第9話 疼く本能と、タフすぎる病人
教会の猟犬を振り切り、私たちは道なき道をひたすら何日も西へと進んだ。
頭上を覆う分厚い樹冠が月明かりを完全に遮り、森の中は底知れぬ闇に沈んでいる。
獣道すら存在しない鬱蒼とした茂みを掻き分けて進むのは、想像以上に過酷だった。
容赦なく伸びる木の枝が純白のブラウスを引っ掻き、ぬかるんだ腐葉土が重く編み上げ靴にまとわりつく。
顔にへばりつく蜘蛛の巣。首筋を這う名も知らぬ虫の感触。
教会の追手から身を隠すため、魔法による身体強化も完全に封じている今の私は、
泥と汗にまみれたただの非力な少女でしかない。
加えて、鋭敏になった聴覚が、風に揺れる葉の音や、名も知らぬ虫が這う微かな音まで、
「追手の足音ではないか」と拾い上げてしまい、私の神経をゴリゴリと削り落としていく。
「……今日はここで休むわ。追手の気配はとりあえず途絶えたみたい」
太い木の根がドーム状に絡み合うくぼみを見つけ、私は短く告げた。
森の中を徒歩で移動する速度では、まだ学園から十分に離れたとは言えない。
強力な魔法を使えば、その魔力残滓を辿って再び異端審問官に見つかる可能性がある。
今夜は一切の魔法を封じ、生身で夜を明かさなければならない。
「わかった……。ごめんね、ニーナ。私のせいで」
エマは自分の二の腕に巻かれた、血のにじむ布をきゅっと押さえた。
その瞬間、微風に乗って漂ってきた生々しい匂いに、喉がキュッと狭まり、体中が痺れるほどの熱を帯びた。
……っ!
口内に湧き出す唾液を無理やり飲み下し、私は両手で口元を覆って奥歯を強く噛み締めた。
エマの傷から漂う匂いが、泥まみれで極限までストレスの溜まった私の中の、
飢えた獣の顔を直接撫で回してくる。
静まり返った森の中で、トクン、トクンという彼女の規則正しい心音と、
薄い皮膚の下を駆け巡る血の音が、すぐ耳元で鳴り響いているように錯覚する。
「ニーナ? 顔色悪いよ。やっぱり無理して魔法使ったから……」
「来ないで!」
心配して歩み寄ろうとしたエマを、私はひどく鋭い声で――ほとんど悲鳴のような声で制止した。
彼女はびくりと肩を震わせ、足を止める。
「……私が見張りをするから。あなたは怪我人なんだから、そこから動かずに休んでなさい」
「でも、ニーナだって疲れてるのに……」
「いいから! 私の治療の旅なのに、これ以上足手まといになる気!?」
きつい言葉をぶつけると、傷ついたようにシュンと肩を落とし、「うん……」と大人しく木の根元に座り込むエマ。
その姿を見て、激しい自己嫌悪が押し寄せた。
……違うの。違うのよ。
これ以上近づかれたら、理性を失って、私があなたを食い殺してしまうかもしれないから。
自分の薄汚い本能からあなたを守るためには、こうして憎まれ口を叩いて遠ざけるしかないの。
私は少し離れた切り株に腰を下ろし、エマから極力視線を外した。
荒くなる呼吸を整えようとするが、森の湿った空気は重く、血の気配をいつまでもその場に留めている。
頭では「エマだから駄目だ」と必死にブレーキをかけているのに、
体が勝手に彼女の脈打つ首筋を求めてしまう。その矛盾に脳が引き裂かれそうだった。
カチッ、カチッ。
不意に、乾いた音が闇の中で響いた。
振り返ると、エマが片手で不器用に火打ち石を打ち合わせているところだった。
集めた枯れ葉と小枝に、小さな火種が移る。
「……何してるの。煙で追手に見つかったらどうするのよ」
「だって、夜の森は冷えるから。ニーナ、寒いの苦手でしょ」
燃え上がった小さな焚き火の明かりが、エマの泥だらけの横顔を朱く照らし出した。
彼女は片腕を痛そうに庇いながらも、満足そうにふうっと息を吐く。
自分が殺されかけた傷の痛みよりも、私が風邪を引くことの方を心配しているのだ。
「火の番は私がするから、ニーナもこっちで……」
「私はここでいいわ」
「そっか。じゃあ、おやすみ……」
エマは私の拒絶にあっさりと引き下がると、木の根に寄りかかり、目を閉じた。
そして、本当に数分と経たないうちに、すぅ、すぅ、と規則正しい寝息を立て始めたではないか。
それどころか、だらしなく半開きになった口元から「んん……お肉……」と、平和すぎる寝言までこぼれ落ちる。
「……嘘でしょ」
私は呆気にとられ、ぽつりと呟いた。
数日前に教会の猟犬に殺されかけ、腕の肉を裂かれたばかりだというのに。
追手がすぐそこまで迫っているかもしれない森のど真ん中で、どういう神経をしていれば即座に爆睡できるのか。
私があんなにも化け物の本能と必死に戦い、あなたを食い殺さないように一人で深刻に悩んでいたというのに。
当の「餌」本人は、私の苦悩など微塵も知らずに平和な夢を見ているのだ。
「……本当に、勝手な子」
彼女の図太さに呆れ果てると、不思議と、ギリギリまで張り詰めていた狂気がスゥッと引いていくのを感じた。
私は深いため息をつき、膝を抱える。
エマが起こしてくれた焚き火の熱が、冷え切った夜気越しに、私の泥だらけの頬をじんわりと撫でていた。
人間の熱。無償の優しさ。
その温もりに少しだけ救われながらも、私の喉の奥には、
いつか彼女を傷つけてしまうかもしれないという仄暗い血の渇きが、未だにこびりついて離れなかった。
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