第7話 星月夜の逃亡と、終わらない嘘

 深夜。

 薄暗い女子寮の一室で、私は机の上に一通の封筒をそっと置いた。

 『退学届――および、辺境への療養願い』


「……よし、これで完璧ね。明朝、これを教務所のポストに入れてから堂々と正門を出ましょう」


 私の隣で、エマが声を潜めて頷いた。

 私の奇病のろいが悪化し、学園に迷惑をかけられないため治療の旅に出る。

 それが、私たちが作り上げた建前だった。


 ふと、窓の外の気配に違和感を覚え、視線を落とした。

 中庭の暗闇の中に、不自然に揺れる複数の松明の明かりが見えた。

 風に乗って、松明のヤニが焦げる嫌な臭いが、閉め切った窓の隙間から漂ってくる。


「……っ」


 目を凝らすと、松明を掲げた白銀の法衣の男たちが、学園内の見回りを始めているのが見えた。

 背中に刺繍された剣と炎の意匠。異端審問官だ。

 彼らの動きは想定よりもずっと早い。

 恐らく、明日には私の身辺調査が本格化し、正門など到底抜けられなくなるだろう。


「……マズいことになったわ」

「えっ? どうしたの、ニーナ」


 私は窓のカーテンを少しだけめくり、エマに見せた。

 松明の光を見たエマが、不思議そうに首を傾げる。


「教会の人間よ。……エマ、さっき話したでしょう。私の『呪い』は、教会からは不浄なものとして異端扱いされるって」

「う、うん……見つかったら、火あぶりにされるかもって……」

「明日の朝まで待っていたら、確実に見つかる。あいつらは、私の呪いの気配を嗅ぎつけてきたのよ」


 私はわざと華奢な肩を震わせ、喉を絞ってひどく怯えたような、か細い声を作った。

 エマの顔色が、一瞬でさっと青ざめる。

 そして次の瞬間には、獲物を前にした獣のような、強い決意の色に変わった。


「そんな……っ! ダメだよ、見つかったらニーナが……! 今すぐ逃げなきゃ!」

「ええ。だから予定を変更して、今夜このまま裏門から抜け出すわ。

 エマ、あなたは剣術クラスの倉庫に行って、野外活動用のテントとあなたの剣を取ってきて」

「わかった! ニーナは自分の荷物をまとめて、先に裏門へ向かってて!」


 力強く頷いたエマが、音を立てずに素早く部屋を飛び出していく。


「……お願いね、エマ」


 その背中を見送ってから、私はギリッと奥歯を噛み締めた。


 ……最低だ。

 自分の命を守るため、あの子の純粋な善意と正義感を言葉巧みに利用している。

 胸の奥がひどく軋んだが、今はそんな感傷に浸っている余裕などない。


 私は立ち上がり、三年間エマと過ごしたこの部屋を見まわした。

 毎朝のルーチンから始まり、期待される優等生としての孤独で、それでも充実した日々。

 審問官に追われてここを離れる以上、二度と学園に戻ってくることはない。

 これまで築き上げてきた物が一瞬で失われ、二度と手に入らない。


 頭を振って思考を断ち切り、大急ぎで荷造りを再開する。

 急な逃避行、ましてや突然の前倒しのせいでろくな荷物も十分な資金も持ち出せない。

 辛く苦しい旅路になるだろう。


 それでも、逃げなければいけない。

 机の引き出しの奥から、万が一のために貼り付けておいた1枚の金貨をむしり取る。

 銀貨の詰まった財布代わりの革袋に金貨を放り込み、鞄の底に押し込んで口を閉じる。


 松明の松ヤニの匂いが次第に濃くなってきた。そろそろ潮時だ。

 エマは無事に裏門に向かえているだろうか。

 

 三年間で得た物で持ち出せるのは、この鞄一つ分の荷物と学園で得た知識――

 そして、私の嘘に騙されて、化け物の護衛としてついてくるというルームメイト一人。

 使える物はそれが何であれ、全て使って逃げ延びてみせる。

 どれ一つとして決して手放してなるものか。

 仄暗い炎を心にともし、三年間の生活との決別を終えた。

 

 私は最低限の荷物を詰めた革鞄を手に取り、窓枠に足をかけた。

 風の魔法で自身の体重を羽のように軽くし、二階の窓から夜の芝生へと舞い降りる。

 そのまま、校舎の影を縫うように走り、待ち合わせ場所である裏門へと急いだ。


 * * *


「ニーナ……!」


 古びた鉄扉の影から、ひそやかな声が漏れた。

 暗がりから現れたエマは、大きなリュックを背負い、腰に愛用の剣を帯びている。

 目立たないように地味なローブを羽織っていたが、

 あれだけの重装備を背負って息一つ切らしていないのは、流石というべきだろうか。


「ありがとう、エマ。怪我はない?」

「うん。裏門の鍵も、倉庫から一緒に拝借してきたよ」


 エマが錆びた鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。

 重い金属音が鳴らないよう、私が杖の先から微かな水滴を垂らして蝶番を濡らす。

 ギィ……というくぐもった音と共に、外界へと続く分厚い鉄扉がわずかに開いた。


 その時だ。


「――そこの者、何をしている」


 背後から、氷のように冷たく、感情の抜け落ちた声が響いた。

 振り返ると、十メートルほど先の木立の影に、

 教会の紋章が刻まれたランタンを提げた異端審問官がヌッと立ち塞がっていた。


 風に乗って、彼らの身につけている聖銀の冷ややかな匂いと、

 異端避けの香の煙たさが鼻を突いた。

 喉の奥がカラカラに渇き、膝がガクガクと震え出した。


「ひっ……!」


 私が息を飲んだ瞬間、エマが咄嗟に私の前に立ち塞がり、剣の柄に手をかけた。


「夜間外出は禁じられているはずだ。顔を見せなさい」


 審問官が、金属のブーツの音を鳴らしてゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

 ランタンの光が、私の顔を照らし出そうとした。


 ――バレる。顔を見られれば終わりだ。

 かといって、ここで強大な魔法を使えば異端であることが確定してしまう。


濃霧よミスト!』


 私は詠唱を最小限に留め、持てる魔力の多くを足元の湿った土へと一気に流し込んだ。

 ボフッ! と爆発的な音を立てて、周囲一帯が視界を真っ白に染め上げるほどの濃密な霧に包まれた。


「なっ……!?」

「エマ、走って!」

「うんっ!」


 エマは迷うことなく私の腕を強く掴み、開いた裏門の隙間から外の世界へと飛び出した。

 走るにつれ前へ前へと強く引かれる腕。

 その力強さに、震えていた心に再び力が宿る。


 エマの隣に並び、ただひたすらに走った。

 肺が悲鳴を上げ、体中が空気を求めている。

 背後で審問官の怒声と霧を切り裂く鋭い剣の音が聞こえたが、振り返っている暇などなかった。

 いくら離れても、すぐ後ろでザッザッと白銀のブーツが押し寄せる音の幻聴がつきまとい、

 首筋へ振り抜かれる白刃の剣閃を幻視した。

 

 私たちは夜の闇と鬱蒼とした木々を隠れ蓑にして、ただひたすらに森の奥へと走り続けた。


 * * *


 どれくらい走っただろうか。

 東の空が白み始め、学園の時計塔が遥か遠くのシルエットに変わった頃、

 私たちはようやく街道沿いの小さな廃屋に倒れ込んだ。


「はぁっ、はぁっ……逃げ切れた、よね……?」

「ええ……なんとか……」


 息を切らしたエマがへたり込む。私もその隣に座り込み、乱れた呼吸を整えた。

 泥だらけの足は棒のように重く、恐怖と緊張のせいか手がカタカタいっていた。

 もしあの時、少しでも対応が遅れていたら、間違いなく捕まって業火に焼かれていたはずだ。


「ニーナ、すごかったね! あんな一瞬で霧を出すなんて。

 ……でも、無理しちゃダメだよ。呪いが進行しちゃうかもしれないから」


 エマは自身の疲労など忘れたように、私の背中を一定のリズムで優しくさすってくれた。


「ありがとう、エマ。あなたが一緒に来てくれなかったら、私……本当に教会に殺されていたわ」

「気にしないで。私たちが目指す『幻の泉』は、西の辺境にあるんだよね。

 道のりは長いけど、私が絶対にニーナを守り抜くから」


 朝日が差し込む廃屋の中で、エマは希望に満ちた明るい笑顔を見せた。

 その眩しさに目を細めながら、私は心の中で静かに息を吐いた。


 ……ごめんなさい、エマ。

 あなたを騙して、危険な旅に巻き込んでいる私を許さなくていい。

 でも、あの泉を見つけてただの人間になれるまで、私はこの残酷な嘘をつき続ける。

 罰は、その時に甘んじて受けよう。


「少し、眠ろっか」と隣で丸くなったエマから、

 温かい体温と、生々しい血の脈動の匂いが漂ってくる。


 その命の気配に至近距離であてられながら、私は闇の中で静かに、

 そしてひどく鋭く疼き始めた牙の先端を、そっと舌でなぞった。

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