせる。
「コーヒー飲む?」
「はい、いただきます」
「ミルクは冷蔵庫、砂糖は面倒だから我慢して」
「あ……ブラックで大丈夫です」
コーヒーを注いでもらったマグカップを持って、置き場の無いテーブルを見ながら立ち往生していると、琴子さんがミルクの入った可愛らしいコップをテーブルから拾い上げた。
「メア、朝ごはん食べないの?」
「しー! しー! 静かに!」
我が子の強い口調に、琴子さんは怒りを鎮めるように深くため息をついて、椅子をひいて私に座るように促した。
「先に食べるよー?」
「……」
「仕方ない。先に食べましょう」
テレビに夢中なメアちゃんを横目に、二人で小さな食卓を囲んだ。
「あの……」
聞きたいことが多すぎて、つい食べるよりも先に言葉が出てしまう。
「昨日のこと?」
「はい。あれって……
「うーん、歌以外の活動はしてないから、
「バーチャル・シンガー……」
耳馴染みのない言葉だ。
「それって、その……やっぱりご病気になったから、そういう活動をしてるんですか?」
「たぶん違うかな。たしかに病気になってからはじめた活動だけど、最初にVsingerの話を聞いた時、私に合ってると思ったから。だから、仮に病気になってなくてもやってたかも」
私に合ってる。というのは、tokoのファンなら納得ができる。彼女はデビュー当初からメディアに出るのを嫌っていたし、歌うこと以外のストレスをなくしたいと雑誌のインタビューでも語っていたからだ。
私のような一介の地下アイドルじゃ分からない悩みだけど、メジャーレーベルに所属するなら、嫌でもメディアに出なければいけないのは何となく想像ができる。
「まあ、今は顔出しせずに活動する歌い手なんかも当たり前の時代だけど、tokoとして活動してた私が顔を隠して名前変えたところで……それって、やっぱりtokoなのよね。私が女優なら演じ分けることもできたんだろうけど、あいにく演技は苦手なの」
「……Vsingerだと違うんですか?」
「うん。だって彼女はtokoではなくて椿百華だから、彼女を通して歌っていると自然とtokoとは違う歌声になるのよね」
私にはすぐにtokoの歌声だと分かってしまった。でも、この場合は本人が別の人格だと認識していることが重要な気がする。
「そう、きっと潜在意識がそうさせてるのよ。バーチャルの身体を持つことでスイッチするような……それがどれだけ気持ちを楽にさせてくれることか」
自信満々に語る琴子さんを見て、私はひたすら頷いた。
「あ……そういえば、美波さんにはすぐにバレたよね」
――思い出したか。
「あの、私は……ほら、最初に琴子さんの顔を見て、どこかで会ったことがあるって、ずっと考えてたからで……」と、身振り手振りを交えて説明した。
「ふーん……でも最初にバレたのがあなたで良かった。誰にも言っちゃダメだよ?」
どうやらtokoであることを隠したまま活動しているようだ。私が歌い出しの一音でわかったように、他にtokoのファンが椿百華の歌を耳にすれば、その正体にすぐに気づいたとしても不思議ではないのだが。
「リスナーは椿百華さんがtokoさんだって知ってるんですか?」
「そんなコメントをもらったこともないから、たぶん誰も気づいてないと思うけど……まだまだ無名のバーチャルシンガーだから誰も正体なんて気にならないだろうし」
「九〇〇人も見に来てて、無名なんですか?」
「トップの子なんて最大で二万人だからね。それに比べたらね」
「二万……って、アリーナ埋めるレベルじゃないですか」
会場に足を運ぶのと違ってオンラインだと手軽に見に行けるのは分かるけど、バーチャルシンガーがそんなに注目度の高いものだったなんて思いも寄らなかった。
「あ、でも最近、椿百華にもアンチが湧いてきたからさ。有名になったのかなって感じるよ」琴子さんは笑いながら言う。
「アンチ? ……あ、そういえば」
「見た?」
見た。といっても、チャット欄に「下手くそ」というコメントだけ。それでもあの中じゃ悪目立ちする。
「あ、いえ。ちょっとだけです。アンチかどうかも分からないですけど」
「いつもチャットじゃ少しだけど、コメント欄では長文で厳しいご意見くれるのよ。路上でやっても誰も見向きもしないレベルだってね」
「うわあ……メジャーのトップシンガー相手にそんなこと……」
苦笑いの私に合わせて琴子さんもからからと笑った。
「まあ、それも十年も前の話だから。当時を知るtokoのファンが配信見に来るのも、奇跡みたいな確率なんじゃない?」
「あー、たしかに。私なんてVsingerを見るのも初めてでした」
「へえ、若いのにネットカルチャーに疎い?」
「疎いんです」
「なのに初めての配信を、まさか中の人の自宅で見るなんてね」琴子さんは笑いながらサラダを頬張った。
考えてみればこの出会いはまさに奇跡。憧れの人とこうして向かい合って朝食を取っていることも信じられない。
死のうとしていたのが昨日のこととは思えないくらい、沸き上がる高揚感に包まれているのを感じた。
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